千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  
旧館の「千の天使がバスケットボールする」http://blog.goo.ne.jp/konstanze/

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2013.12.15 Sunday

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2008.03.15 Saturday

『草原の輝き』

青春大人」は18歳?世界では主流だけど…

大人になるのは20歳のままがいいのか、18歳に引き下げた方がいいのか。社会で独り立ちが認められる成人年齢を20歳と定めた民法を変えるかどうかの議論が11日、法相の諮問機関「法制審議会」で始まった。「最近の若者は……」という年長者の嘆き節は古来変わらないが、いまどきの若者は成熟しているのか、いないのか。
法制審で議論されるのは、親の同意がなくても契約や結婚など大切なことをひとりでできる年齢を20歳から18歳に引き下げてもいいのか、という点が軸になる。
いまどきの若者はそれほど十分に成熟しているのか。成人年齢の議論で必ず出るこの質問を専門家にぶつけてみた。
精神科医の斎藤環氏(46)は「今の日本人が精神的に成熟するのは、30歳から40歳ではないか」と言い切る。ネットカフェ難民や若年ホームレスなど、望まずして、取り残された若者は少なくない。「なのに、成人年齢を18歳に引き下げれば、そうした若者がさらに追い込まれてしまう」
同じ精神科医の香山リカさん(47)は18歳への引き下げに賛成だ。「大学2年目、就職して2年という中途半端な時でなく、高卒と同時にするほうが分かりやすい」。一方で、若者が成熟していると考えているわけでない。「大人になっても親に寄生し続けるパラサイト・シングルが増えている。親も親で、30歳、40歳になった子にべったりと依存する親もよく診察に来る」。もはや成熟=成人と考えること自体が無理だと実感している。
世界を見渡すと、成人年齢の主流は18歳。ただし、18歳成人の国でも「飲酒は21歳」「運転は16歳」などと許可年齢はまちまちだ。 (08年3月14日朝日新聞)

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成人年齢の民法改正の是非に向けて審議会が始まった。
農家のイエの後継ぎだった祖母は、18歳でママになった。新米パパになった元祖イケ面の祖父は、その時20歳になったばかり。成人になる前に、親になってしまったふたりだが、当時の田舎ではそんなもんだった。農作業と同時に、子孫を残すことも彼らの重大な任務。
日本人の晩婚化がとまらない。これには様々な要因があるが、種にとっては迷惑な話である。人間は、思考する脳をもったために、自分の肉体の主体は自らの存在であると思い勝ちだが、生物学上の種を主体に考えると、個々の肉体は種を継承するための乗物に過ぎない。文明の発達により、10代半ばに発情期を迎える生物の計画と現実の社会にタイムラグが生じてきている感もある。

(以下、映画の内容にふれております。)
1961年制作のこの映画の舞台は、更にさかのぼり1920年代の米国中西部の街。まもなく高校の卒業を控えたバッド(ウォーレン・ベイティ)とディーン(ナタリー・ウッド)は、周囲もうらやむくらいのカップル。ふたりは感情面でも肉体的にも充分成熟しているのだが、欲望を理性で自制してキスをして別れる毎日。ディーンの母親は、SEXに対して罪悪感をもち、ひとり娘の処女を失うことを”汚される”とひどく恐れている。一方、バッドの方は、石油発掘業を営む父から男らしい理想の息子を期待され、愛しているディーンと結婚して牧場をやりたい彼の気持ちに関心を示さず、エール大学に進学して法律を学び石油会社に就職することを説得する。おまけにディーンではなく、もっと軽い女性と遊べばよいと性欲の処理までアドバイスする。その父親らしい?アドバイスのせいではないが、バッドはとうとう別の女性と関係をもってしまうのだが。。。

私が知っている米国は、性の開放がすすんだウーマン・リブ、最近ではジェンダー理論の最先端を走る国だったのだが、映画『愛についてのキンゼイ・レポート』で、米国はむしろ禁欲的でずっと保守的な考えが支配していた国であることを知り、おおいに開眼した次第である。そして、自慰すら禁じる厳格な父の存在からの自立が、この映画のもうひとつのテーマだったのだが、『草原の輝き』も女である長女(バッドの姉)を軽視して、ひとり息子に期待する父親像が描かれている。バッドの父親は、仕事の事故から脚を悪くしてしまったコンプレックス(男らしさの喪失)の裏返しとして、ひとり息子のバッドにスポーツでの花形選手であることと、学業面では名門エール大学の進学を期待する、というよりも自分の理想の男の雛型を押付ける。開拓民の保守的だが、ステレオタイプの米国の父親像が映画ではよく描かれている。そんな父に復讐するかのように、荒れた生活をして、次々と父親の絶対気に入らない男たちと関係を結んでいく姉。そしてもうひとつ重要なのが、ディーンの母親の存在である。娘の幸福を願うといっても、狭い地域社会で世間の目を気にしながらなんの教養もなく、視野が狭く裕福なバッドと処女のままゴールイさせることしか考えていない。倉持三郎氏の著書「『チャッタレー夫人の恋人』裁判」によると映画が公開された1950年代の欧米では、性交自体すら快楽とは別な、こどもをつくるための妻が我慢しなければならない結婚上の儀式とわり切る女性も多かったことを考えると、ディーンの母親は平凡な雑貨やのおかみさんである。
若いふたりが、芽生える自我と両親の期待を裏切らないよいこどもとの対立に痛々しいまでに苦悩する姿は、あくまでも清潔であり青春の輝きに満ちている。バッドがそんな父を本当の意味で超えたのは、自殺した遺体を抱いて連れて帰ると警察官に伝えた私が最も気に入った場面である。

ふたりの道は、わかれてしまった。
しかし、最後にふたりが再生して再会するシーンが作品の価値を名作におしあげている。バッドのこどもを抱くディーンの表情、そんな彼女を見てすべてを悟るあきらかにバッドにふさわしくないイタリア移民の妻、そしてバッド。
「君に会えてよかった」
ディーンにめぐりあったことの喜び、不幸にもわかれてしまったことの悲しみをのりこえて再会できたこと、しかし、その”出会い”を過去形でしか語れない現実の生活。このセリフには、万感せまる思いが溢れてきた。
残念ながら、レッドパージに協力した過去の傷のために、ハリウッドは監督のエリア・カザンを歓迎しない。しかし、彼の作品は、今もその輝きを失っていないと私は感じる。観方を変えれば、性衝動に悩む思春期の青年たちのメロドラマに陥りがちな筋書きを、優れた作品に仕立てのは、ウォーレン・ベイティとナタリー・ウッドの花美しい美貌だけではない。やはりエリア・カザンはハリウッドを代表する名監督だったのだ。

あまりにもベタなタイトルで敬遠していたのだが、時代の陳腐化も感じることなく、今見ても全く色あせない永遠の青春映画と言ってもよい。タイトルに使用されたワーズワースの有名な次の詩の一節に共感できる方にとっては。

「Splendor in the Grass」

Not in entire forgetfulness and not in utter nakedness.
But trailing cloud of glory do we come from god who is our home.

Though nothing can bring back the hour of splendor in the
grass, of glory in the flower, we will grieve not.
Rather find strength in what remains behind.

In the primal sympathy which having been must ever be.
In the soothing thoughts that spring out of human suffering.
In the faith that looks through death.  
Thanks to the human heart by which we live, thanks to its
tenderness, its joy, its fears.
To me, the meanest flower that blows can give thoughts that do
often lie too deep for tears.

草の輝くとき 花美しく咲くとき 
ふたたび それは還らずとも 嘆くなかれ
その奥に秘められし 力を見出すべし

■アーカイブ
・『紳士協定』
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2008.03.02 Sunday

『君のためなら千回でも』

君2人間には、出自に関わらずもって生まれた器がある。大きな器、小さな器。人としての器量と度量をこえて、その器に水を無理にそそごうとしても破綻する。
そんな親子の葛藤、友情、人としての罪と贖罪、宗教、祖国、、、多くの普遍性をもったアグガニスタンからの移民による新人作家のデビュー作の原作「The Kite Runner」は、全米でベストセラーになり、世界中で500万部売れているという。

2000年、サンフランシスコに住むアミールのもとに出版社から小説が届く。それは、こどもの頃からの夢を叶えた彼の作品だった。はやる胸をおさえ、幸福感に包まれて妻とともに本をなでる彼に、1本の電話が届く。
「今こそ、故郷に帰る時だ」
亡くなった父の親友であり、恩人でもあるラヒム・カーンからの電話だった。やりなおす道はある、という最後の言葉に、アミールの心は1970年代の中央アジアの真珠と言われていたアフガニスタンの故郷カブールでの思い出が胸によみがえる。

裕福な家庭に育ったアミールは、母を出産で失い厳格な父に育てられる。共産主義が大嫌いな父ババは、街の有力者であるが、私財を投じて孤児院を設立する理想主義者でもある。父の信念はゆるぎなく、その言動と行動力には人間としての器の大きさを感じさせられる。そんな父に、なにごとにつけ優れている1歳年下の召使の息子ハッサンと比較されて、自分は愛されていないのではないかと悩むアミール。
けれどもアミールとハッサンは、主従関係をこえて友情を深めていく。ハッサンは凧の行方を予測し、文盲だが賢く生活経験からくる真理をみぬく力を備え、アミールとの友情のためなら犠牲を厭わない忠誠心をもつ父も認める器の大きな少年だった。彼らの友情の絆は、カブールの冬の街で行われる伝統的な凧揚げの大会で父の記録を塗り替える見事な優勝という最高の栄誉でよりいっそう強まるかと思われるのだったが、決定的な事件をきっかけに、この日をさかいに彼らの道はわかれていく。おりしもソ連からのアフガニスタン侵攻のため、アミールと父は米国に亡命せざるをえなくなった。一生の罪を抱えて、アミールは命からがらで異国に逃れていくのだったが。。。

こどもたちの演技も素晴らしいのだが、私はなんと言っても父のババの存在感に胸をうたれた。フィクションの世界の人物とはいえ、亡命中に命がけで人間としての尊厳を守ろうとする強靭な意志と姿、ビシネスマンとして成功し富豪だったのだが戦禍のために全財産を失って異国のガソリンスタンドで働き、客が運転している真紅の芸術品のような車を「Beautiful Car」と感想を述べるやつれた表情、しかし彼は末期癌におかされても最後まで誇りを失わなかった。79年にソ連に侵攻されて米国に逃れた彼らの無念さと苦渋を感じさせられる。そして、こどもとは思えない成熟したハッサン。その謎が、最後にあかされるのも、物語つくりの魅力となっている。
故郷を逃れた彼らの次の世代になると、医師となった原作者と同じように大学を卒業して社会的に成功している者もでてくる。しかし、彼らは逃れたのか、結果的に祖国を捨てたことになったのか。
現在のアフガニスタンでは、こどもたちがソ連の置き土産の地雷で足を失い、タリバンによるイスラム原理主義による独裁政治の圧制のため民衆が虐殺された経験をもつ。この映画の上映は、アフガニスタンでは禁止されたのだが、それもやむをえないと感じる同国の緊張した情勢である。それを納得させるようなアミールが、20年ぶりにカミールに戻った時の映像は、あまりにも過酷で残酷だ。荒れた地で再会したかっての憎む相手の告発は、平穏な生活を営むための多くの苦難を乗り越えてきたとしても、移民たちの誰もが祖国への罪悪感から逃れられないだろう。この映画は、タイトルからわかるように、罪への贖罪というテーマももつが、そういう意味では彼らにとって本当の贖罪の永い旅は終わっていないのではないだろうか。大空を舞う凧のシーンが映画でも重要だが、あの凧は祖国を捨ててきた移民たちの姿に重なる。凧の糸を握りしめ、希望に満ちていた少年たちの大地は、すっかり荒れ果てて昔の名残がなくなってしまった。

惜しくもアカデミー賞は逃したが、名誉を重んじるアフガニスタンの文明や宗教観の違いなど多くのことを考えさせられる映画だった。これは、お薦めしたい。

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アフガニスタン政府は16日、同国を舞台にした映画『君のためなら千回でも(The Kite Runner)』の上映を禁止すると発表した。少年が性的暴行を受けるなどの暴力シーンが民族間の緊張を刺激する可能性があるためという。
文化・青年省のNajib Malalai氏はAFPの取材に対し、当該シーンは「民族的な背景」を持つため、国内上映を許可できないと語った。民族間の対立による内戦や、90年代のタリバン(Taliban)による支配などを経験した同国では、民族問題は大きな火種だ。
『君のためなら千回でも』では、少数民族ハザラ人(Hazara)の少年が、多数派パシュトゥン人(Pashtun)の少年に性的暴行を受けるシーンがある。
そうした事実を踏まえてMalalai氏は、「社会の秩序を脅かすものと考え、上映禁止とした。ある民族の人間が別の民族の人間に危害を加えると、原因はその民族にあると勘違いされる。そういう事態は容認できない。アフガニスタン人が登場する映画でも、それがわれわれの宗教や文化とまったく矛盾するものでなければ、上映は通常許可される。しかし、この作品には民族的背景を持った性的暴力シーンが含まれている」と語った。
国営アフガンフィルム(Afghan Film)の責任者も、「アフガニスタンの国民は、こういったシーンを受け入れられないだろう」として上映禁止に同意している。 

同作品は、米国在住のアフガニスタン人作家カーレド・ホッセイニ(Khaled Hosseini)による2003年のベストセラー(邦題:『カイト・ランナー』)を映画化したもの。1973年の国王追放から、ソ連の軍事介入、旧支配勢力タリバンの登場まで、アフガニスタンの激動の時代を舞台にしている。ハザラ人は、パシュトゥン人率いるタリバンによる虐殺も受けた。
作品に出演した4人の少年は、問題のシーンを理由に暴力行為を受ける恐れがあるとして、前年12月に母国を離れ、米国に移住することを余儀なくされている。
宗教や文化にまつわる微妙な問題は、これまでにも国内で様々な抗議行動を引き起こし、暴動に発展することもあった。

2006年には、イスラム教の預言者ムハンマド(Prophet Mohammed)の風刺画が問題となり、数日間にわたる抗議行動が行われている。2007年には、米軍が配布したサッカーボールにコーランの一節を含むサウジアラビアの国旗が描かれ、抗議の対象となった。また、ハザラ人への侮辱だとしてインド制作の『カブール・エクスプレス(Kabul Express)』が上映禁止となったが、裏ルートでDVDが入手できたため、やはりデモに発展した。さらに12月には、識字率が低いアフガニスタン人の中で影響力を持つ宗教指導者らが、ある音楽番組を「不道徳」「反イスラム的」として、ハミド・カルザイ(Hamid Karzai)大統領に放映中止を求めている。08/1/18

監督: マーク・フォースター
脚本: デイヴィッド・ベニオフ
原作: カーレド・ホッセイニ
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2008.03.01 Saturday

『ラスト、コーション』

トニー中国・上海の在上海日本総領事館に勤務していた40歳代の男性館員が昨年5月、中国側から外交機密に関連する情報などの提供を強要されていたとする遺書を残し、総領事館内で自殺していたことが分かった。
外務省は館員が死亡したことは認めているが、「遺族の意向があり、詳細については話せない」としている。
複数の政府関係者らによると、館員は、総領事館と外務省本省との間でやり取りされる公電の通信技術を担当する「電信官」だった。自殺後、総領事や家族などにあてた遺書が数通見つかっており、このうち総領事あての遺書の中に、中国人の男から交友関係を問題視され、総領事館の情報を提供するよう求められたという趣旨の内容が記されていたという。要求された項目は、総領事館に勤務する館員の氏名や、外交機密に属する文書などを上海から日本に運ぶ際に利用する航空便名――などだったといい、男は情報機関関係者だった可能性が高いとみられている。
遺書の中に、「国を売ることはできない」などとも書かれており、館員は外交機密に関する情報は男に伝えなかったとみられる。06年3月31日(読売新聞)

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女性の立場から考えると、自分の肉体をえさにハニートラップをしかける行為は、なかなか実感が伴わないのだが、佐藤優氏によると、中国では”伝統的”に女スパイがいるとのこと。だから、いい女に声をかけられたらインテリジェンスの面から、ほぼ間違いなく罠だと思えとの教訓だ。

ワン(タン・ウェイ)は、身長172センチ、最高級の女スパイ。狙う相手も、日本占領下の上海での特務機関の大物のイー(トニー・レオン)。イーは用心深く、冷酷な男だったが、彼の妻と親しくなり、暗殺の命令を受けて接近していく。とうとうイーと関係をもつのだが、それはお互いの生死をかけた激しくも狂おしい逢瀬だったのだが。。。

なんといっても中国の映画史上、初めてともいえる激しい性描写で話題をよんでいるアン・リー監督の『ラスト コーション』。18禁映画になれている?私でも、初めての密会での過激なシーンには、あっけにとられたと言ってもよいだろう。あの最初の行為の衝動を分析してみると、イーにとって、ワンは日頃の重い任務からくるストレスと緊張を爆発させるためのてっとりばやい性的なはけ口である。彼女は若く大変美しいが、彼女への関心は肉体だけで、一瞬でも現実逃避をして自分の欲望を満足するための単なる性の道具でしかない。この場面で、アン・リー監督は、イーの特務機関での特殊でふれてはならないダーティな仕事を観客に想像させ、そのミッションを見事に貫徹する男の冷酷無比な姿を暗示していると感じた。それに、あのスボンのベルトを抜いて彼女の手首をしばりあげる目にもとまらない素早い動作!慣れているな・・・。つまり、このようなプレィは、彼にとっては特別なことではなく、女をお金で買う感覚に近いのかもしれない。
ところが次のベッドシーンでは、激しく何度も抱き合うふたりの姿を映している。複雑な体位がなにかと話題先行しているようだが、アレが一般的な体位だったらなんの意味をもたらさないのではないだろうか。ふたりは、夫婦でも恋人でもない。愛情や信頼の自然な流れでの行為ではないのだから、性の交えわりにおいて相手の顔や目を見つめあう必要もなければ、心を通わせる愛撫や前戯も不要。肉体だけのつながりは、極限なまでの性的な快楽の追求しかない。相手の肉体をむさぼるように激しい情欲に耽溺することによって、自我を消滅させて無になる、官能よりもむしろ性愛の深淵を感じさせる重要なふたりの構図であると、、、家政婦ではないが私は観た。
そして3番めのベッドシーン。私は、イー夫婦の設定は、SEXレス夫婦だと思っているのだが、これまでどちらかというと受身だったワンが、主導権を握ってイーと対等な性的パートナーに昇格している。お互いの肉体の、それこそ脚の指まですみずみに至る皮膚感覚の経験と記憶、快楽のツボを熟知したふたりは、性から本物の愛情を獲得していく。これは映画『レディー・チャタレー』にも通じていると思うのだが、性的な関心へのSEXから始まって、性交を通して相手をカラダだけでなく心から理解して愛情に変節することに近い。

イーと対立する関係にあるのが、ワンの初恋の相手であるクァン(ワン・リーホン)だ。クァンは、初めて会った時から、清楚な女学生のワンにひかれていた。しかし、劇作家の山崎正和さんによると現代は脱イデオロギー社会だそうだが、1940年代の上海では政治闘争のイデオロギーのために、私心を封印してきた男らしい男である。そんな彼は、理想的な男性でもある。容姿に優れ、育ちのよさを伺わせる純粋なものの考え方、学生演劇部をまとめる人望、抑制の効いた理性的な面をもちながら情熱も失わない。与謝野晶子の「熱き血潮に 触れもみで 淋しからずや 道を説く君」のような男である。Gacktさんが映画『MOON CHILD』制作時に釣っただけあって、ワン・リーホンはクァン役を魅力たっぷりに演じている。一途なワンの行動も、最初は好きな男性クァンの思想に殉じるところからはじまったのだった。プラトニックな愛と性的な愛。
ワンが最後に選択したのは、性愛だった。どんなに好きになっても、触れることもない清らかな関係。それは、恋愛の本質ではない。性的な関係が、愛から愛”情”に昇華させたのだから。たとえ、自分の命を落とすことになっても。

しかし、なんと言っても、この映画の最大の魅力は、トニー・レオンだ。『ブロークバック・マウンテン』でも感じたのだが、アン・リー監督は男性の描き方が上手である。
初めて心を許した女性への静かな愛情と、失った哀しみ、45歳の男性の渋い色気を見事に演じている。私は、『シクロ』で詩人を演じたトニー・レオンを最高だと思っているが、この映画は彼の代表作になるであろう。実年齢でも45歳のトニー・レオンは、若く見えてしまうので老けメイクで撮影に挑んだそうだが、いつもはにかんだようなポートフィルからは想像できない大胆な演技をする方でもある。
性愛を核にするためだろうか、物語そのものは単純である。それでも158分の長丁場、一時も気持ちが散漫にならないのは、トニーの色気だけではないだろう。37億円もかけた重厚な映像と時代の雰囲気、念入りな心理劇、もはやアン・リー監督の作品には、巨匠の風格さえただよう。

■アーカイブ
『ブロークバック・マウンテン』
『ブロークバック・マウンテン』雑感
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2008.02.27 Wednesday

『青春の殺人者』をもう一度観たい?

青春先日読んだ中上健次の評伝「エレクトラ」でうかつにも初めて知ったのだが、長谷川和彦監督の映画『青春の殺人者』(1976制作)の原作が、中上健次の「蛇淫」である。
だいぶ以前に観た映画なので詳細は不確かであるが、水谷豊の好演とキャスティングも成功しており、ギリシャ悲劇かシュークスピアの舞台を観るような不条理な親殺しに至る物語には、かなり衝撃を受けた記憶がある。しかし、もっと衝撃を受けたのが、映画は実際の事件をモデルにしていたことだ。
この事件は、1969年10月30日、千葉県市原市で県下のトップレベルの進学校である千葉高校を卒業した青年が、登山ナイフで両親を殺して五井海岸から東京湾に投機したという理由なき動機殺人と言われた事件である。猟奇的な少年犯罪が多発している今日では、”事件は小説よりも奇なり”であるが、千葉県一の伝統ある進学校の卒業生の親殺しは、当時の世間をかなり震撼させたのではないかと想像する。
最初に映画を観た時、事件のことを全く知らなかったのだが、後日、新聞の片隅に小さく掲載された報道で実在の事件であることと、その後を知ったのだった。この事件は、映画のモデルとなったことから「青春の殺人者事件」(市原両親殺人事件)と呼ばれているそうだが、印象に残ったのが弁護士が、被疑者の高校時代の元同級生。

しかし、被疑者は一審以来冤罪を訴え、父母を同時に殺害する合理的な理由もなく、また着衣についた血液型、自白と凶器の不一致など数多くの疑問を残したまま、平成5年、最高裁で死刑が確定した。平成8年、無実を主張して再審請求したが、最高裁で棄却。一昨年、第二次再審請求中。
果たして、本当に被疑者の訴えるように第三者による殺人なのか、真相は謎のままである。確かに冷酷な犯罪であるが、「極刑に処することはやむを得ない」のだろうか。この世に、絶対はない。米国の死刑囚は、現在3350人。1976年に死刑制度が復活してから死刑を執行された人は1000人を超える。しかし、これまで123人の死刑囚の冤罪が発覚しているという。
犯行時、被疑者は21歳だった。それから、半世紀の歳月が流れている。「青春の殺人者」で殺されたのは、自分自身だった。

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2008.02.23 Saturday

『サンキュー・スモーキング』

san雪、雪、雪。。。外は、気が狂いそうなくらいどこまでも続く真っ白な雪。
トラックの中で田中邦衛が演じる黒板五郎は、助手席に座っている息子の純に大事なことを伝えようとしていた。おもむろにとりだしたくしゃくしゃな煙草の箱からとりだした1本の煙草。
「純、いいか・・・」
重い言葉が落ちるとともに、軽い紫煙が密室の車内にひろがり充満していく。
あ〜あ〜〜あああああ〜〜♪
テレビドラマ史に残る名作「北に国から」をビデオで観た時に、喫煙シーンが多くて私はけっこう気になっていた、。いしだあゆみ演じるきれいな母さんも雪子おばさんも、みんなかっこよく煙草を吸っているのだったが、今だったらありえないシーンがけっこう多い。もしかしたら、JTがスポンサーだったのだろうか。そんなことを疑ってしまうのが、映画『サンキュー・スモーキング』。


ニック・ネイラー(アーロン・エッカート)は、「タバコアカデミー研究所」のスポークスマン。タバコ業界を憎み敵視する団体の攻撃を一身に集中砲火としてあびながら、清潔なスーツ姿と魅力的な笑顔を武器に世論に機転の利いた爽やかな弁舌で応酬する。彼は、実に有能なロビイストだったのだが。。。

主人公は議論と理論が得意なためにロビイストになったという設定のために、知的な会話を主体にしたコメディである。しかし、このギャグには笑える皮肉がいっぱい。観かたによっては、米国人による米国人のための自虐的な映画ともとらえることができる米国らしさの煙が充満している。


sann
.蹈咫竺萋
米国においては、業界の利益のために政治家に諸々の働きをするロビー活動が盛んである。彼ら、ロビイストの存在ぬきでは、米国の政治は語れない。しかし、有力な政治家をゴルフに接待などだけでなく、共和党の大物ロビイストの汚職疑惑事件が発生したりと、その活動にはなにやらダーティな部分も匂う。そのため、昨年、ロビー活動を規制する政治倫理法案が可決された経緯もある。

⊂霾鸛犧遒諒顕
ニックは、窮余の一策として5000万ドルもの大金を投じて、ブラット・ピットなどのハリウッドの大物スターをつかって映画でタバコを吸わせることを提案する。また、アルコール業界、銃機器業界の友人のロビイストとともに、あのてこのての情報操作を考える。

A幣拇傾
かつてマルボロ・マンと呼ばれながら、KOOLを吸い続けて肺癌になりタバコ業界を訴えようとしていた元俳優。ファースト・フードを食べて肥満になっても訴える訴訟天国の米国は、消費者天国でもある。

で匐蘯腟
ブラピの映画出演料+キャサリン・ゼタ=ジョーンズの出演料⇒単純な足し算ではない。ふたりが共演することの相乗効果を考えて、割増になるという拝金主義への風刺が効いている。それにニックが働くのも住宅ローンのため、という本音も。

ナ雑な家庭
そのニックがローンを返済する住宅には、別れた元妻と息子、そして妻の恋人が暮らしている。当のニックといえば、アパート住まい。衣食住という言葉があるが、生きるために必要な家のために働くおとうさん、国の違いをこえてほろりとさせられる一方、そのニックを色仕掛けで取材する女性記者の汚い方法も住宅ローンのため、という拝金主義は、企業や国の金儲けにもつながっている。

κ胴饋佑涼噂磴
熱心な嫌煙活動家でありニックの天敵、フィニスター上院議員はタバコのパッケージにどくろマークをつけることを提案する。英語を理解できない多民族のために、視覚的にわかりやすくタバコの危険性を訴えるためだと言う。ガンにおかされた少年をテレビ出演させてタバコの害を訴える団体のやり方など、マイケル・ムーア監督の映画『華氏911』を彷彿させる。

私は、煙草を吸わないのでいつも禁煙席を希望する。しかし、この映画では、嫌煙家の敵であるニックを応援したくなる。息子の宿題の課題が、「アメリカの政府が最も優れている理由」だって。ニックでなくとも、本当に米国の政府が一番か疑えっ、と言うだろう、たとえ教師の反感をかっても。大事なことは、タバコを吸うのも吸わないのも選択の自由と、自由な選択のある社会である。女に弱く、口がうまく、でもにくめないニック役をアーロン・エッカートが好演している。

ところで、私のお気に入りのホールにJTが主催する「JTアートホール」がある。この虎ノ門にあるJT本社内のホールは音響もよく、採算度外視かと思える安いチケット代で良質の室内楽を提供している。JTというからには、きっと愛煙家の煙がかなり貢献しているのだろう。だから、私にとっては、愛煙家にはこう感謝したい。


Thank You for Smoking!!



原題:“Thank You for Smoking” 
監督:ジェイソン・ライトマン
2006年米国制作


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2008.02.11 Monday

『第三の男』

第三ちゃららら〜ら〜らら〜ん・・・、、、
アントン・カラスによるチターの音楽が、ユーモラスに軽快に、そして哀愁を帯びて、第二次世界大戦直後、米国・ソ連・フランス・英国によって分割統治されていた冬のウィーンの夜を流れていく。戦禍の後のウィーンの街は、今日の華やかさを予想できないくらい暗い。

これだけで、映画好きの同好の士は、『第三の男』とわかるだろう。何度も映画評論家やファンの間で名作として語り尽くされたきたこの映画。
そう、私もこの映画を観たのは、今回で3回め。けれども、過去2回の体験は、単なる映画を観たという履歴の更新だけで、この映画を観ていながらも恥ずかしくも全くわかっていなかった。『第三の男』が制作されたのは1949年だが、今回あらためて映画を観て、その完成度の高さに深く感嘆させられてしまったのだ。

親友に呼ばれて米国からはるばるウィーンにやってきた主人公の作家マーチンス(ジョゼフ・コットン)が、その肝心の友人ハリー(オーソン・ウェルズ)が事故によって亡くなったために彼の埋葬にたちあう場面ではじまり、最後は”第三の男”の埋葬で終わるという最初の場面のくりかえしで完結する見事さ。そして光と影の巧みな計算された使い方は、思わずうなってしまう。ずっと影にいて見えなかった謎の男が光の中で正体をあらわし、不敵だがひきつけられるような笑顔を浮かべるシーンは、あっと声をあげてしまいそうになり、ここでの猫の使い方にも感心してしまった。地下水道を逃げるハリーの焦る表情と追い詰めるキャロウェー少佐と警官たち、そしてマーチンス。あともう一歩で脱出、という時に、地上にでられる格子に入れた指が凍てついたウィーンの道路から突き出ている映像は、衝撃的ですらある。音楽の使い方の素晴らしさは今更言う必要がないだろうが、短めのカット、長いシーン、あらゆる映像のピースが意味をもった長さで完成度が高く、ひとつひとつの役者の動きと表情、ほんのわずかな視線にすら意味と理由がある。なんてこった、この理由に気が付かなかったのだ、私は。

友情と正義、そして親友の恋人アンナへの想いに悩むマーチンスを演じたジョゼフ・コットンは、渋さの中にも甘さと米国人らしい率直さがある。そんな彼を「正義感あり、善良だが無害」と批評するアンナだが、自分を売られてもハリーを思う成熟している女性を演じたアリダ・ヴァリはこの時28歳。最後の名場面も含めて、昔の女性はなんとオトナなのだろう。
そして、ほんのわずかな登場にも関わらず、観客の心をつかんでしまうのが、オーソン・ウェルズの存在感と観覧車での言葉である。

「イタリアではボルジア家三十年の圧政の下に、ミケランジェロ、ダヴィンチやルネッサンスを生んだ。スイスでは500年の同胞愛と平和を保って何を生んだか。鳩時計だとさ」

薄めたペニシリンで闇商売をするハリーが単なる悪人ではなく、その人物像に深みを与え、また観覧車から遠くに見える人間の存在のあまりの小ささを、自己の利益追求の言い訳につかう彼の姿には、戦争をする現代の政治家とも重なってみえてくる。そしてもともと脚本になかったこのセリフをオーソン・ウェルズ自身が考えたというエピソードもいろいろ考えさせられるものがある。深い余韻で映画史に残る最後のシーンにも関わらず、『第三の男』といえば、オーソン・ウェルズと世間に認知されていることもあわせ、やはり彼は異能の人だったと思う。

映画の趣向も、読書や音楽とともに年々少しずつ変わってきていると感じる今日この頃。そして読書や音楽もそうであるように、たくさんの本や音楽、映画と出会い感性を磨かれることによって、本質の鉱脈にふれることができると思う。自信をもって言えるのは、この『第三の男』は、間違いなく名作中の名作。
監督・制作:キャロル・リード
原作・脚色:グレアム・グリーン
撮影:ロバート・クラスカー
1949年制作イギリス映画

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2008.02.02 Saturday

『静かなる一頁』

そくこどもたちの歓声、ラヂオから流れ大衆音楽、足音のざわめき、人々の声や生活の音が静かなさざなみのように質素な建物におしよせて反響している。この大きな建物は、一見古い団地のように見えて、どうやら工場のようである。そしてカメラは、荒廃した近未来なのか、19世紀末の架空の街なのだろうか、霧のうかぶ街の中心にある建物の底に流れる運河の永遠に続くかのような水の運動と、ゆっくりと飛んでいくかもめの羽のはばたきの映像にうつっていく。

道ゆく人にお金をたかる浮浪者、嬌声をあげる娼婦、うつろな乞食、退廃的な街の様子は、去年と変わらず、昨日と同じ、そして明日も続く。今日は、唯一、金貸しの老婆が殺された事件が、人々の荒廃したこころを活気づかせているのだった。そこへ、ひとりの青年があらわれる。彼は、いかにも貧しい大学生。はおっている重いコートは、彼の人生の苦難を象徴するかのようにうつろにゆれながら沈み、霧の中をさまよっている。
水がすぐそこまで押し迫る波止場を歩いて建物の中に入ると、次々と人が飛びおりていくではないか。しかも誰もが喜んで楽しげに、水の中に飛びこんで消えていく。あの水の底には、もしかしたら現実から救われる別世界が待っているのかもしれない。しかし、人々を呑みこんだ水面は、鏡のように地上の無機質な世界を映して静かに閉ざされているばかりである。。。

ソクーロフらしいとても長く動きの少ないワン・カットが紙芝居のように続く構成は、ジェット・コースターのようなテレビ番組に慣れている感覚にはつらいかもしれない。すべてが、ゆっくりと殆ど会話もなく、監督のイメージの世界が独特の空間を展示していく。映画を作家性で選ぶとしたら、まずロシアのアレクサンドル・ソクーロフははずせない。近頃の意味を考える必要もなく、物語を深読みする時間もなく、ただただ観客の快楽をひきだすだけの映画とは、はるかに遠い位置にあるのがソクーロフ作品である。ソクーロフは、原作こそドフトエフスキーの「罪と罰」をベースにしているが、マーラーの音楽の調べにあやどられ、職人芸のような優れた観客動員数を誇る映画作品群が並ぶ中で、誰もなしえない独特の世界をつくりあげた。
このような商業ベースとは無縁なところで、あたかも自己の内面の心象風景を映画という媒体を通した「作品」づくりを可能にしている監督と、その社会を不図考えた。
上映前に、フィルムが損傷していて見苦しい点、また中断する可能性をあらかじめ断る放送があっての、渋谷ユーロスペースでの「ソクーロフと戯れる」企画の中の一作が、この「静かなる一頁」。1993年制作といえば、それほど古い映画でもないのに関わらず、劣化してしまった映像に、この監督の作品が本国では次々と上映禁止となっていた事情を思い出す。そもそも映画製作学校時代の最初の作品から、タルコフスキーの援護もむなしく政府から上映禁止処分を受けたにも関わらず、体制にすりよることもなく自分の世界にこだわった。撮った映画が、次もまた次も上映禁止。映画は公開されなければ、意味がない。演奏されない音楽と同じだ。けれども、国内でたとえ冷遇されても、思索を熟成させて才能を開花した彼は、世界に受け入れられ消費されることのない映画史に名前を刻む作品を生み出した。

また青年を演じた俳優(アレクサンドル・チェレドニク)と、特に小説の中のソーニャがぬけだしたかのような当時14歳の少女役のエリザヴェータ・コロリョーヴァ存在が、映画に深い影と奥行きを与えている。豊かな金髪をみつあみに結い、質素な服を着た少女の薄い胸と青ざめた顔が、少女の清楚さと貧困を物語っている。娼婦でありながら、聖なる処女、そんな難しいキャラクターを近未来のSFのような雰囲気すら漂うなかで、リアルな美しさがいつまでも観る者のこころに残る。
どんなにこころを清く保ち、体を売って幼い妹を守っても、その妹もいずれは同じように街にたつ、と挑発する青年に神を信じて救いを求めることを諭す少女。ついに、少女の清らかな瞳が、「神はいない」と叫ぶ青年の心を圧倒する。

上映中ずっと、お隣の方の安らかな寝息がきこえてきた。決して楽しいわけでも、息抜きになるわけでもないが、この監督の映画を観ていないと、私には人生の重要な落し物をしてしまうような気がしてくるのだ。

監督:アレクサンドル・ソクーロフ
音楽:グスタフ・マーラー「亡き子をしのぶ歌」
1993年露・独合作

■ソクーロフと戯れていたアーカイブ
人生の祭典
エルミタージュ幻想

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2008.01.20 Sunday

『レンブラントの夜警』

れんエルミタージュ美術館の254室は、「レンブラントの間」と呼ばれている。部屋に入って真っ先に招かれるのが、1636年に制作された「ダナエ」である。
レンブラントが描く前にも、後世に名声を残す画家のモチーフに何度もとりあげられた神話の「ダナエ」。しかし、これまでの画家がダナエを、その表情、肌の色、姿勢、肉体のラインを現実感の伴わない彫刻のように完璧に描いていることに比較して、彼は生身の自然な人間らしさを描いている。あまりにも複雑で、心理的、奥の深い彼の絵画は、同時代の人々には理解できなかった。愛妻のサスキアの死後制作された「ダナエ」には、当時の画家と世間の対立がしのばれる。
昨秋、4日間通ったエルミタージュ美術館でもっとも感銘を受けた画家は、レンブラント・ファン・レイン(Rembrand van Rijn)だった。それでは、私はレンブラントを好きだったのだろうか。あの最も有名な「夜警」の不気味さと緊迫感が恐ろしく、嫌いな画家だった。けれども、彼抜きには近代絵画を語れないのだ。
『レンブラントの夜警』は、美術学校出身の画家でもあるピーター・グリーナウェイ監督が、筆のタッチ、色、即興性など後期印象派にも影響を与えたオランダ絵画を代表するレンブラントの名画「夜警」にまつわる謎と波乱に富んだ半生に、監督自身の考察を描いた”物語”である。

粉屋の息子、レンブラントは30代で肖像画家として大成功した。1634年にマネージャーとして有能なサスキアと”逆玉婚”をして、社会的な地位、名声、富、ひとり息子ももうけ、ゆるぎない地位と栄華を築いた。そこへまいこんだのが、アムステルダムの市警団からの集団肖像画の依頼である。当時、集団の肖像を描く場合は、依頼主の賃金にみあうように平等に並べて顔と姿を描くことは、ビジネスの常識だった。これまでも、依頼主の隠された内面を描いてしまったために訴訟騒ぎを起こしていた彼にとって、ただ顔を並べるだけの集団肖像画は、気がすすまない。しかし、生まれてくるこどもの経済的安定のため、と愛妻に説得されて筆をすすめるレンブラント。その愛妻も産後の肥立ちが悪く亡くなり、絵画が完成した1642年を境に、レンブラントは一転、転落の人生を歩んでいく。いったい画家に何があったのか。そしてこの名作「夜警」にこめられた謎とは。。。



れん2グリーナウェイ監督は、独創的な監督である。当時のオランダや画家レンブラントの人生と人間性をあまさず研究して、そのうえに「夜警」に独自の解釈をほどこした冴えも見せつけてくれる。彼の頭の中にある名画の50以上もの謎が、パズルのピースのように組み合わせて描かれたもうひとつの名作”レンブラントの夜警”に、私は心底感嘆とさせられた。冒頭から、弱視だった右目を終生気に病んでいたレンブラントの悪夢が、臨場感をもってせまってくるかと思うと、暗闇を背景にして、召使によって次々と開けられる窓から溢れる光を受け、レンブラントの色の解釈がはじまる最初の場面。高い寝台から転げ落ち、太って醜い裸体をさらして弱々しく泣くレンブラントの痛ましくも孤独な魂。このあたりの前衛劇のような舞台的な趣向は、知的に富んで一瞬も気が許されない。
名誉市民である依頼主に、罵声を浴びせ、陰謀、性的虐待、殺人を次々と汚い言葉で告発していくレンブラント像に、最初は違和感すら感じたが、欧州初の共和国の女性は男性と対等な関係だったことを考えると、博愛主義者でフツーのオジサンという監督の考える巨匠の人間性もまっとうかもしれない。だからこそ、妻を失った後に悲しみをまぎらわせるかのように召使との偽りの性的探求にはしり、最後に20歳も年下の若い召使と生涯をともにしたのだろう。

レンブラント役のマーティン・フリーマンの舞台人のようなセリフ回しと演技、「夜警」の中の登場人物を次々と暗闇からひきづりだすかのようなジョバンニ・ソリマの音楽。素数のように完璧な構図が光によって浮かび、また闇に沈んでいく映像の美しさ。ただただ、監督の刺激的な挑発のわなにはまっていく。「夜警」の中で画家自身を除いて、私達をまっすぐに見つめている人物がいる。審美家でもあった作家のヤコブ・デ・ロイだ。彼は、最後にレンブラントを告発する。
「お前の絵の中にいるのはすべて俳優。ひとりを除いて。お前自身の自画像だ。これは、本質的に絵ではない。演劇なんだよ!」
映画の中では、野外の劇場で演劇に心を奪われるレンブラントの姿が何度も描かれている。光と闇を駆使して登場人物の内面や関係性まで表現した絵に、監督は映画に近いものを感じている。
「彼が現代に生きていたら、絶対映画監督になっていた」
そう語るグリーナウェイ自身、画家でありながら、映画をつくっている。そんな監督が、映画の最も重要なテーマを質問された時の回答がすこぶる明解だ。

”セックスと死”以外に何があると言うのだろうか
思わずひざをたたいてうなづいてしまった。本作品も私の選択にかなったR−15。



れん2さて、「夜警」に不快感を感じる理由のひとつにあるのが、中央に位置するふたりの少女だ。映画では彼女達にも、監督流のグロテスクでいびつな物語が用意されている。一般的には、この少女の面差しが「女神フローラに変装した妻 サスキアの肖像」に似ているからだろうか、少女=サスキア説が有力だそうが、私の印象は違う。そもそも少女には見えない。脳下垂体に異常がある小人の”老婆”に見える。しかし、彼女こそ「夜警」の精神を象徴していると言われている。
エルミタージュ美術館の「レンブラントの間」で最後に飾られているのは「放蕩息子の帰還」だ。世間の流行の波に背を向けて破産宣告を受け、富も名誉も家族も亡くした晩年のレンブラントの愛と苦悩、そして寛容の感情が、この傑作の筆の息づかいに静かに、そして厳かに溢れている。「夜警」からレンブラントがたどりついた終着駅に、私はしばし時の流れも忘れて佇むばかりだった。


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2008.01.12 Saturday

『パフューム ある人殺しの物語』

ぱ「香りをきく」という表現を私は好む。匂いは嗅ぐ、香りはきくものだ。
その”香り”をサイモン・ラトルが指揮するベルリン・フィルハーモニーが演奏している。これは、是非とも”聴きたい”。『パフューム ある人殺しの物語』は、私にとっては視覚的に香りを聴く映画ともいえよう。

1738年7月17日。パリのセーヌ河にある魚市場。この活気ある場所は、パリで最も悪臭に満ちている。この市場にある魚屋で働く汗にまみれた女が、魚を並べた台の下に、ひとりの嬰児を産み落とす。捨てられた魚のはらわたの中で、奇跡的にも産声をあげた男の赤ん坊は捨て子を育てるマダム・ガイヤールの育児所に売られて、命拾いをする。そもそもパリの裏街は汚い、いや汚かった。香水は不潔なヨーロッパ人が体臭をごまかすために発展した。そんな話を思い出したが、まず、ここまでリアルに中世のパリの街を再現した映像が醸し出す濃厚な香りに、思わず顔をそむけたくなる。


ぱやがてグルヌイユと名づけられた赤ん坊は13歳になると、わずかな金で皮なめし職人グルマルに売られていく。毎日悪臭にまみれて黙々と働き、青年になったジャン=バティスト・グルヌイユ(ベン・ウィショー)は、配達の仕事をまかされ新しい世界の扉を開けることになった。街を歩くと、多くの香りと匂いを貪欲に嗅ぐグルヌイユ。牡蠣、白粉、煮豆、シルクの襟、足元に広がる泥の雫、さまざまな香りで織りなされる豊饒な海に、彼はかってないほどの幸福感を味わう。
しかし、もっとも強烈にひかれたのが、プラムを売る赤毛の少女の匂いだった。ただひたすら彼女の香りを求めていき、とうとうグルヌイユは誤って彼女を殺してしまった。失われていく命とともに、手の中から喪失していく彼女の”香り”。
やがて、彼は天才的な嗅覚を調香師としていかしながら、自分の究極の役割は彼女の香りを永遠に封じ込めることだという執念にとりつかれていくのだったが。。。

要するに、この映画は”香り”という抽象的な概念を、ひとりの天才的な嗅覚をもった人間の哀しみで描いている。
物語の中ばで、グルヌイユが蒸留法を学ぶためにグラースへ行く山越えで、石しかない洞窟で自分には体臭がないことに気がつく。彼は、ここで誰にも気づかれない”無”でしかないと悟る。生まれついて、生母は生きた赤ん坊である自分を捨てた罪で絞首刑になっていた。無論、兄弟も友人も彼にはいない。すべてのものを、”香り”で、その存在を確かめてきた彼は、体臭がないことを嘆き悲しむ。前半から後半への橋渡しとなるここでの場面は、哲学すら感じられて説得力がある。
後半、香りを脂に移す方法を学んだ彼は、最高の香水を調香するために、次々と美少女を求めていく。



ぱ人は赤ちゃんの時のミルクの臭から、思春期をこえ、やがて加齢臭などというジジくささを身につけて、朽ちていく。殿方にとって、最高の美味しい香りは、処女の美しい体から発散される体臭。このへんの発想は、むしろ平板な印象もある。汚い路上や、高価な家具に囲まれた室内で、少女の清潔な白い全裸が映像に次々と映しだされていく。最後のターゲットとして狙われる裕福な商人の愛娘ローラ(レイチェル・ハード=ウッド)の綺麗な顔立ちと波打つ赤毛、貴族たちがドレスを着て集う誕生会と夜の庭。


ぱまるでグリム童話のような世界だ。ベルリンフィル演奏する音楽が、静かに哀調をおびて流れ、官能の香りをたちあがらせる。いみじくも香りは音楽に似ていると思う。どちらも目に見えない抽象性をもち、その人の感性にゆだねられるハーモニーだ。
グルヌイユの唯一の師となるバルディーニ(ダスティン・ホフマン)が、香りは音符と和音と言っている。
「慎重に選んだ4つの香料・・・”音符”がハーモニーを奏でる。
香水は3つの和音から成る。ヘッドとハートとベース。全部で12種類の香料が必要。
ヘッドは香水の第一印象、ハートはその香りの主題、ベースの和音は残り香」

音楽もそうだが、ただひたすら綺麗な旋律を並べただけでは、中身が空虚で残らない。香りも予想外な音符もいれる。


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「排せつ物からバニラの香り」イグ・ノーベル賞に日本人
人を笑わせる研究で科学への関心を高めた功績に贈られる「イグ・ノーベル賞」の授賞式が4日、米マサチューセッツ州で開かれ、日本人研究者の山本麻由さんが化学賞を受賞した。ロイター通信が伝えた。 山本さんは国立国際医療センター研究所の元研究員。牛の排せつ物からバニラの香りの成分を抽出した研究が受賞理由となった。
イグ・ノーベル賞はハーバード大系のパロディー科学誌が贈呈する毎年恒例のイベントで、医学や物理学、平和などの計10部門がある。07/10/5共同通信

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衝撃と伝えられる最後の処刑の場面は、寓話を嫌う私にはに衝撃よりも”笑劇”にうつったが、折り重なった裸体のグロテスクな印象は斬新である。映像の表現に、まるでかってかいだことのない新しいエロスの香り包まれたような驚きに満ちている。そしてラストの饗宴。この強烈な饗宴の残り香は、ずっと残るだろう。
冒頭の凝りに凝ったパリの街の悪臭を再現した監督の意図を、ここでようやくはっきりわかる。処刑台に立ち尽くすグルヌイユの心にうかんだ最初にあやめた赤毛の少女との、もうひとつの行為のもはや叶わぬ願望、そして自ら愛の処方箋である最後の香水を自分の体にふりかけるグルヌイユ。かくして自分に体臭のないことを悲嘆した男は、文字通り”無”に消えていった。
映像の完成度は高く、ユニークな映画に仕上がっている。

監督:トム・ティクヴァ
音楽:サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィルハーモニー
2006年ドイツ・フランス・スペイン

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2008.01.06 Sunday

『あるスキャンダルの覚え書き』

すロンドン郊外にあるセントジョージ総合中等学校で歴史を教える初老の女性教師バーバラ・コヴェット(ジュディ・デンチ)は、厳格で辛らつな口調で生徒や同僚からも疎んじられている孤独な教師。そんな孤立している彼女の前に、美術教師として赴任してきたのがシーバ・ハート(ケイト・ブランシェット)だった。
シーバの長身で白桃のように透明な肌、教師にふさわしくない自由でルーズなデザインながらも上質の服装、荒れた生徒を制御できない頼りなさに、世間にすれていない純粋さをかぎとったバーバラは、自分の友人にふさわしい女性として歓迎し近づいていく。
友情。
少なくとも最初は表面的には、”友情”を互いに感じた世代の異なるベテラン教師と新米教師にふさわしい距離感をもっていたふたりだったのだが、シーバが15歳の教え子と関係を結んでいる現場を偶然目撃してから、彼女の弱みを握ったバーバラはシーバを支配しようとしていくのだった。。。


す3本作品の観どころは、あのコピーにある「彼女の恋の相手は15歳だった」ではない!未成年の教え子と関係をもってしまう道義的な善し悪しはあるが、高校教師と生徒の恋愛は日本にだって無数にある。佐藤優氏の著書「自壊する帝国」に登場するモスクワ大学の異能の美青年は、貧しく家庭的にも恵まれなく、高校時代から養ってもらっていた年上の女教師と結婚していた。しかも今時のロンドンの労働者階級の子息は、多少煙草の吸い方がぎこちなく、手練手管に欠けているにせよ、年上の女性の口説き方は数学以上によく知っている。ここはやはり、今では差別用語になってしまう初老の「オールド・ミス」の独白という形態をとった文章と、ジュディ・デンチの”怪演”に注目したい。

す2新しいターゲットを観察する解剖医のようなバーバラの視線。初対面で息をきらせてコートを脱ぐシーバの白いうなじを見つめるバーバラの視点は、男性と同じである。彼女の家に招待されて予定表に”旗がたった”ことに踊るように喜び、美容院に行って準備をし、当日新調したスーツを着て、花束を抱えて、気取って歩くバーバラ。生徒との関係が家族に知れて夫から家を出され、またマスコミから家にかくまったシーバの食事の支度のために、いそいそとスーパーで買物をするはりきったバーバラ。毒気のあるユーモラスさの中に、バーバラの狂気と深い孤独がゆっくりと残酷にうかびあがる。長身でスタイルも良く綺麗な若いシーバに比較して、短躯で老いたバーバラの醜さがさりげなく提示されていく。モデル並の整った体のラインがでるセーターやシャツを着てしなやかに踊るシーバ、彼女の行動を主観と妄想まじりに老眼鏡をかけて日記に綴るバーバラのゆるみきった体を連想させるルーズな室内着。もはやハイ・ヒールに耐えない足を肌色のタイツで包んでせかせかと歩くバーバラは、自己中心的で偏屈な性格がその歩き方に現われている老女だ。家族よりも自分との友情を優先させるよう怒り、縮緬のように寄る顔の皺、手に刻まれたいくつもの皺。老いの醜さをあまり自覚していないバーバラだが、この映画の中では老いは重要だ。

すバーバラのシーバへの感情は、同性愛とは少し違うと私は感じている。愛情よりも、単純に自分には欠けている美しいもの、若さやシーバの美しい容姿への憧れ、美しい対象へ同化することへの願望が根底にある。孤立して誰からも無関心な彼女が、孤独を癒し彼らに復讐して社会で居場所を見つけるために、シーバを支配して手中におさめること、すなわち彼女と同化する必要があった。いまだに処女であるプライドの高い老嬢にとっては、シーバたちお気に入りの女性は男性との肉体関係にふみこむ前の前哨戦ぐらいの感じであろう。また、卒業後、殆どの子どもが配管工になるか店員になる学校、昔の煙草が麻薬になっただけの労働者のこどもたちが通う学校、そんな学力以前に階級で進路が決まる英国の階級社会という背景において、シーバがブルジョア階級出身だということも、バーバラの行動に拍車をかけている。教育が無駄な生徒たちと切り捨てることによって、かろうじて維持していた彼女の矜持を正当化するためには、ブルジョア階級と親しくなり、”動物達”とクラスが異なることをわからせることが必要だった。
一度も男性と肌をふれることのなかった老女の話相手が唯一愛猫、というのも定番に思えるのだが、ひとり暮らしの女性がペットを飼うのはよく聞く。どうせ飼育するなら、私なんぞ、不謹慎にもやっぱり10代の男の子がイイ、と思うのだが、孤独な女性が歳月を重ねるにつれ、狂気を養っていったというさして新鮮味がないターマーの心理劇だが、主役のふたりの演技力によってコンパクトにまとめた92分は総じてよく出来ている。

「シーバなどのような人間に、孤独の何がわかる。
一滴、また一滴と落ちるように 気が遠くなるような無限の孤独など」

独身=孤独、とも言い切れない。それを言ったら、未婚率の高い日本では、反論を受けるだろう。結婚して、ふたりでいるからこその孤独もある。それでも、他者の中に自分の居場所がある者にとっては、孤独の重みに絶望することはない。バーバラは、妹すら恐がっていて誰もが関わりたくない、いやむしろ関心すらもちたくない人物である。
孤独な人間のうっすらとした狂気に、恐怖よりも哀れみを感じた。

監督:リチャード・エア
2006制作 イギリス映画


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