千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  
旧館の「千の天使がバスケットボールする」http://blog.goo.ne.jp/konstanze/

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2013.12.15 Sunday

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2007.12.23 Sunday

『クロイツェル・ソナタ』

クロ重厚で一度聴いたら耳にずっと残るドラマチックな和音ではじまる「クロイツェル・ソナタ」(Kreutzer Sonate)。1803年に作曲されたL・V・ベートーベンのソナタの中でも最高傑作のこの曲に着想をえて、ひとつの小説がうまれた。ロシアの文豪トルストイによって1888年に書かれた『クロイツェル・ソナタ』のマウリツィオ・シャッラ(Maurizio Sciarra)監督により映画化されたのが、本作品である。

イタリア、ローマの空港で飛ばないN・Y便を待つ乗客たちから離れて、ひとりでコーヒーを飲んでいる憔悴した男性に興味をもった老紳士が、彼に声をかける。飛行機はいつ飛ぶか判らない。長い旅になりそうだ。
やがて、彼は憔悴してぎらぎらとした瞳をまっすぐに見つめて、自分は妻を殺した殺人者だと打ち明けて、長い話をはじめる。

アンドレア(ジョルジョ・パソッティ)は、資産家の後継ぎ息子。家庭教師に育てられ、仕事は母親によって与えられた彼女が大株主である銀行のファンド・マネージャーとして生活費のためでなく働く。10回もの音楽家との婚約と破談騒動の末、ひとめぼれをして結婚したのは「クィンテット」でピアノを弾いていた田舎出身のピアニスト。ふたりは、幸福の絶頂の新婚旅行の途中で妻アントニア(ヴァネッサ・インコントラーダ)の友人を訪ねがてら彼らが出演する演奏会にでかけたのだったが、そこで男性ヴァイオリニストの演奏に、官能的ともいえる感動をあらわす美しい妻に、アンドレアの胸には激しくも狂おしい嫉妬の炎がめばえてきたのだった。。。(以下、内容にふみこんでおります。)


くろ2最初の場面で、長い長い階段をゆっくりおりてくる黒い服のやつれた青年を迎えるのは母と秘書、そしてミッドナイト・ブルーの磨かれた高級な車。原作では貴族だったが、現代では完全なるブルジョア。決してパンのために、手を汚す必要はない。頭脳明晰、端正な容姿に、すべてが手にはいる資産家の跡取で美貌のピアニストも手に入れたのに、たったひとつ、ただそれだけが欲しかったものを失ったアンドレア。というよりも、生涯えることが叶わなかったのが「家庭」だった。しかもそれを壊したのが激しい嫉妬、そして嫉妬心をかりたてたのが「クロイツェル・ソナタ」のヴァイオリンの音。妻を一目で恋に落ちた時も素晴らしい音楽が鳴っていた。身の毛もよだつヴァイオリンの音。淫らで気まぐれで魔力さえ持っている。あの調べを忘れようとしても耳にこびりついて離れない
彼の家庭への強い憧れと渇望の原因が、幼い頃の両親の離婚。しかも音楽家を次々に恋人にする母親。ここで、同じく音楽家と婚約と破談を繰り返してきた彼の心理が説明されている。音楽を好んでピアニストを妻にしながら、妻には演奏よりもたくさんこどもを産んで家庭を営むことを望んだ夫。美しくドレスと宝石の似合う妻は、目の肥えた母からも賞賛される彼にとって”家庭”という舞台で演奏する、重要であり大事なプレイヤーだったのだ。芸術家をお金の力によって自分より貶めた位置におくことが、自分を捨てて音楽家と情事をくりかえした母親への復讐なのだが、アントニアには心が通わない異なる価値観をもつ夫にしかみえない。そして、自分はベッドの上だけの存在だと。
彼女の心が離れていく理由に、ヴァイオリニストの存在を感じているアントニアの心は、嫉妬心という暗黒な雲ですべてがおおわれてしまった。

嫉妬は、愛とともに永遠のテーマーであろうか。妻への性愛がもたらした妄想が、殺人にまで至る悲劇の原作が、100年過ぎても尚色あせないのは、本作品で映画化が3度目ということからもわかる。ここでの愛はプラトニックな愛ではなく、性的の関係で成り立つ愛である。
「あの曲には、強烈な効果がある。まるで新たな感覚の発見だ」
トルストイのベートーベンのソナタ9番から着想した小説だけでなく、音楽に”官能”の意味をもたせた三島由紀夫の小説『音楽』が示すように、音楽と官能は純愛と性愛のように表裏一体の関係をもたらす時もある。どちらも人生に欠かせない・・・とだけ言っておこっと。
夫婦の住むプールのある洗練された邸宅、ドレスを選ぶ彼らと正装してでかける演奏会。理屈ぬきのイタリア映画らしい楽しみもある。
彼らの素敵な邸宅の壁を見ていたら思い出したのが、オーギュスタン・デュメィとマリア・ジョアン・ピリスの「フランク・ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ」のCDである。CDの表紙のふたりが椅子に座っている背後の壁のつくりが、映画の中の邸宅とそっくり同じ様式である。そう言えば、この男性ヴァイオリニストと女性ピアニストも、初めての演奏で奇跡のように音楽の感性があったというエピソードが有名だ。音楽的感性は、男女としての感性も一致していたらしく、 calafさま情報によると一緒に暮らしているらしい、やっぱり、、、。

「音楽は恐ろしい。心に変化をもたらす。
 精神が向上するなんて、そんなのウソだ。
 音楽は覚醒剤だ」
アンデレアは老人に語る。

確かに私は「クロツェル・ソナタ」が、好きだ。とても好きで、演奏会、CD、何度も何度も聴いてきた。麻薬のように、何度も。


監督: マリツィオ・シャッラ
原作:レフ・トルストイ、「クロイツェル・ソナタ」(1889)
出演:ジョルジョ・パソッティ、ヴァネッサ・インコントラーダ、マリア・シュナイダー、アンドニ・ガルシア  2006年イタリア制作

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2007.12.22 Saturday

『ゼロ時間の謎』

ゼロ舞台は、フランス郊外の海辺、小柄な執事とクラシックなメイド・スタイルの太めの女中が迎えてくれる本物の御屋敷。
ハンサムなテニス・プレイヤーのギョーム(メルヴィル・ルポー)は、奔放で若い新妻キャロリーヌ(ローラ・スメット)を伴って、富豪の叔母カミーラ(ダニエル・ダリュー)の別荘にやってきた。しかもその別荘には、上品で知的な元妻、オード(キアラ・マストロヤンニ)も滞在している。まるで、テニスの白球のようにふたりの妻の間を右往左往するギョーム。元妻今妻、どちらにも気のあるお坊ちゃま青年は、女性をティッシュペーパーのようには扱えない。そこにキャロリーヌの幼なじみという高級スポーツカーを乗り回しながらも、いかにも育ちの悪そうな友人のフレッドや、オードの幼なじみで親戚、生真面目な学究肌のトマ、カミーラの世話係りマリも加わって、優雅な島の奥にある別荘は、カミーラの莫大な遺産相続もあわせて、複雑な人間関係の糸がはりめぐらされて緊張に包まれていく。
そこへ、予想外の事件がおこったのだったが。。。


ぜろ3ミステリーの女王、といったらこの方しかいない。アガサ・クリスティ自らがベスト10に選んだ「ゼロ時間へ」のパスカル・トマ監督による映画化は、原作者も気に入ること間違いなしの久々に大人向けの上質なミステリー映画としても成功した。
謎解きのおもしろさも重要だが、室内劇のような緊迫した人間関係を描くにあたり、伝統の重みを感じさせられる屋敷やインテリア、正装して知的で意味深な会話がすすむディナー、美貌の主役級の役者と彼らをひきたてる地味キャラの脇役、珍妙な一見さえない名探偵のバタイユ警視と甥レカの名(迷?)コンビ。わかりやすい性格と服装、雰囲気の登場人物を駒にして、ちいさなユーモアとウィットをこめてよくねられた脚本の出来も三ツ星級。女性として、もうひとつ楽しめたのが、衣装だ。100万円もかけて仕立てたギョームのスーツは、いかにも貴族的に育ったテニス・プレーヤーらしいクラシックなライン。落ち着いて憂いを秘めたオードの衣装は、すべてプラダだそうが、スタイル抜群の若いキャロリーヌは、シャネル、エルメス、ラクロワとゴージャスなドレスを次々と着ることで浪費家でエキセントリックな性格がよくわかる。現代に時間をうつしたとはいえ、風光明媚な海辺をノスタルジックな映像で撮っており、原作の英国の持ち味を残したフランス映画に仕上がっている。オーソドックスなデザインだが、仕立てのよい洒落た小技をきかせた上質な服装を着る雰囲気だ。


ゼロ2どの場面のどのプロットも、結末のバタイユ警視のパフォーマンスと謎解きに一気に結ばれる。しかも、最後のオチまで用意されていてお見事。
別荘に叔母のお気に入りの前妻もやってくると知って、怒り狂って夫にやつあたりするキャロリーヌ。おじ様族は、こんな色っぽい若い妻だったら、お仕置きプレィをされてもよいと油断してはいけない。また女性は、シックなオードのファッションに趣味がよいと流されないように。彼女のバタイユ警視のいう「上等だが地味だが服」にも理由があるのだから。

監督は、フロイト流心理学をつかって「全員、共犯者」という解説をしていたが、タイトルにこめられた「殺人事件は、人々をある点に導く結末に過ぎない。その点こそゼロ時間」としたら、導いた犯人だけでなく、導かれた人々の無策にも罪があるということか。メリーゴーランドの楽団の音楽の演出も、犯人の動機の心の闇がまためぐる様を彷彿させて趣向が凝っている。ギョームを見ていたら、我がテニス界で言えば、同じく血筋のよい「熱いプレイヤー」として多方面に活躍中の松岡修造氏を思い出した。今の時代にあっては珍しい熱血漢は、わかりやすい男である。ギョームの負けたテニスの試合を見て、フレッドは彼のテニスは潔ぎよすぎると辛らつに批評する場面がある。試合に負けても、端正な顔がくやしさにゆがむことがない。爽やか過ぎる男というのも、私にとっては謎である。

監督:パスカル・トマ
原作:アガサ・クリスティー
出演:メルヴィル・プポーキアラ・マストロヤンニ/ローラ・スメット/ダニエル・ダリュー    2007年 フランス 製作

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2007.12.15 Saturday

『僕のピアノコンチェルト』

ヴィトス天才に生まれるってラッキーか。天才って幸福?

6歳でシューマンの「勇敢な旗手」を弾き、12歳でリストの超技巧曲「ラ・カンパネラ」を鮮やかに、しかも表情豊かに弾きこなす音楽性と、IQ180の頭脳の持主ヴィトス。彼は幼稚園では、地球温暖化を説き、飛び級で高校に進学しても凡庸な教師にうんざり。誰もがうらやむ、というよりも誰もがそんなスーパー天才のお子チャマをもつ親をうらやませるくらいの才能をもっている彼は、しかしもの心ついた頃からその才能ゆえに孤独だった。母親は、愛情たっぷりに天才児の教育に情熱をかけるが、肝心の彼の心に寄り添うことがなく、父親は日本のお父さんと同様、仕事中心。友達はひとりもいない。いや、唯一の友人は、素敵なおじいちゃん(ブルーノ・ガンツ)だった。
そんな彼は、或る日転落事故によって、”フツー”のこどもになってしまったのだが。。。

邦画のタイトルから音楽映画か、所謂「神童物語」を連想させるが、そのいずれとも少し違う。
これは、”天賦の才能”をもった少年の魂の放浪と再生、成長の物語である。天賦の才能とは、あたかも人類に貢献するために才能を活かす使命を与えられてしまった人たちのことである。ニュートンしかり、モーツァルトしかり、ガリレオ・ガリレイしかり・・・。しかし、彼らはありあまる才能と引き換えに苦難の道も与えられた。凡人の鈍感で凡庸な感性の平和さとありがたみを身にしみて教えてくれたのが、数学者の藤原正彦先生だったが、我が身のしけた才能に折り合っていけるのもこの映画だ。
異能の人というのも大変だ。成人に近く思春期真っ盛りのお兄さんやお姉さんたちに交じって、退屈な動物園で授業を受けるのも彼にとっては地獄だったろう。どこへ行っても飛びぬけた頭脳が、彼を異端の人にさせてしまう。まわりと違うということは、たったひとり高い山の頂きに立っているようなものだ。周囲に美しい景色がひろがっていても、その美しさの感動を共有できる友がいないのも、深い孤独である。かといって、時間を無駄にすることなく才能を伸ばす必要もあるのだが。千葉大で飛び級制度がスタートした時、賛否両論があったが、私は反対派だ。頭脳とは別に他者や社会との関わりによって人間としてゆっくりでも確実に成長していくことは重要である。米国などでは、神童の大学生を聞くことはあっても、その彼らが成人しても天才ぶりを発揮している報道をあまり聞いたことがない。
それとは別に、音楽は本人の才能にふさわしい教育が必要であろう。本来の学業を続けながら個人レッスンを受けたり、ジュリアード音楽院のような専門学校で学んで才能を伸ばすことも大事だ。プロ野球選手も、今では小学生の頃かリトル・リーグなどでセンスを磨いてきた者が多い。そんな多くの才能ある子供たちの中でも、主役のヴィトスを演じた12歳のテオ・ゲオルギューは、やっぱり神童である。「若いピアニストのためのフランツ・リスト・コンクール」での優勝経験もあり、現在ロンドン郊外にある名門音楽学校パーセル・スクールで学ぶ彼は、すでにコンサート・ピアニストとして活躍をはじめている。彼自身による実際の演奏場面が何度も流れるのだが、モーツァルト、バッハ、スカルラッティ、ラベル、すでにこどもとは思えない演奏である。ラストのハワード・グリフィス指揮、チューリッヒ室内管弦楽団との共演は、舞台会場を借りる予算不足からチケット代金を有料にして撮影にこぎつけたというドキュメンタリーまであり、スタンディング・オベーションは本物だそうだ。

一般的な神童物語と異なるのは、予想外にも彼の早熟ぶりと行動が、ユーモラスに描かれているところだ。映画館にテオ・ゲオルギュー君が今夏来日した時の近影が掲示されていたが、少年から一気にすでに青年といってもよいくらいの顔立ちと体躯になっていた。これなら、7歳年上の彼女もオトセルぞ。そういえば神童って、成熟する(老ける)のも早い早生だった。米国映画のような娯楽要素をもりこんだあかるさがある。ほのぼのと気持ちがなごむ家族やカップル向けの映画である。
最後の演奏は、ロベルト・シューマン唯一のピアノ協奏曲イ短調。
クララと再婚して多くのこどもに恵まれて、「トロイメライ」を含む「子供の情景」の作品をうんだシューマンだったが、後年精神を病みライン川に投身自殺を図った。愛妻のクララに看取られ息をひきとったのも精神病院だった。
やっぱり、天才って大変。。。

監督 フレディ・M・ミューラー
2006年/スイス映画


■大変だった?天才たちのアーカイブ
・世にも美しい数学入門
・続編「世にも美しい数学入門」
・映画プルーフ・オブ・マイ・ライフ
「心は孤独な数学者」続編
「王様と私」
「誰も読まなかったコペルニクス」
「世界でもっとも美しい科学実験」
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2007.12.02 Sunday

『カフカの城』

城プラハにある「黄金の小道」の22番地は、フランツ・カフカの仕事場だった。今でも観光地として青い壁の小さな住居が残っている。私はカフカを読んだ事がないが、プラハを旅行した時に訪問した不条理な世界観を描いた作家の家が、予想外にちいさく質素な家だった記憶が残っている。ここで執筆された長編小説「城」は、未完のままに終わっている。ある作家が、この入り組んだ道に建つ住居から眺めるプラハ城から、「城」の構想をえたのが街のようすから理解できたと言っていた。そうなのだろうか。

私がカフカの家を訪ねていた頃、ミヒャエル・ハネケ監督が抽象的で難解、映画化は不可能とされた『城』を撮っていたのだ。本を読むてまをはぶき、ここは巨匠に「城」への道をご案内していただこう。


城雪深い中、測量士のK(ウルリヒ・ミューエ)はようやく自分の赴任地である街にたどり着いた。
ところが、寝る宿もなく騒々しい居酒屋の椅子で毛布を被り疲れた体をやすめて仮眠する始末。なにかが変だ。目的地である”城”にはいつまでたってもたどり着けず、またKに対して異邦人を眺めるかのような人々の視線の中で疎外感を感じはじめ、いらだっていくK。この街は、どうやら厳密なヒエラルキーと”城”を頂点とした無数の完全なシステムに支配されているようだった。ふたごのような助手に翻弄され、酒場で働くフリーダ(スザンヌ・ローター)と関係をもち婚約するはめになり、Kは気がつくと絶望的で不条理な雪の世界からぬけられなくなっていった。。。

昨日まで、平凡な一市民だった人が、嵐の雪の中を一軒の居酒屋の扉を開けて中にはいった瞬間に、不条理な世界に迷いこんでしまった。しかも、そこからぬけだせる術が見当たらないゆるやかな恐怖と、うっすらとそれを理解して納得していかざるをえない諦念。原作を読んでいないので比較できないが、ハネケ監督の手腕は、おそらく小説を忠実に再現しているのであろう。ハネケとカフカは、表現の方法と時代が違えども、感性が近いと感じる。まず観客は、最初のKが居酒屋にたどりつき、酒場の店主や客達のやりとりをしている場面で、完全にハネケ・ワールドにとりこまれてしまう。ラジオから流れる安っぽいムード・ミュージックがついたり、消えたりする以外、全編音楽はいっさいない。感受性を音楽に逃がす時間もなく、画面の異様な世界に集中せざるをえない。そして、そんな状況に反して、突然画面が真っ暗になって次の場面にきりかわるのは、『71フラグメンツ』と同じ手法だが、本来ならここで集中力がとぎれるはずなのに、逆に不安な感じになっていく。ものの見事に、ハネケの術中にはまっていく。
オーストリアのチェコこ国境に近い村で、マイナス20度の厳寒の中で撮影されたそうだが、鈍い色の寒々しい室内と対比するかのような白い雪。Kは、城をめざして雪の中をあえぎながら歩くの場面が、同じようにくりかえされる。同じ上着、同じ帽子、同じ風景。まるで、永遠にくりかえし続くかのように。
あたかも現世のここではない別世界にはいりこんでしまったかのように感じてくる。小学校の教室での教師から受ける叱責と辱めを受ける場面、村長の自宅での会話、紳士の館と呼ばれる不思議な酒場、すべての場面が悪夢を見ているのが自分であるかのように一分たりとも気がゆるむことなく、見入ってしまう。しかし、ハネケは観客に”やさしい”監督ではないから、いつもどおりに自分の世界観をひろげて、重い宿題を残して終わる。



そろ物語の深さや解釈は、定番でもよいと考える。不条理の世界は、もう語り尽くされた感があるからだ。
あらゆる局面で常識的で誠実にふりまうKなのだが、なにを言っても、なにを行動しても、周囲の者からルール違反ととられ、厳しい批判と非難をあび、いつまでたっても人間関係を築けない。こんなことは、現実社会や小さな小学校のクラスでも起こりうる。堅牢な組織に対して、個人の善意など通じない。不条理な世界を描いて成功したカナダ映画『CUBE』は作品の質が大変高かったが、ハネケの『城』は原作を忠実に再現し、また独特の映像を残した点を注目すべきだろう。そもそもDVDのタイトルに使われている資料の堆積の映像だけでも充分にインパクトがある。フリーダを初めて抱く酒場の汚い床の感触、城をめざしていく雪を踏む夜の硬い音、教室の隅で震えながらくるまる貧しい毛布の肌触り、現実の世界の確かな感触を映像の力によって再現させるハネケによって、スクリーンの悪夢と現実の境界があやふやになっていく。

映画は原作どおりに、突然未完のままに終わっている。はたして、Kはどこへいるのか。今でも、あの世界で雪の中をさまよっているのではないだろうか、そんな余韻を残して幕が・・・

主役のK役は、『善き人のためのソナタ』でヴィーラー大尉役を演じたウルリッヒ・ミューエが演じている。どんどん窮地に追い込まれて惨めになっていくKに敵った役者だ。

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■アーカイブ
『ピアニスト』
『隠された記憶』
・『71フラグメンツ』


2007.11.23 Friday

『レディ・チャタレー』

ちゃ「チャタレー夫人の恋人」と聞くと、おおかたの男性たちは、下××がうずくそうだが、この小説をめぐって英米国でも猥褻か芸術かで裁判沙汰になり、我が国では「猥褻文書領布罪」で出版社と翻訳をした伊藤整が有罪の判決を受けた。その不幸な出生のためだろうか、D.H.ロレンスの最高峰の文学は、今日になってもスキャンダラスで卑猥な小説として、世間ではしばしば誤解を受ける。高校時代に興味本位で××いりの文庫本を読んだ時は、確かに私もこの作品の素晴らしさを理解できなかった。
けれども、一般的には性愛文学というカテドリーに入るこの小説は、そんなに簡単ではない。物語の舞台になった1920年代の英国の貴族社会の時代背景を考えると、被支配者階級による階級闘争、政治、女性の解放、と個人のセクシュアルなブンガクをこえて社会的な文学という読み方もできる実に奥の深い作品である。ここにいたるまでには、女子高校生も教養と経験を積まなければいけない、か?
ケン・ラッセル監督の『チャタレー夫人の恋人』では、森番メラーズ(ショーン・ビーン)の精悍な容姿の魅力もあり、言葉は粗雑で労働者階級出身ながら教養の深い納得のいく男性としてよく描かれていた。単なる18禁・性愛表現だけではものたりない私の要求にもこたえて、階級闘争の意味合いをちゃんと盛り込んだかなりお気に入りの作品だ。

そして、あの繊細で優れた作家・伊藤整を、その珠玉のような作品よりも裁判で被告人として立たされている情けない写真の方を有名にしてしまった「チャタレー裁判」から50周年になる今年!3つのヴァージョンから、広く知られている3稿ではなく、ふたりが愛を求めていく過程が丁寧に描かれていて人間関係、愛情関係に焦点をしぼった第2稿に魅了されたフランス人のパスカル・フェラン監督により映画化されたのが、『レディ・チャタレー』である。

第一次世界大戦によって下半身不随になった夫クリフォード・チャタレー卿との生活は、夫人のコンスタンス(マリナ・ハンズ)にとっては、生きていながら冬の宮に幽閉された死んだような日々が続く。そんな彼女の身を案じた進歩的な姉の手配により、気難しい夫の身の回りの世話をやくため雇い入れた未亡人のボルトン夫人の献身的な働きもあり、コニーは気分転換に森を散歩するまでに回復した。ようやく春の訪れが感じられる森に黄水仙の花を摘みに行くと、金槌の音がこだましてくる。その音をたどると、晩秋に見かけた森の猟番パーキン(ジャン=ルイ・クロック)だった。彼女の脳裏には、その時の体を拭いていた彼の上半身裸の姿がうかんでくる。そして、その時のときめきと苦しくなるくらいの胸の鼓動を思い出した。。。

このあまりにも知られた物語を映画化するにあたり、監督が考えたのが性愛の描写である。
監督によると性愛の表現には3つのパターンがある。
.ラシックな表現・・・行為そのものを見せずに、例えばベッドの中にはいって光が消える。こういう表現も私は好きなのだが、監督によると性行為に含まれている活力やパワーが感じられない。
▲櫂襯痢ΑΑγ砲竜’修叛的興奮を満たすための経済市場の産物。(確かに、このタイプの映画で描かれる女性像は、男性にとって都合のよい性的な動物だと思う。シルビア・クリステル主演の『チャタレー夫人の恋人』が<××解禁版>の路線のハシリだろうか。)
6畭絮撚茲砲ける性表現・・・『愛のコリーダ』『ピアニスト』を芸術的だが、死に向かう性行為として描かれていて、自分の経験が反映されていない。
それでは、フェラン監督の考える性表現は、肉体がどのように結ばれ、どのような対象が生まれていくかの過程を描くことである。

初めての交わりの後、お互いに「こうなると思っていた」と微笑みあうふたりには、まだ自分の欲求を満たした満足感しかない。やがて、森小屋で逢瀬と体を重ねるうちに、コニーの方からパーキンの体に触れ、×××を見たいと言う。それに、はじめはためらいながら応えるパーキン。そして、森の緑に囲まれて××××で体を重ねるふたり。今日では、格別なことがない二人の関係の進行だが、宗教上、性交が子孫繁栄の生殖行為だった時代、妻が夫の欲求にこたえてこどもを生むための存在だったことを考えると、物語が性的に満たされないブルジョア階級の女性と使用人との不倫という見方は、全くあてはまらない。有名な雨の中を裸で走るふたりの表現も欠かせないが、私はふたりが初めて一晩をともに過ごす場面も重要だと考える。それまでの昼間の”情事”から、階級をこえてふたりが本物の愛を成就させる場面であるからだ。
翌朝の淡い光の中で、ベッドのシーツにくるまったコニーが窓を開けるパーキンの姿を見て、
「あなたの×××って、××××××木の芽みたいね。」
とからかう。ふたりは、一線を超えて肉体的にも魂もひとつになった。

監督監督が女性という意外に予備知識のないまま鑑賞したのだが、純真で無垢なコニーが人間らしく解放され、真実の愛にたどり着き、またナイーブで孤独癖のあるパーキンが生きる希望を見出していく過程、映画では、ふたりの関係が丁寧に繊細に描写されている。夫の車椅子を坂道で後ろからふたりが押す場面では、並んだふたりの手がさりげなく写る。レースの手袋をした優しいコニーの手。労働で鍛えられた武骨なパーキンの手。ふたりの手には階級格差があるが、クルフォード・チャタレー卿によって妻として、召使として支配されていることには変わらない。
ハリウッド映画が音楽を意図的に効果音として使っているのに比較して、本作品では音楽に意味をもたせている。映画を鑑賞しながら、この女性監督をしみじみとインテリだと感じた。またコニーを演じたマリナ・ハンズは、こどもらしい純真さをもちながら、自分の価値観で物事を考えるという原作のイメージに顔立ちも体型もふさわしい。森の猟番が頭部の薄くなった太目の中年だということになかなかなじめなかったが、ラストの場面で彼の起用が生きてくる。ショーン・ビーンのような女性を魅了する顔や体だったら、コニーの選択の本質を見出せないまま鑑賞してしまう可能性が大きい。この映画では、社会性よりももっと純粋な男女の愛情を描いている。


「生は優しく、静かだ。しかし私たちが手にする事は出来ない。(中略)優しく、自分を捨て、真実にして深い自己の充溢をもってするならば、私たちは他者に近づくことが出来、最良の、そして最も繊細な生を知ることが出来るだろう。それが触れるということだ。地面に触れる足、木に、生き物に触れる指。手に、胸に触れること。体全体に、他者の体に触れること。情熱に満ちた愛の相互貫入。これが生だ。私たちが存在する限り、私たちが皆生きているのは、触れることによってなのだ。」
―D.H.ロレンス「チャタレー夫人の恋人−第2稿」


精神的に生きる力を失ったコニーの、森の猟番の裸体を初めて見た時の胸の動悸が、静寂でみずみずしい生命感溢れる森の中で、性、さらに生への躍動に変わっていく。
予想外に寂しい観客数だが、私にとってはかなり評価が高い作品である。恩師の妻を奪いドイツに逃れたD.H.ロレンスの最後の傑作は、やはり20世紀最高の性愛文学という評価にかなう。再読しよっと。

監督:パスカル・フェラン
2006年フランス製作
「チャタレー夫人の恋人」裁判・・・倉持三郎著
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2007.11.18 Sunday

『トゥルー・カラーズ』

トルー「一年生になったなら、友だち100人できるかな」
入学式シーズンになると、こんな微笑ましい歌がよく巷で聴こえてくる。学校生活とは、人生で最も多くの友人と出会える貴重な期間だと思う。勿論、社会人になっても、専業主婦になっても一生の友に恵まれる機会はある。けれども、私は友人が少ない。内向的で自分から積極的に声をかけるタイプではないし、寂しがりやのわりには、シベリウス好きのように孤独を好む癖があるからだ。(、、、と言っても信じてくれる人は本当に少ない!)自慢してしまうが、性格も悪いし。
けれども、かけがえのない友達が数人はいる。それだけで、よい。

さて、前置きが長くなったが、懐かしやハーバード・ロス監督の映画『トゥルー・カラーズ』は、米国らしい直球で「友情」がテーマーである。
1983年、バージニア大学では、9月の入学式をひかえ、全米からやってきた若者の学生寮への引越し作業でにぎわっている。ちょっとしたアクシデントで車をぶつけてしまったピーター(ジョン・キューザック)とティム(ジェームズ・スペイダー)はやりあうが、なんと偶然にも同じ部屋であることを知る。怪我の功名、そんな言葉が米国にもあるのかわからないが、偶然が彼らの運命だったかのように、ふたりは大学の法科で勉学を競い合い堅い友情を築いていく。
そして卒業。下院議員に立候補していずれ上院議員の席を狙うピーターは、上院議員のスタイル氏にとりいって彼のスタッフとして採用され、ティムは不正を暴く司法省へと就職する。彼らはエリートである。就職したワシントンのレストランで学生時代の友人たちと食事して語らう時の、服装、マナー、きわどいジョークがとびかう会話。すべてが彼らの輝かしい将来を予見させる。このままそれぞれの道で、ピーターとティムの友情が続くはずだったのだが。。。(以下、内容にふみこんでおります。)

米国は貴族社会ではないが、学歴と階級社会でもある。但し、チャンスの国だから、ビル・クリントンのような貧しく教養のない家庭出身でも大統領にはなれる。
この映画におけるティムは、クリントンよりはゴア副大統領のように国の中枢を担う父親の背中を見て育ち、優秀で顔立ちもよくスーツやタキシードの似合うサラブレットだ。だから、権力志向はそれほどなく、むしろ地味だが社会や国家に貢献する職業を選ぶ。一方、ピーターは、貧しい下層階級の出身で上昇志向が強く、呑んだくれの父親と気は良いが頭の悪い友人や恋人を大学入学と同時に捨ててきたために、クリスマスもひとりで過ごす。映画の中では彼らの対比が、さりげなくよく描かれている。たった一人で大学にやってきたピーターに比べて、同じ高校出身の友人が何人もいるティム。父は世界銀行に勤務していて今はロンドンにいると嘘をつくピーターに、なんの驚きも疑問も抱かないティム。彼にとっては、世界銀行の幹部として活躍する父をもつことは、特別なことではないからだ。そして「タイムス」誌で紹介されている上流議員のスタイル家と家族ぐるみで交際し、令嬢のダイアナ(イモジェン・スタッブス)を恋人にもつティム。そのスタイル家の新年を迎えるパーティにピーターもティムから招かれたことから、彼らの人生は変わっていく。ピーターは、スタイル家にととりいるために、クリスマス休暇で誰もいない図書館で彼の政治志向を下調べをして、生まれて初めてタキシードを買って準備する。希望どおりにスタイル氏のスタッフに採用されると、次々と持ち前の弁理力と魅力を発揮して成功していく。多少、汚い手段を使う時もあるが。
さらに親友の恋人ダイアナも奪って、妻にする。それをティムに告白するためにふたりでスキー場に行くのだが、衝撃を受けたティムが危険な難所を巧みにスキーですべっていく軌跡を、ピーターが必死に下手なスキーで追いかけていき、とうとう大怪我をしてしまう。この命がけの行動で、彼らの友情はかろうじて続いていく。日本ではおなじみのスキーだが、幼い頃からスキーに親しんできたティムと無縁だったピーターのバックグランドの比較が、このスキーの場面でよく描けていると思う。貧しい者は、育ちのよいお坊ちゃまに比べて逞しさがある。
ところが、議員に立候補したピーターの選挙資金のスポンサーのライバル会社を入札から排除したい意向をくんで、この会社の嘘の情報をティムに依頼して、彼は停職処分をくらうのだった。すべてを理解したティムは、逆にピーターの友情を利用して選挙参謀として密着して、不正を暴いていくことになった。

スタイル家のパーティ場面を見ていると、米国の上流家庭がわかる。豪奢な家、手入れをされた庭。次々とやってくる車を迎える執事や給仕たち。でも、パーティ会場の隣のキッチンで気楽に呑むダイアナを囲む男ふたり。この気取りのなさが、また米国社会の魅力だろう。また女性として観たら、整ったティムよりも野心家のピーターに惹かれていく気持ちもわからなくもない。もっとも恋人の友人を試すのも、令嬢のきままさだろうか。自分の夫にふさわしいポジションをティムに望むダイアナは、逆に自分のポジションを利用していく夫に愛想をつきていく。

それぞれはまり役であるジョン・キューザックとジェームズ・スペイダーだが、私の意見としてはキャスティングを逆にした方が正解だと思っている。ジェームズ・スペイダーは、いかにも育ちが良さそうな雰囲気をもつエリートだが、実は貧しく不幸な家庭出身が最高のはまり役だからだ。
米国人好みの友情の結末を、私も好きである。生まれた時からすべてをもっている者と、何もなく自分の才覚だけが頼りの貧しい出身の者、たとえどんなにバックグランドが違っても、お互いを尊重できれば友情は育つと思う。そして、たった一人のかけがえのない友人は、100人の友に匹敵する。

製作:1991年米国
監督:ハーバード・ロス


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2007.11.17 Saturday

ゴダール『パッション (Passion)』

mei深い青い空に漂う雲のゆらぎ、監督のゴダール自身がatonと共同開発したハンディ・カメラで撮影した映像が流れる。
この空のすいこまれるような色に、泰西名画を感じているうちにラヴェルのピアノ協奏曲が流れて、映画はレンブラントの「夜警」の撮影現場に入る。
「こんな光ではだめだ」
監督のジョルジーがいらだちながら次々とスタッフに指示を与えていく。
光が消え影が生まれ、また光があたる。平板だった俳優たちによるいわば活人画が、やがて光と影の画家、レンブラントの『夜警』そのものになっていく。厚みと重さのある衣装、疲労の滲む肌と瞳、労働によるごつくてぶあつい手、、、ここで再現される名画の表象の”出来栄え”と映像の見事さに驚嘆した。

おりしもポーランドでは連帯運動が進行しているさなか、スイスの小さな村で、ポーランド人監督による名画の活人画の撮影がはじまったのだが、思うように撮影が進まない。予算は、とっくに超えていた。イタリア人のスポンサーがやってきて、商業的に成功しそうな「物語」を要求するが、監督は受け付けない。次々と配給を断られて、映画製作は窮地に追い込まれていく。その一方で、監督は宿泊するホテルの女主人ハンナと情事を重ね、工場で労働運動をはじめたために解雇されたイザベルを愛しはじめている。このふたりのヒロインの対比が、映画に”物語”をもたらしていく。毛皮を着て厚化粧のブルジョワのハンナ。しかし、夫の経営する工場は従業員とのトラブルが続き、情熱的に愛したかったその夫へ感情は、監督への気持ちへとうつりかわっていく。女として監督の心をつかんで自信に溢れる中年にさしかかるハンナから「あんなやせた女のどこがいいの」と言われる若いイザベルは、まるで少年のような短髪で化粧もせずに朴訥とした口調で女工たちをオルグしていく。対照的なハンナとイザベル。

「失われた中心を求めるために映画をつくる。」
そう劇中でジョルジーに言わせるゴダール監督の映画は、その中心を模索するかのように多くの対比を観客に名画の再現とともに次々提示していく。
アングルの「浴女たち」、ゴヤ「5月3日の銃殺」「裸のマハ」、ドラクロアの「十字軍のコンスタンチノープル入城」」「天使と闘うヤコブ」や、エル・グレコ「受胎告知」。なんと贅沢で美しい映像なのだろう。
描かれる高貴な芸術性にも関わらず、製作する彼らと村の人々は、秋から冬に向かって別れと出会いをくりかえしていく。労働争議で対立する資本家と労働者、夫と妻、男と女、そして選ばれた女と恋を失う女、愚かな彼らによりそう光と影。モーツァルトの音楽が彩どる名画と並行して、登場人物たちがめまぐるしく描く迷画は、混沌としてやがて破綻していく。。。

本作品の魅力は、なんといっても再生された名画によって、映像表現の可能性を示したところにある。そしてまるでその名画からぬけでてきたような俳優たちの表情と肉体、音楽と美術は、西欧の芸術のクオリティと奥行きを感じさせて、くやしいが日本人の舌では味わい尽くせない濃厚な歴史で調理されたソースである。同じく映画人による映画製作への情熱と受難(passion)をオマージュしたフランソワ・トリュフォー監督による『アメリカの夜』を彷彿させるのだが、当時の政治的な解釈が現代では古く感じる印象も否めないが、この作品は監督の意思の現われである娯楽性の欠如が、高い芸術性を死守したとも言える。芸術家の情熱を観るのも受難と敬遠する方は、本作品はむかないだろう。しかし、日々深まる秋にありきたりではない映画を鑑賞したい日本にひっそりと生息するハンナやイザベルたちには、私は自信をもってお薦めできる。

雪の残る冬の森の中で撮影されるワトーの「シテール島への船出」が、寒々しくも古典語の”あはれ”さを感じさせる。だから対立した女たち、ハンナとイザベルはふたりで一台の車にのって、「帰る家」を失ってポーランドに向かうのである。
ちなみに、ゴダール自身を投影したかと思われる監督役は、アンジェイ・ワイダ『大理石の男』で主役を演じたイェジー・ラジヴィオヴィッチ。そしてこの作品でも鮮烈な印象を残すイザベルは、『ピアニスト』のエリカ役を演じたイザベル・ユベールである。

監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール

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2007.10.13 Saturday

『エルミタージュ幻想』

エるロシアは、芸術の宝庫ともいえる国である。なかでも、サンクト・ペテルブルグにあるエルミタージュ美術館は、その所蔵する美術品の質の高さだけでなく、絵画だけでも4000点、すべてのコレクションは300万点にものぼる所蔵品数を誇る。この収集癖を熱気の帯びた狂気といわずに、なんとよべばよいのだろう。

1764年、借金のかたにドイツ商人から手に入れた絵画を入手して以来、女帝エカテリーナ2世が自分でも”病に病んだ”というほどの狂気が莫大な遺産を構成の国民に残したエルミタージュ美術館。それから時代をへて、プーチン大統領の出身地でもあるサンクト・ペテルブルグ建都300年祭の記念映画として、アレクサンドル・ソクーロフ監督が、エルミタージュ美術館をセットに90分をワン・カットで撮るという狂気じみた映画を実現したのが、「エルミタージュ幻想」である。

現在に生きる監督(ソクーロフ自身と思われる)がめざめると、そこはエルミタージュ美術館だった。しかし時代は帝政ロシア、これからはじまる舞踏会に招かれた貴族たちが、さんざめきながら豪奢な香りをまきちらして次々と馬車をおりて館内にすいこまれていく。そこに黒いコートを着た背が高く、やせて陰気なフランス人外交官、アストルフ・ド・キュスティーヌ侯爵もやってきて、場違いな雰囲気で佇んでいる。
監督とキュスティーヌは会話を続けながら、美術館の中を彷徨し、過去と現代のロシアの歴史の時間旅行をはじめるのだったが。。。

映画を鑑賞する私たちがロシアにあるヨーロッパをともに体現するキュスティーヌは実在の人物で、将軍だった祖父と外交官の父をフランス革命によって断頭台で処刑され、母も逮捕された貴族である。彼はバルザックからその文才を認められてロシア旅行をすすめられ、3ヶ月過ごしたロシアで出合った専制政治の恐怖から、「1839年のロシア」という本を出版した。当然長らくご当地では発禁本だったこの本が、現代に至るも尚、帝政・社会主義を通じてロシアの専制体質を的確に表現していると高い評価があることから、ソクーロフ監督のこの人物を”起用した”真意を考える。
21世紀のロシアでもまもなく新しい大統領が誕生する予定だが、これまでの道のりと同様、着々と自分の強大な権力を残す構想を実現しているプーチン大統領の”実力”と”行動力”を想像すると、本映画のスポンサーになったのも痛烈な皮肉がこめられた一幅のアンソロジーなるものを感じざるをえない。

次に、監督自身も言っている「実験映画」として90分ワンカットで撮る意図をはかると、スポーツ選手のような記録追求でもなく、ギネスブック記載目的ではないのは自明であるが、”そのため”にふくらむ製作費、2000人あまりのスタッフ、45着のドレスと120着の軍服。またのりこえなければならない技術的な問題をクリアーして、構想から4年の歳月と入念なリハーサルを経て、デジタルビデオ撮影、編集なしの2001年12月23日のたった一日撮影へのこだわりは。
ソクーロフ監督が製作したロストロポーヴィッチ氏のドキュメンタリー映画『人生の祭典』を観て感じたのだが、この監督のドキュメンタリー映画へのアプローチは一般的なストレートでメッセージ性の強い作品よりも、はるかに思索に満ちていて深い。そしてその背景に激動の20世紀とロシアという大国で育った芸術家の歴史観や哲学が伺えるのだが、1951年生まれの監督が、ペレストロイカが推進された87年まですべての作品が政府から公開禁止処分を受けていたという事実も無視できないであろう。ただその表現が、屈折しているので難解な印象も与えてしまう。この映画は、エルミタージュ美術館の芸術品を借景にした壮大なロシアの歴史における過去と現代の対話だ。だから最後の舞踏会でダンスに興じるキュスティーヌは、先に行こうと声をかけるソクーロフに「この先になにがある。私はここに残る。」と誘いを拒絶するのだ。90分ワンカット。それは、ロシアの歴史のはるかな流れを意識させ、また途切れることのない未来を予測させる。あたかも、この国とかってはレニングラードと言われていたサンクトペテルブルグの歴史を見守ってきたネヴァ川の、ゆるぎのない流れのように。

やっぱりサンクトペテルブルグ、エルミタージュ美術館に行こうと思う。病に病んだ女帝が民衆から搾取したおかげによるコレクションに魅入られた私も、少しは病んでもゆるされるだろう。

「まわりは海だ。私たちは永遠に泳ぎ、永遠に生きる。」
日本に生まれた私自身も、今ここで生きている意味を探しに行こう。

監督:アレクサンドル・ソクーロフ
原題:Russian Ark(ロシアの方舟)


2007.09.26 Wednesday

『親密すぎるうちあけ話』

ルコント時々映画で信者が教会の牧師さまに懺悔する場面があるが、自分が男性で牧師だったら、あんな狭い小部屋で女性にセクシュアルな懺悔をされたら、それこそ妄想激しく、自分自身を神に懺悔をしなければならないだろうと想像している。
「嗚呼、罪深き者よ、、、それは我だった!」
だって、お互いに顔が見えない状況で、最も秘密である個人的な性のする、聞くというシチュエーションは、どう考えてもエロティックではないだろうか。

或る日の夕暮れ、ウィリアム(ファブリス・ブキーニ)が毎日の変わらない仕事をそろそろ終えようとした頃、ひとりの女性(サンドリーヌ・ボネール)がオフィスに飛び込んできた。苦悩を浮かべる表情でその女性、アンヌが語り始めたのが、夫婦の深刻な性の悩み。驚きあっけにとられ、同じフロアーの精神科医モニエの患者が部屋を間違って、税理士の自分の部屋に来てしまったと合点するまもなく、アンヌは慌てて次の訪問の予約をして帰ってしまった。
夜、アパルトマンから眺める向かいのホテルで繰り広げられている様々な情事を眺めながら、ウィリアムの脳裏からはアンヌの姿が離れない。
再びやってきたアンヌの更なる赤裸々な告白に気おされながらも、自分は税理士だとはつい言えないウィリアム。やがて、アンヌもノックすべきドアを間違えたことに気がつくが、モニエ医師ではなく、ウィリアムに話を聞いてもらうために通い始めるのだったが。。。

魅力的な女性から誰にも言えない悩み、ましてやそれがうまくいっていない夫婦の性交渉という最もプライベートな部分を聞かされることは、パートナーとの関係を解消して独身になってしまった中年男性にとっては、ある種”誘われている”と感じるのは当然ではないだろうか。しかし、この映画では、精神科医と患者、もしくはセラピストとそのお客という設定が、安易な展開をさけて、あくまでも女性からの告白、会話がふたりの節度と緊張感をしいている。懺悔を聞く牧師のように、人の良い税理士は、彼女の”親密すぎるうちあけ話”から、彼女の肢体やらベッドでの姿態やら、そんなことを妄想するのはりっぱな紳士として恥ずべきこととして封印している。
それにも関わらず、目的はどうであれ、彼女と会える、ただそれだけでもウィリアムには喜びとなり、生活にはりを与えている。彼女に会っている時の感情をおさえている表情、一転してひとりでロック音楽にあわせて踊る姿、彼女からの電話に必死に飛びつく姿、滑稽でありながら静かに彼女への愛情を育むウィリアム。そしてさえない中年男性に心を開いていき、変化していくアンヌ。さながらロマンチック・コメディの室内劇のような本作品で、またまたパトリス・ルコント監督の魅力が新発見されたようだ。

アンヌ役のサンドリーヌ・ボネールが、最初は地味で暗い女性だったのが、次第に明るく魅力的な女性に変貌していくのが見所。少女のような雰囲気のある素敵な女優だ。そして、自分の内面をさらけだす行為とは、こころのストリップだ。ストリップするうちに、さえないコートを着込んだ服装から、軽くて甘いワンピース姿になるところも見逃せない。達者な演技者陣にも恵まれた上質なおとなのための映画である。
会話こそ、エロスの出発点。(但し、この会話とは、体の会話も含むけどね★)

監督:パトリス・ルコント
2004フランス制作

2007.09.22 Saturday

『二十四時間の情事』

ひろ忘却は、苦しみや哀しみを遠ざける治療薬である。
その一方で、忘れたくないこと、忘れてはいけないことを、抱えているのも人間だ。

ホテルの一室で、男と女が抱き合う。何度も何度もお互いの肌にふれ、慈しみ、互いの瞳を見つめ、官能のままに自由に・・・。
女は男の精悍な背中に手入れの行き届いた指をはわせて、「ヒロシマを見た」と伝える。
男は、「君は、ヒロシマを見ていない」と言う。
一晩の情事でどれほど男を心から愛し尽くしても、どんなに女を抱きしめても、女が病院を訪問し、被爆者に会い、原爆記念館で資料や映像を見て”ヒロシマ”を見たと言っても、男は”ヒロシマ”を見ていないとくりかえす。
冒頭のふたりの会話と流れる映像が、なんとはかなく、そして悲しくも残酷なのだろうか。

戦禍が去って、10余年、平和の街となった広島に反戦映画の撮影にきていたフランス人女優(エマニュエル・リヴァ)は、日本人建築家の男(岡田英次)と出会って、一晩をともにする。しかし、24時間後には、女は夫と子供が待っているパリに帰らなければいけない。お互いに愛しあっても、”情事”にするしかない事情を女は抱えていた。その事情とは、妻や母の帰国を待っている夫やこどもの存在ではない。それは、決して忘れてはいけない、あまりにも過酷な記憶。太田川によりそうようにたっているカフェで、女は20歳まで住んでいた故郷のヌヴェールを、男に語り始める。髪を刈られ、地下室に閉じ込められていた頃のことを話しはじめると、男が自分の存在を訊ねる。
「僕はどこにいるの。」
「あなたはドイツ人で、私はあなたの血をなめていた」と女はこたえる。そこから、女の記憶は若かりし頃の思い出の街に戻っていくのだったが。。。



ひろ当初45分間の短編映画を予定していたアラン・レネ監督が、川べりに佇む女性の姿に構想をえて、原作と脚本をマルグリット・デュラスに依頼して長編映画を制作したのが本作品である。ふたりの戦争体験が、交錯することはなかった。女は、戦中、戦場にいたために被爆しなかったが、家族は全員広島にいたという男に、あなたは幸運だったと言う。この情事の後の何気ない会話は、後半重要なポイントになる。はじめは女の個人的な激しい恋愛の話からはじまる。相手は、許されることのない敵国、ドイツ、ナチスの青年将校。やがて終戦を迎えると、村人たちによる女への屈辱的な報復が行われ、そして失われた初めての恋。女にとっては決して忘れてはいけないのが恋人との逢瀬であり、肌のぬくもりであり、何よりも青年の存在だった。広島で日本人の男性と体を重ねて、激しい感情のゆれからゆっくりうかびあがるのが、心の奥底に静めていたかっての恋人との情熱だった。故郷を離れた時から、誰にも語らず守り続けた青年との恋が、新しい男性との新しい恋がいざなうかのようによって再び思い起こされる当時の生々しく激しい感情と狂気、それは恋の甘美と同時に彼女に残酷なほど深い苦しみもよみがえらせた。
女の意識は過去ヌヴェールと、現実、広島の間で混沌としていく。
そしてあんなにも愛していたのに、すでに忘れかけていることへの恐怖と、新しい男への魅力に傾斜していくことへのとまどいにゆれる。

ここからアラン・レネ監督は、女の個人的な体験から、もうひとつのテーマー”忘却”へと導いていく。
忘れることは、ある種の解放をもたらす。かっての苦しみや悲惨、過ちから解放されることを意味する。そして忘却は、次の新しい可能性もうむ。女と男がさまよう広島の街は、原爆投下の象徴を残しながらも、市内の夜は歓楽街へと変貌をとげている。わずか9秒間で死者20万人、負傷者9万人をうんだあの日と、人々の再生するエネルギーと広島の躍動する活気が交錯する映像に、世界の矛盾と忘却することの意味と罪に我々はなにをこたえたらよいのだろうか。
やがて女は苦しみの中から悟っていく。何故、男が君はヒロシマを見ていないと言っていたのか。個人の苦悩・悲劇から人類の犯す罪に重ねていき、お互いの名前を呼び合うラストは、哲学的で崇高ですらある。
光と影が交錯するモノトーンの前衛的な映像が、今日観ても斬新で、美しい。音楽も映像にふさわしい。映像、音楽、マルグリット・デュラス脚本によるふたりの会話、すべてが計算されていて意味があり、それらを理解するには受身で映画を観る習慣に慣れてしまった人には、難解で退屈な映画かもしれない。広島の街には、何度も訪れたことがある。映像の中の1950年代の広島が、まるで異国の全く知らない町のような印象を受けた。そして、広島の無防備な表情の人々。まるで見知らぬ異邦人のような顔ばかり。時代は、確実にあの日からはるかに遠ざかっている。けれども、我々は決して忘却してはいけない”名前”をもっている。
この映画は、単なる恋愛映画でもなければ反戦映画でもなく、またイデオロギーを問う映画でもない。しかし、反戦映画をこえた深くて重い問いかけを我々にもたらす歴史に残る傑作映画だ。

「忘れたとき、歴史は繰り返す」
男は、微笑みながら女を見つめて語りかけた。

監督:アラン・レネ
原作/脚本:マルグリット・デュラス




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