千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  
旧館の「千の天使がバスケットボールする」http://blog.goo.ne.jp/konstanze/

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2008.03.31 Monday

「エコノミスト・ヒットマン」ジョン・パーキンス著

ひ本書の著者の職業は、1971年〜80年まで米国の国際的コンサルティング会社の有能なエコノミストだった。
しかし、その素顔は賄賂、選挙の裏工作、都合のよい財務収支報告書にお決まりの脅しや女の道具や武器を駆使して、世界中の国々をだまして莫大な金を掠め取るエコノミック・ヒットマン。本書は、その仕掛け人の懺悔物語である。

彼らエリート集団は、貧しい国に発電プラント、高速道路、港湾施設、空港、工業団地などのインフラ設備をもちかけて、建設の請負業者を米国の企業に請け負わせることを条件に、国際的金融機関から融資を利用して、米国の大企業や政府、銀行を率いるコーポレートクラシーが他国を思いのままに繰れる状況をつくりだしていくのがミッションだ。資金の大半は、米国から流出しない。ワシントンのオフィスから、国内のエンジニアリング会社に送金される。けれども融資を受けた被援助国は、当然ながら元金&利息の返済を求められる。この借金は、莫大である。あっというまに債務国は債務不履行に陥り、ついには国連での投票権の操作、軍事施設の設置や石油やパナマ運河などの資源のアクセスなど、厳しい代償が待っている。
かくして、貧困国はめでたく世界帝国の軍門にさがる。
工事を請け負う企業にすれば莫大な収益を得るが、その一方で借りる立場としてはほんのごく一部の権力者にだけ金がまわり、大多数の貧しい人々はさらに貧困に陥る。たとえGNPが上昇したとしても、利益を得るのはガスや電気の公益事業を所有する有力者だけで、健康や教育を必要とする貧しい人々には、結果的に借金返済の犠牲となり社会的福祉を奪われることになる。それが、世界のからくりだ。

本書はそうした世界経済の暗部に光をあてる高い目的をもちながら、著者というひとりの人間の自白がさらす米国人好みの”暴露本”という面も有する。厳格な両親に育てられたこと、最初の妻との離婚、その後出逢った魅力的な女性たちとの交流を経て、さらに魅力的な報酬と刺激的な仕事に、自分自身の良心に問うという問題を先送りにしたことへの自分への贖罪もかねている。辛口な言い方をすれば、有能に次々と仕事を決めて昇進の階段を登るエコノミストとしての自信、達成してきた業績への回顧とわずかな自慢、、、私には、正直でおそらく弁のたつおしゃべりなヤンキーな執筆者の姿が目に浮かぶ。本書を執筆したことで、罪を浄化して自己満足していないか。そうは言っても著者は、最終的には自分は奴隷商人だと悟る。自分の後輩の現代のエコノミストたちは、貧困にあえぐ人々は、収入がゼロよりもたとえ一日1ドルでも稼ぐほうがましであり、彼らは勤務先の企業が生き残るための根幹で、自分たちの豊かなライフスタイルの基盤であることをも理解している。それで、よいのか。
厳格な両親、そして周囲のクラスメートに比較して裕福ではなかった学生時代をおくった著者が、たいした理念もなくほんのきっかけでこの業界にあしをいれ、持ち前の上昇志向もあいまって、まるで映画のように太陽がいっぱいの人生がはじまる。混沌とした第三世界での若者好みの冒険ハナシもある。けれども、自らの良心の呵責に堪えかね、チャールズ・T・メイン社を退職してから20年近い歳月が流れ、一人娘も成人してようやく本書が日の目を見ることになった。

米国政府とサウジアラビアは、イスラム教徒のゲリラに約35億ドルを提供しているという話題も含めて、世界情勢に関心のある方には、内容の殆どは既知の事実であろう。それでも、世界の真相とからくりを知りたい方には、本書はお薦めである。東洋経済新報社が出版した意義もあるというものだ。

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2008.03.29 Saturday

自立していくのだめ「のだめカンタビーレ」#20

のだめ今や「のだめカンタビーレ」は国民的漫画だそうだ。
出版業界が不況で、個人的には今の日本の小説には読みたい本が少ないのだが、漫画業界は活況である。Googleで調べたら(こういう時は、ホントに便利)、のだめの1〜19巻までの売上部数が2700万部を突破したそうだ。この現象はなんなんだろう。

さて、笑えるクラシック漫画の20巻。やっぱり笑える!このスタッカートのようなギャグのセンスが、読者をあきさせないキモだろう。
音楽好きには、おなじみの名曲の登場も愉しみ。今回は、ショパンのピアノ・ソナタ第3番ロ短調にのだめは格闘中?この曲を練習しているのだめの3楽章の演奏を聴いて、ターニャが懐かしみながら「ここは、もっとがっつりうっとり聴かせてくれないと〜」と文句をつける場面があるのだが、そのセリフを聞いたユンロンがあっさり、「またそういう自己陶酔プレイを ショパンでそういうプレイされると 見てはいけないものを見てしまった気になるよ リストとかならまだしもネー」と。。。
ターニャがコンクールの予選で弾いた曲は、シューマンのクライスレリアーナだった。シューマンがクララに叶わぬ恋をしていた頃、ホフマンの小説「楽長クライスレリアーナ」からタイトルをとり、自分の想いを重ねて作曲した不思議な印象を残す名曲である。ターニャは、自分の中にある音楽をシューマンの内面から湧き上る積極的なものと消極的なものを重ねて演奏した。それは、充分に聴くものを魅了した。悪くはない。しかし、審査員のひとりが「大事なのはこの曲の音楽だ」と。
20巻のテーマは、ひと言で言って「音楽に誠実に向かう」こと。

本選でとりあげられたラベルのピアノ協奏曲に触発されたのだめがコンクールに出場したいと申し出た時、オクレール先生の「目の前の音楽に向き合えていない」とあっさり反対される。ターニャは、日本的な言い方をすれば頑張った。よくやったと思う。が、結果の理由がわかる。自分の個性を音楽にこめることと作家の意図する音楽の対立。なんて音楽は深いのだろう。
千秋のベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番変イ長調の解釈も役に立つ。
主題を徹底的に展開していくと「英雄」「運命」のような緊密な緊張感やダイナミズムある曲が作れるが、音楽のもうひとつの魅力、旋律の美しさはある程度犠牲になる。ベートーヴェンは、その叙情性をあえてだして主題の展開をさけるかわりに起こる曲全体の構成のゆるさを後の楽章で補い、どうやって有機的に全体をまとめるかということに力を注いでいるんだろうな」
でも、与えられた道は自分のものにはならないのが、演奏家にとっての音楽なんだな。
千秋から自立をはじめるのだめ。
この続きは・・・と、やっぱりのだめワールドからぬけられない。


■ふりかえりアーカイブ
のだめカンタビーレは歌う♪
のだめカンタビーレ
のだめカンタビーレ#15
「のだめカンタビーレ」テレビ放映爆笑
いかづちに打たれた「のだめカンタビーレ」♪
もっと高くもっと遠くへ「のだめカンタビーレ」#19
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2008.03.20 Thursday

「数学者の無神論」J・A・パウロス著

かみ本書の副題は、「神は本当にいるのか」
・・・・
いませーーーっん!!
西銀座チャンスセンターにどこからわいたのか善良なる老若男女の行列。なんと大安の日は、宝籤を購入するには1時間待ちも覚悟!?以前、週刊『エコノミスト』の「敢闘言」で、ジャーナリストの日垣隆氏は、宝籤の当たる確率を示して(0.00000・・・)、射幸心をあおる広告を垂れ流しして年末ジャンボに走る市民を、飢えた猛獣の生き餌と怒っていた。いくら確率論を言っても、当たりやすい場所を信じて宝籤を買う人には無駄。それどころか、理屈っぽい人と非難をあびてしまう。信仰心は尊いと私だって感じる。縁起をかつぐのも良し。けれども、訳者も憂えているように、最近の風潮として(マルキストが後退しているせいもあるのだろうか)、非科学的なことを信じない者、科学で説明できないことを神秘的な夢と勘違いするのはけっこうだが、それに同調できない者を”夢のないかわいそうな人”と哀れんだり、場合によっては、KYな人と有害な要注意人物扱いされるのは、納得がいかない。おかしくないかっ。

そんな無神論者、もしくは不可知論者にとって待望の本書が「数学者の無神論」である。著者は、なんたって、ダーウィンが悪魔扱いされる米国の数学者である。本当にセツジツなのである。著者は、神がいないことを四つの古典的論証、主観的論法、数理論論証で見事に証明、論破している。向かうところ、敵(神)なしである。
一番わかりやすいスタディが、めぐりあわせ論法である。
2001年9月11日、この歴史に残る悲劇的な事件は、民族、文化、政治、経済、宗教と複雑にからみあった事件であると誰もが思うだろう。
9月11日は、1年の254日め(残っている日にちは111日)。2+5+4=11、911の和も11、767×91×11=767,767。(乗っ取られた飛行機がボーイング767だった。)任意の3桁の数字に91と更に11を掛けると解は、元の数字を2回繰り返す性質がある。世界貿易センターのビル2棟は、「11」に見え、衝突した最初の飛行機は11便。ついでに、翌年のニューヨーク州の宝籤の当りくじは、911だった。この偶然がもたらした符合に何らかの意味があるのだろうか。あるわけがない。全知万能の神の意図が隠されているのだろうか。ないでしょ・・。17世紀フランシス・ベーコンは「人間の理解力は、ひとつの見解を採用すると、それを支持してそれに合致するすべてを引き寄せる」と示している。

少々うっとうしさすら感じられる無神論者による本気モードの「神はいない」理論には、米国における諸々の状況への危機感がにじみでる。
著者の住むフィラデルフィアでは、科学の大進歩の記事よりも単純な奇蹟物語の方が、不幸な有名人並に人気が高く扱いも大きい。社会学者ペニー・エッジェル氏の調査によると無神論者は、米国の道徳の範囲からフェードアウトした人種になるらしい。文化的エリート主義者、非道徳物質主義者、共通の善には関心のない犯罪的行為や薬物中毒に走りやすい人たち。アーカンソー州憲法19条では、「神の存在を否定する者は、何人も本州の官公署の職に就くことはできず、法廷で証人として証言することを認められない」とされている。ドフトエスキーは、「神が存在しないなら、何でもできてしまう」と警告しているが、神さまという飴と鞭がない民は、暴徒となって犯罪に走りやすいのか?犯罪発生率の研究によると、米国の刑務所の住人は、宗教を信じていない人が信じている人に比較してつりあわないくらい低かった。
心理学者の過剰正当化効果に関する実験では、最初に与えられた数学ゲームに熱中したこどもたちが、次にゲームに参加した報償として賞品を出されてもゲームに使う時間が短くなり、賞品がなくなるとゲームにへの関心がなくなった。ゲームが飽きやすいものなのか不明であるが、これは、外から与えられる報償が、子どもたちに内在する関心を摘み取ってしまうことを説明している古典的な実験である。つまり、宗教的な命令や「良い子」でいるご褒美がなくなると、こどもは「良い子」でいるゲームの時間が短くなる。

しかし、著者が言いたいのは、神が存在するか否かの論議ではない。美しく複雑な宇宙や自然、生命現象に対する「神」の創造とする理論に警告を鳴らしたいのである。啓蒙の時代から、非信徒、懐疑的な人、不可知論者、無宗教者はたくさんいた。ユーモアに欠ける人々の無知で尊大な信仰に迫害されても。世の中にはいろいろな育ち方をしてきた人がいる。またこどもは、親とは異なる発想や考え方もしていく。それなのに、近頃職場ですら「大安」や「仏滅」などを大事にする人の方が人格的に上とする暗雲が・・・。他者を思いやる行為は、ひとぞれぞれ。賢者は、こんなことをいちいち気にしたり、あえて非科学的なことを証明せずに沈黙するのだが。。。訳者の究極のひと言に、積年のうさがすっきり晴れたのだった


「自分と同じ夢を見ない人は、夢を見ないのではなく、違う夢を見ているのかもしれないのだと理解するのも、論理の基本」

みなさま、論理の基本はお忘れずにね。


*米国で宗教を選択しない人は、2500万人。
近年、非宗教的な人々による啓蒙活動の一貫として、無宗教主義者を「Bright」とからとって「ブライツ」と呼ぶ運動がある。著者は、この呼び方を嫌っている。私もしごく同感なのだが、ちょっと使ってみることにした。

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2008.03.17 Monday

「天使の記憶」ナンシー・ヒューストン著

天使頭髪は年々乏しくなってきてしまったが、若手フルート奏者の美男子ラファエロは、親からの資産やパリの1等地にあるおしゃれなアパート、フルーティスト独特の息継ぎのマスターだけでなく輝かんばかりの音楽的才能、楽天的な気質、諸々恵まれた環境にいる前途洋々の独身男性。『フィガロ紙』に載せた求人広告が「求む家政婦・家事全般・要料理・住込」。それは、1957年のことだった。やがてやってきたのが、不思議なドイツ娘。彼はミステリアスなこのサフィーを採用すると、試用期間も終わらないうちにたちまち手をつけてしまった。交響曲のように構成を考え、転調して変化をつけ、いきなりフォルティッシモにならないように”ポコ・ア・ポコ”で必然的なクレッシェンドが見事に快楽ののぼりつめた絶頂がくるように。勿論、職業柄、感じやすく繊細で巧みな舌と唇を使って。さしずめ、テーマ音楽はグルック作曲の「愛の勝利」だろう。彼は、これまでであったすべての女性で経験しえなかった快楽を味わい、徹底的の自分を投げ出してサフィーを愛し、そしてドイツ娘というだけで怒るママンの反対をおしきって結婚した。
ふたりの間には胎児が宿り、サフィーはこっそり堕胎をこころみたが未遂におわり、やがて未熟児のエミールを出産する。
妻と愛息に金色の音符をふりまくように愛情をふりそそぐラファエロだったが、妻の心はかたく閉ざされたままだった。
ところがある日、夫の知人の楽器職人・アンドラーシュに出会ったサフィーは、ひとめで激しい恋におちてしまったのだが。。。

ハーレ・クインス・ロマンスのような甘いタイトルと表紙。サフィーを愛する夫ラファエロと恋人アンドラーシュ。こう言ってしまうと、よくある不倫もの、或いは三角関係の恋愛小説と思ってしまうだろう。確かに、陽気でネアカなラファエロを中心に、風変わりで経歴が謎の妻とのレンアイがユーモラスに展開していく。おまけにアンドラーシュもチャーミングで、楽器職人として働く工房の内部のきどらない佇まいが、読者の微笑を誘うかのように描写されている。
この不倫ものは、人の道をはずれるような後ろ暗さも、穢れすらも感じさせられない。サフィーもアンドラーシュも何をもおそれないからだ。サフィーは、ひとり息子を連れて、ただひたすら恋人に会い、愛情をお互いのカラダで確認しあう。彼らは無垢な存在だと言ってもよい。
にも関わらず、恐ろしい予感が、まるで物語全体に通奏低音となってかすかに響き、次第にその研ぎ澄まされた音に首を絞められるように、彼らの存在が重くのしかかる。そして最終章に向かって、読者の想像をこえる悲劇のクレッシェンドがはじまる。

登場人物のキャラクターをめぐるもうひとつの主題音楽が、深い悲しみと禍根を残したそれぞれの国、それぞれの民族の歴史である。
ヒロシマには、世界で初めての壮大な実験、原爆投下が行われた。ユダヤ人は、ナチスによって大量虐殺された。Michael Haneke監督の映画『隠された記憶』の主人公の幼なじみは、両親が1961年のフランスのアルジェリア人虐殺事件に巻き込まれて天涯孤独の孤児になった。アルベール・カミュは、アルジェリアで過ごした少年時代の小説を書いていたが、やがて自動車事故のためフランス南部で死を迎える。ソルボンヌ大学で勉学を終えたポル・ポトは、学んだことを早速実践すべくプノン・ペンに帰った。

そして、アンドラーシュの同郷の友人は、パリを囲む森の中で両手両足をきられて裸でつるされた。
人は、どこまでゆるすことができるのだろうか。私たちは、過去をゆるし、他者の心を理解して、はたしてどこまでも深く愛することができるのだろうか。
私たちは、老いて、天使のもとにかえる前にすべてを忘れて純粋にならなければいけない。もう一度、無垢な存在に戻らなければいけないのだ。

洗練されたパリの香りがただよう文章に魅了され、一気に読んでしまった。しかし、ここで描かれる人間劇は、表紙もタイトルも文体も裏切って、あまりにも重く衝撃的、戦慄すら覚える。
ラファエロの奏でるフルートの調べは、音符の名称も消え、作曲家の名前も時代背景も消えていく。音楽は、音楽について語らない。この偉大な演奏家は、演奏という個別的な現象から離脱して、常に既にそこにある崇高な次元に上昇していく。
老いて、人は音楽のように人生を忘却の彼方に解放する。人生には、何も起こらなかった。起こったとしても遠い遠い過去のこと。はたして、なにもかも忘れてしまうほうが良いのだろうか。本当に?
生きていくうちに、少しずつ手のひらに降り積もった哀しみの雪。それはいつか澄んだ空に消えていくのだろうか。でも、今はアンドラーシュが言った次の言葉をかみしめながら、私は本を閉じるとしよう。


「さあ、泣くんじゃない。音楽がそう言っているよ」

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2008.03.14 Friday

「わたしたちが孤児だったころ」カズオ・イシグロ著

イシグロアン・リー監督の映画『ラスト、コーション』の観どころは、ノラネコさまの使用された単語を拝借すると「春画のような体位」ばかりではない。
舞台となった1940年前後の上海の街のようすが、忠実にリアルに、しかも美しく描かれている点にもある。男女の性愛を観客の関心を最後まで維持してグロテスクに、そして美しく描くには、綺麗な裸体の背景と小道具への美意識なしでは成立しない。

「わたしたちが孤児だったころ」の舞台も映画と同じ時代の上海。主役は、英国人の名探偵クリストファー・バンクスだけれど。
さかのぼること、およそ30年ほど前の1900年代初め、上海の租界地に住むクリストファーは、貿易会社に勤務する父と、美しく強い倫理観をもつ母と暮らしていた。友人は、隣に住む日本人のアキラ。ふたりは、男らしさを競い、毎日探偵ごっこに熱中する。しかし、平和な生活は長くは続かなかった。
世界大戦の足音、そして父、次に母までが謎の失踪を遂げ、事件が未解決なまま彼は母国の英国に戻された。
やがて名門大学を卒業して、探偵としての名声も勝ち取り、ロンドンの社交界にも歓迎されるのだが、もうひとつの祖国、上海で両親を探す決意をして再びかの地を踏むことになったのだが。。。

イシグロ・カズオ氏の初体験の「わたしを離さないで」、そして先日読んだばかりの「日の名残り」。3作に共通するのが、主人公の一人称という形式を遣っている点である。そして、自身の記憶をたどる旅という構成。
「わたしを離さないで」と「日の名残り」では一人称という形式を使用することで、読者自身の感性をある種の”物語”の作り手の感情のひだにしみわたらせ、それによって生きること、人生の重みへの共感に成功した。本書での一人称の「わたし」は、わたしという視点の曖昧さ、不確かさを演出して、奇妙で独特なイシグロ・ワールドを演出している。ハヤカワ・ミステリーから出版されているが、探偵小説という形式ではなく、やはり純文学の範疇に入る。そしてなによりも、バンクスのこども時代の回想の完成された文章の応酬に、読んでいて作家の真骨頂をたっぷりと味わえるのが醍醐味。ここで、こどもらしい幻想的なホラーものへの興味のエピソードを披露させて上海の街の入り組んだ生活のリアルな印象を与えながら、逆におとなの世界をバンクスに語らせる理性的で写実主義のような描写に、読者は次第に輪郭が曖昧となり、アヘンの煙にゆれる幻想の街へと迷いこんでいく。
バンクスの奮闘ぶりに孤児となった喪失感を味わいながら、ゆるやかに混沌としたシュールな世界に放り込まれてしまった。

そしていかにも正確に忠実に再現していく記憶が、重要な物語の要である。著者によると
「人間は、記憶というこの奇妙なレンズ、フィルターを持っていて、成功した人間も失敗した人間も、過去を見るときにこのレンズを使ってイメージを操作し、過去を変える」ことになる。人間は、嘘の記憶をつくりあげることができる。「奪われた記憶」に紹介されていたある心理実験では、実際見ていないUFOを観たと主張する人は、ほんのわずかな印象の記憶から過去の体験をつくりあげ、あたかも本当に経験したかのような生理的な反応を示すことが証明されている。確かに経験したと自分では信じている記憶の曖昧さ、思い出を反芻するうちに幻想的な世界に変容していく不確かさ、そこからくる人生の喪失感。これを味わったことのない人は、本物のおとなになっていないと私は思うのだが。
バンクスの両親失踪の意外な顛末からくる滑稽さと、そして悲しみが、いやがうえでも記憶の儚さと脆さを感じさせる。その点でも、本書のタイトルにある孤児だった”わたしたち”とは、誰もが進行している現実からすべり落ちていく孤児と同じような存在だと言えよう。
本書は、発売と同時に英国でベストセラーになっている。
ちなみに、本の表紙にある写真の当時の街は、今もあまりかわらず銀行街として残り、この地を訪れる旅行者をノスタルジックな気持ちにさせてくれる。

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2008.03.05 Wednesday

「奪われた記憶」ジョナサン・コットン著

奪われた一昨日のひな祭りは、実は私の誕生日だった。だからというわけではないが、数年ぶりにとりだしたのが、高校時代に愛用していたお気に入りの赤いノルディックセーター。ちょっと小さめのそのセーターにひめられた高校時代の大切な思い出を、しばしの間抱きしめて当時の懐かしい記憶をたどってしまった。ほっ、、、永遠の16歳の乙女心が発動し、まるで昨日のことのように、当時の感情がよみがえり、ほのぼのとしながらもきゅんとせつなくなってきた。あいつのことなど、ずっと、ここ何年も思い出すことなどなかったのに。。。

記憶とはなんだろう。
「記憶は、縦横無尽に針をするお針子」
バージニア・ウルフはそう喝破した。記憶は物質ではなく、機能の集合、つまり脳の中に分散されている部品を必要に応じて織り合わせるシステムである。さしずめ、あの赤いセーターは私の少々衰えてきた脳の中でせっせとお針子の役目を果たしてくれたというわけだ。けれども、もしもその記憶を縫うための金の大事な針を永遠に無くしてしまったとしたら。

パトリック・モディアノの1978年の著書「暗いブティック通り」は、戦争中に記憶を失った≪私≫の自分探しの旅の物語だった。この本を読んで、私は、記憶を失うことの寂しさと、そして現実への足がかりをも失ってしまったこころもとなさの悲しみを感じた。不愉快なことやいやなことを忘却の彼方に流せるのも自分の特技、けれども今後、きたるべき老年の域に到達して病から記憶が少しずつ自分の人生から欠落していったとしたら。
『昼顔』の映画監督ルイス・ルイス・ブニェルは「記憶のない人生とは、とても人生とはいえない。記憶とは、首尾一貫性、理性、感情、行動である。記憶がなければ、我々は存在しないのも同然だ」と述べている。たとえば、高校時代の記憶を喪失してしまったら、そんなことを想像したら記憶がいかに自分の人生の一部、自分自身そのものををつくっていたかということに気がつく。本書は、calafさまがご愛読かと思われる「グレン・グールドとの対話」など、音楽評論家、詩人、また「ローリング・ストーン」誌の創刊以来の編集者としても活躍するジョナサン・コットンが、慢性の鬱病の治療のための電気ショック療法により、1985年から2000年までの記憶を喪失したことをきっかけに、「記憶とは何か」をテーマーに神経生物学者、女優、宗教家、心理学者など幅広い分野で活躍する9人の人々に取材を重ねた、文字どおり「記憶と忘却の旅」である。
この電気ショック療法で思い出すのが、映画好きの者なら誰でも知っている『カッコーの巣の上で』の中で、ジャック・ニコルソン演じる主人公に施された非人道的な行為であるが、現在は適切な管理下で鬱病や統合失調症に対する有効な治療法として知られている。しかし、著者は36回の療法によって15年分の記憶をすっかり失い、認知能力も低下した。インフォームド・コンセプトが不充分なことを怒りながらも、優れたジャーナリストであり詩人でもある著者は、「記憶」の概念からはじまり、ひいては生きることの意味を思索していく旅人となった。これまで「記憶」とは、短期的記憶は海馬でつくられ、長期的記憶が大脳皮質で保管されているという物質レベルでしか私は考えたことがなかったが、本書を読んで、著者の「記憶」をめぐる旅の美しさと神秘さ、深遠さに何度も感応された。
たとえば、アルツハイマー病患者にとっては、美しい薔薇を鑑賞した時、次に再びその同じ薔薇を見ても初めて観た経験となり、結果的にこれを何度も繰り返すことになる。彼らにとっては、習慣による生活の無感動さとは無縁である。患者は、常に「今この瞬間」に生きる存在であり、禅宗の無限が一瞬一瞬の有限の連続であるという考え方にも通じる。
全編を通して、日頃考えたこともない「記憶」をキーワードに読者も著者とともに生きることの意味を問わざるをえない。障碍を残しながらも、著者の繊細で緻密な感性とこれまでの業績がうかがえる(たとえ記憶を失っても)文章に、知的でありながらセンスのよい本と言えよう。つなさんにもお薦め。

長い旅を終えた著者は、自分宛てに手紙を書いた。
「ショック療法は、思考を破壊し、そのリアリティを失わせるが、それでも感情や思考は残っている。私は日々の一瞬一瞬を生きている」
私は赤いセーターを再びそっと丁寧にタンスにしまった。記憶は失いたくない人生の宝物、でも今を生きることももっと大事。

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2008.02.25 Monday

「エレクトラ」高山文彦著

naka46歳という若さで世を去った中上健次。もしも武闘派の彼がまだ生きていたら、さしずめ軟弱ものの森見登美彦などは酒席で吹き飛ばされていただろう。
「文藝」の編集長だった寺田博氏は、中上のデビュー作を掲載した後、新宿の「びいどろ」で健次と酒を呑みながら話をした時、この男は小説の宝庫だと思った。いつかきっと大きな小説を書くのだろう、その発表の舞台は「文藝」。

「中上健次という作家の登場は、現代文学にとってひとつの事件であったと私は思う」
著者のこの言葉に、多くの文学青年や少女はうなずくであろう。私も初めて中上健次の「岬」を読んだ時の衝撃は、今でも鮮明である。あまりにも自分の住む世界とかけ離れたその濃密な血と土の匂いと体臭に、ただただ圧倒された。その荒ぶる作家の創作の端緒を、本書でふれたような気がする。
何故ならば、著者によると健次はこれを書かなければ生きていけないという物語の束がその血の中に脈々と息遣いをし、作家となる宿命を背負ってこの世に生を享けたのだからだ。彼は、その宿命に哀しいくらい誠実に、自分の命を燃焼して人生をまっとうしたのだった。

顔も体格も相撲取りのような健次は、酒席でも場外乱闘に励んでもいたらしいが、この評伝からうかぶその人物像は、意外にも幼少の頃はひ弱で小柄、そしていじめられっこだった。性格も気が弱く優しく、夫人によるとむしろ幼稚なところがあった。けれども、芥川賞を受賞した時、編集者に突進して大泣きをするなど魅力的で人の心をとらえるオーラもかねそなえていた。高山氏の筆が描く等身大の健次は、その一方で文学に対する厳しくも真摯、そして清廉潔白な骨格のがっしりした本物の文学者の姿をとらえている。文学か家庭か。妻からそんな二者択一をせまられるほどの最後の無頼派の生き方は、複雑な出自を背負った者の哀しみすら感じられる。その壮絶さは、最近の薄くて軽く読み捨てられる作品を次々と垂れ流している作家にはみ無縁のものだろう。
父を殺し、母を殺し、ある連続殺人者が銃の引き金をひくかわりに、健次は文章で人を殺してきた。身内の者で、中上健次が大嫌いな者がいる。ひどく嫌悪感を感じるらしく、絶対に読みたくないそうなのだが、だからこそ健次らしいと私は思う。彼の中の路地で蠢く蛇たちは、人間のきれいな理性をはぎとって、その裏にしまっていた裸の本性をさらけだしている。その姿にたまらなく嫌悪感を感じるか、強烈に惹かれるか。またガルシア・マルケスの「予告された殺人」を読んだ時、私は中上健次の小説によく似ているという印象をもったのだが、著者はマルケスの小説が翻訳される前にすでに健次の作品の方が発表されていたと指摘している。

そして、もうひとつ私が圧倒されたのが、健次とともに生きてきた編集者、同人誌の同人たちの文学に対する熱気と気迫である。編集者と何時間も議論し、同人会では互いに忌憚のなく辛辣な批評をし、彼らの存在がこの大きな器の作家を真摯に育てたきたともいえる。こんな言葉を使いたくないが、健次も凄いが彼らもまた凄い。「顰蹙は買え」と商売として出版事業を採算ベースにのせていく「幻冬社」の見城徹氏もそのさえた技を認めざるをえないが、当時の文学にとりつかれた人々の心のありかたには、本書のテーマでもある「人間の生きる動機とは何か」を深く考えさせられる。こういう部分をきっちりと文字に起こしていくところが、高山氏らしい作風だとも思う。
これまでの著者の「水平記」「火花」の完成度の高い評伝に比較したら、「オール読物」に4年間に渡って掲載されたいたものを加筆訂正している成り立ちから、多少散漫な印象もしなくもないが、最終章に向かって健次の亡くなった時の文章は、淡々としながらも、彼の死を惜しむ著者の慟哭すら感じる。今年から、テルアビブ空港乱射事件の奥平剛士について取材をはじめているそうだが、評伝を書かせたら、今のあぶらののった高山氏の仕事はこれ以上望めないくらいに充実している。どうしても書かなければならないつきあげるかのような衝動が、健次そのもののように彼の中で嵐のように荒ぶるのであろうか。どうか、これからも丹念にお仕事をしていただきたい。

寺田博氏が予想したとおり、「文藝」で初の長編小説「枯木灘」が発表された。この本は、健次の作品の最高傑作だと私は思っている。

■アーカイブ
水平記
編集者と作家
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2008.02.16 Saturday

「アフター・アメリカ」渡辺靖著

あ本の表紙にある米国映画でよく見かける住宅街の写真が印象的な本書は、気鋭の文化人類学者の渡辺靖氏の業績が高く評価されたきっかけになった1冊でもある。著者は、米国北東部ニュー・イングランドの都市ボストンにおける対象的なふたつの階層、アングロ・サクソン系プロテスタタント系の上流・中上流階級のボストン・ブラーミン、そしてアイルランド系カトリックの下流・中下流階層の家族(ボストン・アイリッシュ)を13家族の22人にインタビュー形式の3年間に渡るフールドワークを重ねてまとめた論文を、一般人向けに起こしたものである。

ところで、『モナリザ・スマイル』という女性向けの素晴らしい映画がある。
この映画の舞台は、1953年の名門女子大学、ウェルズリー大学である。優秀な彼女達は、アカデミックな教育を受けて知性的で優れた頭脳をもちながらも、大学からも両親からも望まれることは、能力を生かした職業をえることではなく、自分とつりあうハーバード大学の学生から在学中に婚約指輪をもらうことだった。そんな保守的な大学にやってきたのが、美術教師のキャサリン。美しく知性的で自由な精神をもつ彼女は、優等生の女学生たちに「自分で考えることの大切さ」を教えていくのだったが、それは保守的な学校に波紋をまきおこすことにもなった。。。
米国初の女性大統領が期待される”あの”ヒラリーがウェルズリー大学に入学する1世代前は、名門といっても花嫁修業の授業もあったりとその保守的な校風に驚いたりもしたが、印象に残ったのが当時の女子大生たちの行動様式である。彼女たちは、一様に裕福な良家の子女で将来の設計も、親も学校も望んでいるハーバード大学の学生たちと交際して在学中に婚約、そして結婚して専業主婦になることだった。本書を読んで、彼女たちと彼女たちの恋人たちが典型的なボストン・ブラーミンの階級出身であることに気がついた。

本書の構成は、このようなボストン・ブラーミンのクラス、ボストン・ブラーミンらしさの栄華が残っていた世代のインタビューから始まり、次に対象的なアイルランド系家族の話といった著者の繊細な感受性が感じられる前半と、学術的な論文の後半という全く異なるふたつの形式に成っている。
累進課税、遺産の相続人の増加、社会やこどもたちの意識の変容によってボストン・ブラーミンは、少しずつ資産が減っていき、ハーバード大学に学力不足で入れないこどもたち、異なる宗教、異なる人種の配偶者の一族への仲間入りと、骨董品や美術品などの離散していく資産と同様に一族も紐帯を失いつつる。
ピラミッドの平坦化現象が起こっている。この文脈は、特権が入りずらくなった民主化のプロセスと平等主義というアメリカン・ドリームへの流れである。だから、ボストン・ブラーミンと対象的な地域に根ざし、家族主義的で学歴もなく単純作業の仕事に従事していたボストン・アイリッシュたちも、子ども達の世代になると大学卒業証書を手に入れるや希望の仕事を求めて全米に散っていき、教育費を考慮して避妊をして少子化がすすみ、中流の家庭を営むようになった。こうした上昇移動は、自由で豊かな生活をもたらすものの、厳しい競争社会にさらされ人間としての素養よりもいっそビジネスライクな関係におきかえられる。

このような現象は、米国のみならず日本でも同じように私には思える。ボストン・アイリッシュの家族主義やコミュニティは、日本のムラ社会にも通じるところがある。また出自ではなく功績、市民権という概念、平等の権利による新しい社会は、消費社会・市場主義社会のうねりとともに逆に個人の願望に基づく多様な家族を生み出した。
それでは、文化人類学者である著者のフィールドワークが何故アメリカなのか。
ヨーロッパの産物である「近代」の理念の未来が、未完の米国だからだ。しかもその試みが、きわめて実験的であるから、著者もそして我々も「アメリカのなかにアメリカ以上のものを見出す」ことを求めてひかれているのかもしれない。
最後に、この素敵な表紙の写真は、著者である渡辺靖氏自身が撮影したものである。

■渡辺靖氏の次のフィールドワークの成果
・「アメリカン・コミュニティ


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2008.02.05 Tuesday

「世界でいちばん美しい物語」

世界私たちは、この世に生を受け、そして地球の歴史の45億年から考えると一瞬のうちに消えていってしまう。そう、万物の生きるものは、必ず死を迎える。
それでは、何故、老化や死は生物にとって必要なのか。
どんな生物でも細胞は増殖しているのだが、細胞内に生物時計のような化学的振動体があって、各細胞の増殖回数を制限している。この回数に到達するとあらかじめくみこまれたメカニズムが働いて、細胞を一種の自殺に導いていく。死とは生の必然である。細胞分裂の回数が多くなれば、それだけ情報を複製する時のエラーも増えて蓄積され、ついには大量のエラーが原因で、その生物種は劣化して死滅していく。
つまり、生物学者の言わせると死とは「固体にとっては迷惑だが、種にとってはありがたい贈物」ということになる。
なるほどっ!!ゲームオーバーは、私という固体にとってはえらい迷惑な現象だが、ホモサピエンス、ヒト科にとっては恩寵を与えるのだった。

私たち人間は、宇宙全体の組織化の最新の成果のひとつにしか過ぎない。何故ならば、私たちの体を構成しているのは、かって宇宙をつくった原子だ。150億年前の宇宙のビッグバンを起源とした宇宙の物語、このとてつもなく壮大なドラマの現在進行形の物語の途上にあるのが私たちであり、私たちは進化の過程で消えていった生物の中で、ほんのつかのまの存在に過ぎない。この美しい物語の主人公は、私、そして私たちである。

本書では、これまで「宇宙」や「生命」と、個別にかつ専門的に語られてきた科学が、科学とは無縁ないちジャーナリストによる3人の科学者へのインタビュアー形式で、宇宙から生命、そして人類へと物語のようにすすんでいく。まずなんと言っても、構成が見事である。最初に宇宙の起源の話、あまりにも気の遠くなるような遠い遠い話から、生命、原子生物の誕生、自分が生まれてくるまでの、そして今生きていることの必然性の150億年間の流れが理解できる仕組みとなっている。なんの関係もないような銀河や星すら存在しなかった宇宙の起源時のカオスの状態が、自分自身につながっていることの素晴らしさ。そして最終的に人類はどこへ行くのか、という未来への課題。科学の知識が中心だが、その背景には個々人の哲学の領域にまで及ぶ。

たとえば、私自身はあいにく”信仰心”をもっていないのだが、科学の話題に宗教をさけては通れない。科学と宗教、どこでおりあいをつけていったらよいのか、というのがここ数年の疑問だったのだが、本書によってそれが氷解した。
そもそも科学と宗教は、その領分が違うのである。科学はものから学び、宗教は人を教え諭す。疑問をもつことが科学の原動力であり、信じることが宗教の絆。また科学が世界を理解しようとするの対し、宗教は生に意味を与えることを使命としてきたように、それぞれの問題へのアプローチもことなるのである。
科学と宗教が対立するものではないのだ。

また女性のインタビュアーの性格もあるのだろうか、自分の納得のいくまで質問をほりさげ、時には、解明できないことが多いと怠慢ではないかと科学者を非難するくだりもあり、率直な感想を述べているのがおもしろい。本書の成功の秘訣は、彼女の才気に負うところが多いと思う。

地球は、大変美しいかけがえのない惑星である。
しかし、今、人類、いや地球上の生物は、地球の限界に直面もしている。20世紀になって、核軍備拡大競争と環境破壊というふたつの自己を破壊する方法を生み出した。進化が淘汰する対象は、もしかしたら私たちかもしれない。
この美しい物語の次のページを書けるのかどうか、それは私たち次第である。
本書は図書館で借りて読んだのだが、文庫本もあるようなので、購入して会社の机に入れておこうとも考えている。

著者:ユベール・リーヴス ジョエル・ド・ロネー イヴ・コパンス ドミニク・シモネ



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2008.02.03 Sunday

「日の名残り」カズオ・イシグロ著

日本を閉じ終えた時、私はなんとも形容しがたい静かで深い感動に包まれてしまった。私にとっての禁句の”感動”が、これほどふさわしい作品もそうそうないのだが、こんな経験こそが、私には実感できる生きている幸福のひとつでもある。

1956年7月、スティーブンスが執事として長年勤務している由緒あるお屋敷ダーリントン・ホールは、主人であったダーリントン卿亡き後、米国人の大富豪ファラディ氏によって買い取られた。ファラディ氏にとっては、英国にしか存在しない召使ではない本物の”執事”を雇うことは、本来の役割だけではなく、英国で購入した珍しい貴重な骨董品を友人たちに披露する意味あいもある。そんな新しい主人に懸命に仕える彼にもちあがったのが、主人の勧めもあってイギリス西岸のコーンウォールへの小旅行。それは、彼にとってはお屋敷のスタッフ不足を補うために、20年前に退職した有能な女中頭、ミス・ケントンを再び雇用するために、彼女を訪問する旅でもあったのだが。。。

物語は、スティーブンスがファラディ氏から借りた車で旅をしている英国の田園風景と途上で出会った人々の現在と、20〜30年前のダーリントン・ホールが最も活気に溢れ、海外の要人を招いて非公式の国際会議が開かれていた華やかな時代であり、彼自身も”執事”という仕事を完成させた頃の回想が並行して、彼自身の語りという一人称の形式ですすんでいく。美しい田園地帯の中を車のハンドルを握りながらスティーブンスの脳裏にうかぶのは「偉大なる執事」の定義、その偉大なる執事のモデルのような今は亡き父、国の運命を左右する外交会議と主催する高貴なる紳士ダーリン卿への敬慕、そして今回の旅の目的である女中頭のミス・ケントンとの思い出だった。

スティーブンスにとって、偉大な執事とは、米国やアフリカの心踊る景観が、その主張によってかえって劣ることに比較して、英国の自然のもつ慎みのある落ち着いた美しさにも通じている。単なる有能な執事と偉大な執事は違う。偉大なる執事には真の「品格」が求められるのだが、その品格とは、自らの職業的あり方を貫き、それに堪える能力のあるところに宿る。常に、自己の職務への忠実さと、従がえることによって人類に貢献したと実感できる主人のダーリントン卿への忠誠。いかなる困難な局限でも、どのような状況においても、名だたる名門のダーリントン・ホールを取り仕切る執事として、常にプロフェッショナルに厳格に完璧に行ってきた。たとえ、無知で愚かな一般市民の代表を演じることになっても。
しかし、あの日、あの時、目的地が近づくにつれ、これまで成し遂げた仕事への誇りと矜持のなかに、彼のこころには小さなできごとの数々の思い出がしめるようになっていく。その思い出の主人は、ダーリントン卿ではなくミス・ケントンだった。ドイツ大使に一時期影響されたダーリン卿によって、ユダヤ人の女中をふたり解雇することになった時、質素でなにもない彼の部屋に彼女が花をもってきた時、求婚されたことをスティーブンスに報告にきた時。どの瞬間も振り返れば、人生を決定づける重大な一瞬だったように思えてくるのだった。映画では、エマ・トンプソンが演じていた自分の意見をあかるく明確に告げるミス・ケントンは、魅力的な女性である。豊かな感性を女性らしいこまやかさで表現するミス・ケントンをおくことで、”偉大なる執事”の悲哀がうきあがってくる。それは旅行中、迷いこんだ村で著名な政治家に間違えられた誤解の滑稽さとあいまって、彼は今、人生の黄昏にたたずむ。女中頭が、執事と意見を対立させ喧嘩しながらも、彼に恋をしていることはわかる。それに応えるスティーブンスの感情は、極端なまでに抑制されている。彼は、執事だから。時代の波に襲われ、ダーリントン卿が誤った道に落ちていくことをとめるよう懇願してきたカーディナルの友人としての忠告を、彼は頑固なまでにしりぞけた。なぜならば、彼は偉大なる執事だからだ。そして、えた世界という「車輪」の中心にいた自分の仕事の集大成ともいうべき結果の行く末。その時の勝利感と高揚とひきかえに失った夢の大きさよ。

第二次世界大戦前夜、米国人政治家がダーリントン卿を上品で正直で善意に満ちた”古典的な”英国紳士だが、国際問題においてはアマチュアだと批判するが、まさにその批判が的中して、晩年、氏の高貴さをナチスによって利用されて汚されていく。ここでの内容は英国の凋落と新興国、米国の台頭をも象徴していて、作品に奥行きを与えている。また、本書のタイトルの「日の名残り」には、斜陽化していく英国、失われていく執事という職種、そして彼自身の残された人生を意味する。
自分は価値があると信じていただけだった、自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えないと老いた彼は観光名所の桟橋で残照をあびながら涙を流す。感情も自分すらも、執事の仕事に必要な「品格」に封印し、その宝物を最後まで失うことなく老い、そして今も尚その感情をおさえ、かって恋をした女性を訪ねる旅。だから、英国の夕暮れのように美しく、そのあまりにも悲しい美しさに読者は深い感動を覚える。

尊敬した父が最後まで職務をまっとうして息をひきとった部屋は、お屋敷の片隅の陰気なまるで刑務所の独房のような小さな部屋だった。そしてあたらしく従がえることになった米国人のご主人様のために、ジョークの技術を熱意をもって開発してマスターしようと決心する彼の職業は、最後の執事。

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