千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  
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2008.05.11 Sunday

「アムステルダム」イアン・マキューアン著

が最盛期には発行部数200万部を誇っていた雑誌「フォーカス」が、廃刊されてから7年たつ。モラルを疑う取材と、そもそも疑う以前に品格のない過激な写真への世間の批判が、最終的に10万部という落ち込みの数字にあらわれ、廃刊の原因とされた。

気温マイナス11度のロンドンの教会で、46歳で社交界の花だったモリーの葬儀が行われた。
かわいそうなモリー。
レストラン評論家で先端をいくガーデニスト、ファッショナブルな才人にして写真家だったモリーにふさわしく、かっての恋人たちが葬儀に出席した。英国を代表する作曲家のクライヴ、高級新聞紙の編集長のヴァーノン、そして絞首刑をひそかに支持している時期首相候補とまで言われている外務大臣のガーモニー。やがて、地位と名声をのぼりつめた彼らは、モリーの残したスキャンダラスな1枚の写真から、思わぬ道に転げ落ちていく。

映画『つぐない』があまりにも素晴らしかったので、興味をもったイアン・マキューアンのブッカー賞受賞作。映画の終盤で、最後の作家として成功した老いたブライオニーを観て、この作家は映画に見られるようなロマンティストではなく、辛辣で怜悧な作家だと感じたのだが、全く私の印象どおり。芸術、マスコミ(しかも新聞の「タイム」と思われる)、政治、と高尚な職業、或いは現代社会を動かす頂点にたつ彼らは、いずれも知の代表であるべきなのに、その内面は驚くほど平凡でとりようによってはむしろ低俗。スキャンダラスな写真を見て、人格というものが氷山のように大部分が隠れていて、水面に見えている世間的自我は冷たくとりすましたもの、というクライヴの感想に、作家の自虐的で残酷な趣味に自分自身すらも告発された感すらする。凡人で知性などもちあわせていない私だが、薄汚れたクライヴもヴァーノンすらも、もしかしたら自分の陰画かもしれないとおびえてくる。完全にピュアな人間など存在しない。その意識下のかくされた人の本心がきわどい暴露雑誌の売上に貢献したことを認めつつも、それでもこうありたいという理性がまさると考えたいではないか。そんな東洋の慎ましく能面のような表情の女性を鼻であしらうかのように、作家は知を武器にせまってくる。
そして、彼らの運命は、当然の報いかのように過酷な結末を迎える。葬儀ではじまり、「アムステルダム」での終焉。そのファンファーレは、おそろしくも笑えるくらいに諧謔的だ。年寄りの始末を金で解決してくれるという合理的な安楽死法という表現に、私も思わず老後は「アムステルダム」へと言ってしまいそうだ!これまでも、カンバリズムや小児性愛を書いてきたというイアン・マキューアンの辞書には、評判どおりに禁句の文字はない。気取ったセレブから、警察にかけこみ愚にもつかないトラブルを訴える貧困層まで、人の底に見える軽薄さと穢れを冷静に表現した英国の作家は、映画監督のミヒャエル・ハネケにも通じるひんやりとした肌ざわりが通好みだおと言えよう。ブラック・ユーモアで味付けされた文章にも関わらず、全体を通して洗練さを感じさせられるのが、怜悧な知性の証明でもある。

真贋のほどはともかくとして、うんざりするくらいSPMのTBがブログに届く昨今。また画質は荒くとも無法地帯のように妖しげな動画がおかれているサイト。
IT革命によって「フォーカス」よりももっと速く、もっと刺激的に、もっと扇情的にフリーでアクセスできる今、「どのように聖人ぶっていても、一枚めくれば金、女。それが人間」とのたまった「週刊新潮」の天皇とあがめられ、「FOCUS」を創設した斎藤十一氏だったら、本書にどのような感想をもたれるのか。
小児科医として活躍し、危機に落ちた夫のスキャンダルを鮮やかににきりかえしたミセズ・ガーモニーによると「愛は悪意よりも強い」らしい。

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2008.05.10 Saturday

『ラフマニノフ ある愛の調べ』

らふ漫画の「のだめカンダビーレ」のおかげで?、ここのところ一気に知名度のあがったラフマニノフさま。
と言っても、みんなが聴きたいのはピアノ協奏曲第2番。ラフマニノフさまの本名がセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Сергей Васильевич Рахманинов)で、その生涯はあまり知られていない。かく言う私も、ピアノの名手で手が大変大きかったこと以外(中村紘子さん情報)、その生涯は不覚にも存じ上げていなかった。
ごめんなさい、ラフマニノフさま!
ロマン派ピアノ協奏曲の金字塔とも言える第2番は、まさしくロシア的な重さと暗い華やかさを感じさせるのだが、ラフマニノフは1917年のロシア革命を逃れて、翌年アメリカ合衆国に亡命して以降、生涯故郷の大地を踏むことがなかった。


ろ1920年、ニューヨークのカーネギー・ホール。米国の裕福な紳士・淑女が正装してこの哀れなロシアから亡命してきた天才ピアニストにして作曲家のラフマニノフの演奏を、今か今かと待っている。舞台に登場したラフマニノフの表情は、憔悴してやつれているが、その素晴らしい演奏は米国人に熱狂的に歓迎された。その成功を何よりも喜んだのは、彼自身よりも、従妹の妻であるナターシャと演奏をバックアップしているスタンウェイ社のマネージャーだった。次々と依頼のくるコンサートをこなすため、ラフマニノフは列車に乗って、米国中を演奏旅行することになり、その成功がもたらした名誉と賞賛、それにも関わらず資産が増えるのに比例するように、彼は日々いらだちがつのっていくのだが。。。

らふまるで神からの使者のような音楽家が生み出した作品の美しさと深さに反発するかのような、ここまで暴露?しちゃっていいのか人間くさい彼自身の素顔を描くセオリーは、これまでもモーツァルトの生涯を描いた映画『アマデウス』やベートーベンの『永遠の恋人』『敬愛なるベートーベン』などの成功でお約束済み。本作品も、女性たちに性的にも翻弄されちゃっているキャラのラフマニノフが描かれている。ただし、妻の座をいとめたナターシャ(ビクトリア・トルガノヴァ)だけは、生々しいベッドシーンはなく聖母のように気高く賢明で献身的、という理想の女性像にしているのがポイント。実際の事実を脚色して「すべてを捧げた初恋、短くも美しい恋、支え続ける愛、ラフマニノフの人生を変えた3人の女たち」というフレーズで読むとおり、女性好みの女性のための作品と言えよう。確かに天才のインスピレーションに影響を与える女性、そして野球の落合監督や野村監督のように夫をコントロールしてお仕事をさせるデキタ女房は、天才の天賦の才能を活かすために必要な人材であるのは古今東西、共通である。映画に登場する3人の女性は、それぞれに魅力的で天才の作品に寄与しているのだが、演じているロシアの女優さん達はそれぞれに新鮮な印象がある。さらに、写真で観るとおり、ラフマニノフ役のエフゲニー・ツィガノフがよく似ていて演技力もある。(顔のタイプで言えば、同じく幼なじみと結婚しているメドベージェフ新大統領に近い。)花束を抱えて夢中になっている年上の恋人アンナの自宅を訪問する時のドアの開け方など、初めての恋に舞い上がる男の熱気と欲望、そして天才の集中力を感じさせてなかなか見応えがある。また、時代の変遷とともにナターシャの髪型や化粧、衣装がモダンに変化していく姿が、ロシアの初夏の美しい風景とともに楽しめるのも女性好み。
らふ幼い頃の両親の離婚と没落、作曲に集中したいラフマニノフとピアニストとしての表現者にこだわる恩師との確執、スタンウェイ社との共同がもたらした彼の人生に影響も与える音楽界の商業主義、ロシア革命によって祖国を捨てなければならなかった彼の想い。本作品では名曲を飾る短いフレーズに過ぎなかったこれらの事実を、別なかたちでフォルテすると全く異なる映画もできただろう。だから、あくまでもこの映画の主旋律は、ラフマニノフではなく、強いロシアの女性たちである。ラフマニノフさまの才能の扉を開花させる鍵を握っていたのは女だろうか。
嗚呼、、、「女」というコルセットをしていても、たかが女、されど女は強し!

監督:パーヴェル・ルンギン
2007年ロシア制作

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2008.05.08 Thursday

「追伸」真保裕一著

追伸追伸、、、私は、手紙やメールを書くときに、最後に添える言葉を追記する癖がある。
言い忘れたこと、念押ししたいこと、たいしたことではないがちょっと伝えたいことをユーモラスに、そして実は最も言いたかったことをさらりと最後に。
多作で精力的に活躍されている真保裕一氏による最新の著書が「追伸」である。

ギリシャに単身赴任中である夫、山上悟に唐突に妻から離婚を申し出る手紙が届く。離婚届まで添えて、しかも結婚前の旧姓で。
つい先日、妻の奈美子はギリシャに訪問した時に、移住することを約束して帰国したはずなのに、初めて妻から届いた長い手紙が理由を理解できない一方的な最後通告なのだから、悟が承服するはずがない。
「拝復」の書き出しで、今度は夫の方から妻に長い手紙を出すことになった。

そしてこどものいない結婚10年目を迎えたばかりの夫婦による日本とギリシャを往復する”往復書簡”という形式で本書は構成されている。このような形式で読書家が思い出されるのが、宮本輝氏の名作「錦繍」であるが、「追伸」ではミステリー作家らしく、奈美子の離婚したい理由、離婚しなければならない思いが、一種の謎解きとして主軸におかれ、更に奈美子の母方の祖父母の恋愛と彼らの”往復書簡”を中央に編纂するという凝った二重の構図で物語が編まれている。美しかった祖母に面差しがよく似ている母は、その美貌を封印するかのように生きてきた。そんなことに気が付かない奈美子は、逆に写真でしか見た事のない若くして亡くなった祖母の美しさに憧れていく。
これまでどちらかというとハードボイルドに近いミステリーものというジャンルから、単なるミステリーに悟と奈美子の現代の恋愛、戦前の祖父母の恋愛を盛り込んだのか、或いはミステリーを超えた恋愛ものなのか、その区別で作品の評価はわかれるだろう。一気に読ませられるおもしろさは、本書を地元公立図書館に予約してから手元に届くまで要した長い期間で証明済みであいかわらずの人気ぶりだが、かといって長く心に残る作品かというとそこまでは到達していない。真保氏は流行作家、人気作家として常に売れる作品を世に送りながら、その作品が所詮消費されていくのだとしたら少々惜しい気持ちがする。
最後のギリシャの「根を生やしたオリーブの木には多くの実がなる」という含蓄のある諺がさえているだけに。
また、瞬時に海外に届くメールでなく、あえて「謹啓」というクラシックな頭書きにはじまる現代の夫婦の手紙が古風に感じられ、逆に祖父母の往復書簡の文体や表現が現代とあまり変わらないことが、ふたつの時代の隔たりが感じられず情緒が失われたようで残念だ。
ミステリー小説は確かにおもしろい。本というカテゴリーの中では、娯楽という快楽に最大に貢献しているジャンルだとも言える。しかも、純文学よりも確実に売れる。しかし、あまりにも巧みな作家群によってすっかりこの分野も成熟してしまった感もある。そこに、恋愛という人間的な深みと奥行きを与えたい作者の試みは買いたいのであるが。
追伸
表紙の写真を見て、ギリシャを訪れたくなった。。。


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2008.04.30 Wednesday

『Sex in a Cold Climate』

昨秋、エルミタージュ美術館で鑑賞した膨大な絵の中でも印象に残ったのが、ティツィアーノ・ヴェチェリオによる「 Tiziano Vecellio 悔悛するマグダラのマリア(Maddalena penitente)」である。娼婦に身を落としながら後に悔悛したマリアを描いた「マグダラのマリア」像の中でもこの絵は、最も人々に親しまれている絵画だろう。
映画『マグダレンの祈りは、このマグダラのマリアにちなんで、19世紀より食べるために堕落した娼婦になった女性を更正させるための施設、マグダレン修道院にまつわるTVドキュメンタリー『Sex in a Cold Climate』を観て、衝撃を受けた英国人俳優のピーター・ミュランが映画化をした作品である。レンタルDVDで、実際に放映された番組も観ることができた。
まぐ番組では、かってマグダレン修道院に収容された4人の女性へのインタビューに、若かった頃の彼女たちや修道院の様子が写った写真の映像が流れた。
1番の罪は、未婚の母。2番目は噂。元々娼婦救済と更正施設として開設されたマグダレン修道院は、1940年代になると大半は未婚の母や、ふしだらと疑われた少女の収容所となっていった。避妊の知識もなく、避妊が認められない国で、心ならずも未婚の母になってしまった女性たちは、「一家の恥じさらし」と家族に捨てられ、福祉制度もないまま、まるで刑務所のような修道院に押し込められた。親戚の家を訪問した帰り道に、従兄弟から強姦されたにも拘らず「お前に必要なのは罰だ」と責められ、またある女性の場合は、長く美しい髪とひとめをひく容貌のためにふしだらと疑われてそれだけで14歳で連れて来られたのだ、。収容された少女の主な仕事は、「淫らな罪」を償い心をきれいにするという名目もかねた重労働の洗濯である。Aさんは、アイロンかけのために、入所わずか1ヶ月で腕に静脈瘤ができてしまった。運営者は修道女で、アイルランドの村社会では、カトリック教会の教えは単純で厳格。神父や修道女の存在は絶対であった。物や人に興味をもってはいけない。またここではプライバシーもなく、洗濯室で全裸にさせられ、修道女から肉体的なことを嘲笑された。
「申し訳ございません」「許してください」
恐くて、自分の言葉で意見を語るのは到底無理だった。「更正」という目的で施設に入れられた彼女たちを待っているのは、「指導」という名目の虐待だった。
そして「世間体を失って生きる価値のないおまえたちは、ここに一生いろ」
ただ、修道女たちから言われたとおりにするだけだった。

次々と紹介される修道院の少女たちは、同じ洋服、エプロンに身を包み洗濯をしている。隣接している孤児院には、自分たちのこどもも収容されているのだが、授乳の時期を過ぎると会うことは叶わない。掟を破ると、折檻が待っている。
またある女性は懺悔室で懺悔をしている途中に呼ばれて行くと、神父が下半身を露出していたなど、性的な虐待を度々受けた。

悲しいことに、無事脱走や理解ある親戚から救出された女性すらも、修道院で過ごした生活のために、外の社会への適応することが困難であることだ。
神父から性的虐待をずっと受け、性的な知識もないため、結婚してもSEXを罪悪視して受け入れる準備がなかなかできない。人に見られるたびに自信がない。また救出された後に小学校の教師になったある女性は、修道院でずっと束縛されてきたおかげで、二度と束縛されたくないために生涯を独身で過ごす決意をした。こどもを養子にとられた女性は、後に別の男性と結婚してこどもを産むのだが、修道女たちの”教育”のおかげですりこまれた観念によって施設にいたことを50年間家族に隠しつづけた。家族の理解と尽力により念願だった長男と再会できるまで、どれだけの歳月が去っていったことだろう。
10ヶ所あった施設の最後が閉鎖されたのが、1996年。今世紀だけで約3万人の女性が生活していたと推測される。
彼女達に共通するのが、教会に対する根強い憎しみである。教会には絶対に行かない。修道女は、修道服を着た悪魔。修道院で人間としての尊厳もプライドもすべてを失った。
そう語る老女の涙に、教会は今日に至るも沈黙している。


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2008.04.29 Tuesday

『マグダレンの祈り』

まぐ有閑マダムさまが、日本人は、敬虔なクリスチャンという言葉に弱いとおっしゃっていたが、まさに不埒で不信心な私は、敬虔なクリスチャンと聞いただでけで、まぶしい目で見ちゃったりなんかする。しかし先日『尼僧物語』を観て、勿論それだけでもないが、宗教の善し悪しなども考えたりもする。教会が絶対の権力をもつ存在であることの弊害、そして信仰の道を極めるという選択をした信心深い神父・修道女たちによる虐待と非人道的な”善行”を暴いた映画が、実話に基づいた映画『マグダレンの祈り』である。

1964年のアイルランドの寒村。結婚式にわきたつ村人たち。マーガレット(アンヌ=マリー・ダフ)は、従兄弟に声をかけられ別室に行くとそこで強姦されてしまう。泣きながら友人に相談をすると、またたくまにその話が父親や神父たちに知れ渡る。少女のマーガレットは、なんの落ち度もない性的な暴力を受けた被害者である。しかし、祝宴のさなかに、おとなたちの彼女を見る目。そこに宿っているのは、蔑みと嫌悪だった。
翌日の早朝、1台の車がやってきて、マーガレットは行き先もわからず連れ去られた。窓から何も知らない弟が不安気にその様子をのぞくが、両親は何も応えず冷たい。
彼女が収容されたのは、ダブリン郊外にあるマグダレン修道院。未婚の母となったローズ(ドロシー・ダフィ)や、一目をひく容姿が堕落を招くという理由だけで連れて来られたバーナデット(ノーラ=ジェーン・ヌーン)とともに、ここでマグダラのマリアのように自らの罪を悔悛するための生活を送るように、修道女のシスター・ブリジットに言い渡されるのだったが。。。


まぐ未婚の母になることが罪なのか。男性の性的な興味をひいてしまう生まれついての美貌が罪なのか。アイルランドは厳格なカトリックの国であり、婚前交渉、堕胎、避妊すら比較的最近まで認められなかった国である。1995年、国民投票で離婚がかろうじて合法的になったこと事態、日本人としては驚きすら覚える。
本来人を救うべき宗教がもたらしたこのような歴史的な事実こそ、罪そのものであると言ったら過言だろうか。
彼女たちは、単に体を覆うための目的の茶色の囚人服よりも劣る服を着せられ、肉体の穢れを洗う目的もかね、一日中過酷な洗濯をさせられる。私語がいっさい禁止なのは、『尼僧物語』と同様。違うのは、与えられたルールを破ったら、待っているのが修道女たちによる体罰である。いや、むしろ体罰というよりも”虐待”である。家族や友人とも会うことすら叶わない。脱走した娘を殴り、修道院に再び連れ戻す父親に言わせれば、娘は「一族の恥」だからだ。洗濯場で全裸で並ばせられ、肉体的な特徴を嘲笑し、尊厳を踏みにじる修道女たちを前に、抗議することも泣くことすらも忘れた彼女たち。映画を観ながら、刑務所よりも地獄だとつくづく感じる。映画の中では、慈悲深く賢いローズのような未婚の母もいるが、こうした立場になる女性たちの中には、実は軽度の知的障害があり、またカトリックの性教育の禁止の教えからも性行為の意味すらわからないまま妊娠してしまった女性も多いということがわかる。3人の少女たちに深く関わることになるクリスピーナや、老いて死ぬまで終生修道院の中で過ごした女性もそうである。彼女たちは、権力のある修道女によって、すりこまれた命令に服従し、淫らな罪深い女であるという言いつけを忠実に守る人格のない単なる奴隷に過ぎない。

しかし、監督自身もカトリックの信者であり、ローズ役を演じたドロシー・ダフィも敬虔なカトリック信者であることから、宗教そのものを批判するのではなく、信仰によってゆがめられた人間の罪を告発するものである。劇中、映画の上映会が催されるが、雛人形のような顔立ちをしたシスター・ブリジットが、『聖メリーの鐘』のイングリッド・バーグマン役の修道女に自身を重ねて感動の涙を流す場面は、閉塞した社会で絶対の権力をふるううちにゆがんでいく心と唯我独尊に陥る滑稽さを描いている。彼女の執務室の机の上には、米国のケネディ大統領の写真が飾ってあるのだが、収容されている女性たちの労働から搾取したお金を貯めるのが唯一の生きがい。
そしてそんな権力の頂点にたつシスターも、所詮複雑で男性が支配する”教会”の別宅の模範生でしかならない。
女性の立場で鑑賞すると、主人公たちだけでなく、修道女を演じた女優たちも、精神的につらい映画ではなかったのではないかと想像される。そんな彼女達の熱演に報いたのが、2002年のヴェネチア映画祭金獅子賞受賞であろう。

19世紀に、元々食べるために娼婦に身を落とした女性の更正施設だったマグダレン修道院は、1940年代頃になると家族に捨てられた未婚の母、ふしだらと疑いをかけられただけの少女たちを収容して”更正”という目的の虐待する施設となり、ようやく最後に閉鎖されたのは、1996年のことだった。

監督 :ピーター・ミュラン
2002年:イギリス・アイルランド制作


■ドキュメンタリー
Sex in a Cold Climate

2008.04.27 Sunday

「波乱の時代」下 アラン・グリーンスパン著

あらんアラン・グリーンスパン氏に再会する。「波乱の時代」の下巻を読了。
ウィンスト・チャーチルの「後ろを振り返るほど、未来がよく見える」という名言にならい、下巻は、80歳を過ぎたエコノミストが見る開かれた未来の窓からうかがえる風景が内容の中心となっている。経済政策立案者にとっては、民主社会と市場主義経済の機能に歴史的な連続性を見ることは、物理法則ほどの確かさはないが、コインを投げた偶発性の確率よりも確かだと。ここで、あらためてグリーンスパン氏が最も思想的に影響を受けて尊敬する人物が、個人の自発性と市場の力の啓蒙主義を広めたアダム・スミスだったということを思い出した。市場はあまりにも複雑になりすぎ、行政の規制能力が落ち、人間が効率的に介入できないため、リスク・ヘッジは市場の柔軟性を維持すること、ひいてはヘッジ・ファンドやプライベート・エクイティ・ファンド、投資銀行などが金融市場で自由に泳ぐことによって不均衡を解消していくという意見に至る。「神の見えざる手」が、結局カネ稼ぎの富が更なる富を生む構図に合理的で有効になるとは、道徳家でもあったアダム・スミスの予想外のことだったかもしれない。

そして米国のみならず、ロシア、中国、南米と世界規模で見通すグリーンスパン氏は、市場主義、資本主義経済が、もっとも効率よく生産的であることが、グローバル化によってあきらかになるとされるが、その一方、果実の配分が公平に分配されないことが最大の弱点だとしている。(私自身は、最近、この弱点に米国型市場主義経済の曲がり角を感じて、いつの日か、遠い未来には別の形態の経済体制が生まれると予感しているのだが。)

在任中は、曖昧模糊とした言い回しで有名だったグリーンスパン氏だが、全体を通して静かだが明晰な高い山にある湖を見るような印象を受ける。熱狂もなければ、絶望もなく、おだやかで澄んだ湖面から、読者は心よくその底をのぞいて眺めているような心境になる。歴史が、熱狂と絶望の繰り返しであり、何度繰り返しても学習しないのは、それが人間の本性であることを達観しているからだろうか。格別新鮮な発想や斬新な見方はないが、読んでいるうちに、そう、象牙の塔の住人ではなく、FRB議長を退任するまで、日々是市場の”生きた”経済の中心にいた老エコノミストの最後のスペシャル講義を拝聴しているような気がしてくる。

2030年後の日本におけるグリーンスパン氏の関心は低く、そっけないのが少々淋しい心境もする。
2000年にグリーン・スパン氏が当時の宮沢喜一大蔵大臣に会った時、米国のRTC方式を勧めたが、”体面を失うこと”を恥じとする日本文化の前に断られたという記述があった。日本の資本主義経済は、別の文化でまわっていることに気がつく。確かに日本人は小さな島国の民族意識からだろうか、利己主義的にふるまうようよりも、”国益”の中でものを考えることを尊しとする人種である。しかし、新卒の就職事情がバブル期以上の活気があるとは言いつつも、日本経済は停滞して、我々は希望をもてなくなっている。余談だが、将来、年金給付水準を下げても、日本人は制度の変更を国益の中で考えるから心配ないと豪語する?日本の高級官僚たち。米国だったら議会や有権者が納得しないだろう。所詮、見方を変えれば国民を国益の単なる駒としか見ていないテクノクラートに、私たちは行政をゆだねているのかと思うとグリーンスパン氏だけでなく私も失望した。

人間が逆境に耐え、進歩を続けられるのはその適応力にある。その適用力こそが、我々を楽観的にしてきた。今後、予想もしない将来が待っているかもしれない。しかし、我々がみな本能的に追い求める希望のフロンティア精神が消滅することはないだろう、というグリーンスパン氏の最後の確信に導かれて、グローバル化の荒波に乗った私たち日本人の船のいくつく先を見たいと考える、そう、できればはるか遠くまで。

グリーンスパン氏が2歳の時に両親は離婚した。以降、ずっと母と母方の祖父母とともに暮らしていたが、ウォール街で活躍した父による大恐慌の終焉を予想した経済書「RECOVERY AHEAD!」には、父からひとり息子のアラン宛ての不思議な献辞が記されていた。
「息子のアランへ。(中略)この論理的な予想の背景にある根拠を解釈し、あまえ自身の仕事をはじめるよう期待している」
まるで、この曖昧模糊とした不思議な父からのメッセージに導かれるように歩んだ著者の人生の歴史が上巻だとしたら、下巻はその80年にわたる人生の集大成かと思われる。だから、幾分感傷的な感想にもなってしまうのだが、金利、市場主義経済がよくわかる経済の入門書、さらにその道のプロでもある市場関係者にもお薦めできると思われる著作である。お忙しい方には、読物として魅せられる上巻もよいが、感動すら覚える下巻だけでも。
ついでながら、あとがきで有能なジャーナリストである妻に最大級の謝辞を贈りながら、最後に、20万語に近い分量があるので、すべてを確率で考えるわたしは、どこかに間違いがあるはずだと思い、読者にあらかじめお詫びをしている。私も諸々すぐに確率で考えるタイプなので、こんなチャーミングでユーモアな言い方にちょっと嬉しくなり微笑んでしまった。^^

*RTC方式⇒
〃弍調躓,亡戮辰臣蓄金融機関の大部分を破綻させる
∋饂困鮴┿患還に移す
資産を大幅に割引して処分。不動産市場の再活性化。



「波乱の時代」上巻
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2008.04.24 Thursday

「つぐない」

光市母子殺害 重い意味持つ「厳罰化」4月23日)<北海道新聞>
山口県光市の母子殺害事件で、広島高裁の差し戻し審が、当時十八歳の少年に死刑を言い渡した。
判決は、殺意を否定する被告の新たな主張をすべて退けた。弁解や反省も刑事責任を軽くするための偽りだとして、「くむべき事情はない」と判断した。

この事件では殺人罪などに問われた少年に対し、一審と二審は無期懲役の判決だった。
最高裁は二年前、「被告の罪責は誠に重大で、特にくむべき事情がない限り死刑の選択しかない」と異例の差し戻し判決を出した。今回はその流れに沿ったと受け止められる。 少年への死刑適用のハードルを下げた重い判決と言え、厳罰化の流れをさらに進めるだろう。
差し戻し審で弁護側は「精神的に未成熟な少年による偶発的な事件」と主張した。しかし、判決は被告の供述が不自然だとして一蹴(いっしゅう)した。

判決は、被告側のくむべき事情については、厳しく判断した。
被告は幼少期から実父の暴力を受け、中学時代に実母が自殺していた。家庭環境に恵まれず、精神的な成熟度が低かった。 判決は、こうした点を認めながらも、罪質や動機、態様を考えると、死刑を回避する十分な事情とまではいえないとした。 これは、少年の矯正可能性や年齢を重視してきた従来の判例とは大きく違っている。

死刑について最高裁が一九八三年に「永山基準」を示してから、犯行時に未成年で死刑が確定したのは十九歳が四人を殺した二件だけだ。
今回は死者が二人である。少年法で十八歳未満には死刑が適用されないが、十八歳一カ月という最年少への死刑判決にもなる。
永山基準は、罪質や被害者の数など九項目を総合的に考え、極刑がやむをえないと認められる場合に死刑を選択するというものだ。死刑は例外的な刑罰との立場だった。
これに対し、光市事件で最高裁の小法廷が示した差し戻し判決は、原則と例外を逆転させたようにみえる。「犯罪が客観的に悪質とみられるなら、少年でも原則として死刑とした」とみる法律学者もいる。
判例の実質的な変更にあたるなら上告に際し最高裁は、大法廷で慎重な審理をする必要もあるだろう。

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日本中が関心をもった事件の判決がでた。
昨日、いつもは芸能人やテレビの話が多い勤務先の方から、この事件の報道の感想を話しかけられたのだから、やはり国民の関心は強いのだろう。日本は、終身刑がないのだから死刑はやむをえなし、もしくはあんなひどいことをして死刑が当然、殆どの方がそうもっともらしく自信たっぷりに語る。しかし、18歳の誕生日を迎えたばかりの少年が、異常で残酷な犯行に及んだ動機や背景、被告人の闇に誰も殆ど関心をもたない。本当に、それでよいのだろうか。

インタビューに応える被害者のご遺族の態度と発言は、判決が執行されてももどらない命と失われた幸福な家庭の無念さがにじみでていた。また世論をまきこみ、判決に達成感を感じながらも、「死刑がよいとは思わないが」と永山基準をこえたこの事件の判決がもたらした意味を理解し、この哀しみの9年間の歳月、毎日考えに考え抜いた様子が伺える。いつもながらの理路整然として非のうちどころのなく、その反面、せつせつと訴える被害者感情に共感を覚えない人はいないだろう。それに比較して、ご遺族に対して失礼なこれまでの弁護団の態度は、納得がいかない。

しかし、荒唐無稽だと評された少年の証言が、”弁護団”と協同作業の死刑回避のためのあさはかな詭弁なのか、それとも父親から虐待され、実母の自殺により精神が遅滞した12歳の精神年齢がもたらした妄想という真実なのか。私は、本当のことを知りたい。
たまたま山本譲司さんの「続 獄窓記」を読んだなかで、山本さんと犯罪被害者の遺族会の方たちとの意見交換会で、犯人が更正して社会に貢献できて、はじめて遺族はいやされると最近考えると伝えた母親の証言が印象に残った。「つぐない」は、自分の命をもってつぐなうべきなのか、それとも究極の更正なのか。
さらに映画『つぐない』を観て感じたのが、人は果たして過去に犯した罪をつぐなうことが可能なのだろうか。一生つぐなうことはかなわないのだろうか。
いずれにしろ、被害者の感情をしっかり受け止めながら、多くの問いを残した今回の判決をもっと考えていきたい。

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光市事件報道 BPO「感情的に制作」 04月16日<朝日新聞>

NHKと民放でつくる第三者機関「放送倫理・番組向上機構」(BPO)の放送倫理検証委員会(委員長・川端和治弁護士)は15日、山口県光市で起きた母子殺害事件の差し戻し控訴審をめぐる一連のテレビ報道・番組について「感情的に制作され、公正性・正確性・公平性の原則を逸脱している」などとする意見を発表した。同日、NHKと在京民放5局に通知した。川端委員長は「各局で議論した上で、その結果が報告されることを期待する」と話した。

同委員会は番組に放送倫理上の問題が疑われる場合、独自の判断で審議する組織。07年5〜9月に差し戻し控訴審の内容を伝えたNHKと民放の8放送局、延べ33番組を調べた。今回は、個別番組ごとの問題ではなく、多くの番組に共通した傾向を全般的に取り上げた。
意見書では、ある番組で被告側の主張を「命ごいのシナリオ」と呼ぶなど、被告弁護団や検察官、刑事裁判の仕組みや役割を十分認識していない▽被告人がどういう人間かが伝わらず、その発言を表面的に批判・反発している▽被害者家族の会見映像が多く流され、同情・共感を強く訴える内容になっている――ことなどを指摘。「一方的で感情的な放送は、広範な視聴者の知る権利にこたえられず、視聴者の不利益になる」とし、来年から実施される裁判員制度への影響にも触れている。

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2008.04.22 Tuesday

『つぐない』

つぐ予告編ですっかりその映像に魅せられて、指おり数えて公開を待っていた映画『つぐない』。
それは、期待以上の極上の恋愛映画だった。

1935年の夏の盛り、英国の田園地帯にある政府官僚の屋敷。ケンブリッジ大学を卒業して帰省したセシーリア(キーラ・ナイトレイ)は、退屈と焦燥の日々を送っていた。しかし彼女はいらだちの原因が、幼なじみで一緒にケンブリッジ大学に進学した使用人の聡明な息子ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)の存在にあることに気がついていない。「住んでいる世界が違う」そのひと言で、ロビーを意識のすみに追いやるセシーリア。大学時代も自分の友達を彼から遠ざけ、今夜のディナーにロビーを招待したことに不快に反対するセシーリア。
13歳の妹ブライオニーは、作家志望の多感な少女。帰省してくる兄と友人を歓待するための戯曲の執筆に余念がない。そして窓から、姉とロビーの意地の張り合いから生じたささいな誤解が招いた事件を偶然目撃してしまうのだが・・・。(以下、内容にふれています。)

私は最高の恋愛ものは、やはり「ロミオとジュリエット」だと思う。以前もブログに書いたが、シュークスピアのこの劇においては観客は、幕開けとともにコーラスの語りによって若い恋人の運命を事前に知らされることで、運命に抗う人間の哀しみの痛みに共感を覚え、また同時にいわば高所から知的にその恋の行方を眺めることになる。本作品もあらゆるメディアを通じて、宣伝と批評によってセシーリアとロビーの運命の悲劇をそこはかとなくに知らされているようなものだ。それにも関わらず、最後まで恋愛映画を堪能した満足感は、ジョー・ライト監督や出演者をはじめ、スタッフの力の幸運な集大成であろう。何しろ、映像、美術、演出、斬新な音楽、俳優たちとすべてにおいて非のうちどころがないくらい完璧なのだから。


つぐない冒頭のブライオニーの広い屋敷を早足で歩く足音、蜂の音がかもしだす夏の盛りのけだるい空気、彼女の汗ばんでほのかに上気した頬、そのひとつひとつが濃密な物語の時間をねりあげていく過程にまず驚嘆させられる。そして最も印象的な噴水での場面。最初に屋敷の窓からのブライオニーの視点とともに観ると、確かに観客も一種の誤解を生む。そして時間をさかのぼり、その後にあらためて客観的な視点で見せられるセシーリアとロビーの真相。ここで、我々自身も誤解と思い込みの可能性をとりこまれていく。このように様々な手法で、時間の視点を過去に戻して再現する映像が、斬新でまた意味があり、最後の最後まで凝ったつくりとなっている。
ところで、この場面での濡れた下着で体のラインがあらわになったセシーリアとロビンが一瞬見つめあう映像は、大変魅力的で素敵である。そしてセシーリア役のキーラ・ナイトレイについ魅了されてしまう清潔なエロティシズムがある。
私はこの映画において、キャスティングは重要だと思う。この印象深い場面で、ハリウッド映画が好みそうなスカーレット・ヨハンセン並のセックス・アイコン的豊満ボディをもってきたらどうであろう。やはりここはスレンダーなキーラ・ナイトレイの体が芯の強い清楚さで、その後のロビーがいとおしむように噴水の池の水面をそっとなでるシーンにうまくつながっていると感じる。キーラ・ナイトレイは、最初は、セシーリアではなく本来の主役であるブライオニー役を監督から期待されたのだが、彼女の希望でセシーリア役を演じることに変更された。もしキーラがブライオニーを演じていたら、もっと「贖罪」のテーマに比重がかかり、人間の罪と罰にかかる内面の苦悩とゆるしの問いが心に残ったかもしれないが、美しいセシーリアをヒロインにおくことによって上質の女性好みの恋愛映画の傑作となった。当初は、キーラにつりあわないと思えたロビー役のジェームズ・マカヴォイだったのだが、彼以外のキャスティングはありえないくらい適役。(日本人で言ったら、『眉山』の青年医師役を演じた山本耕司さんに似ている。)この1作で彼は、トップクラスに登ったと言ってもよいだろう。


つぐ3気持ちがいき違って、それぞれの感情を抱えて自室に戻ったふたり。身分の違いと男と女の違いが感じられるふたりの部屋。
ロビーは、誤解と非礼をわびる手紙をタイプライターで綴り始める。切々と恋心を歌いあげるオペラのアリアのレコードをくりかえしかけながら。気持ちをはりつめて、何度も何度も書き直しをするロビー。そんなロビーの映像と、ディナーのために美しく装い物憂げに煙草を吸いながら鏡に向かうセシーリアの映像が交互に流れる。やがてセシーリアを想いながら詫びの手紙を書くうちに、ロビーの表情と心は彼女を恋する感情と人を恋する幸福感がゆるやかに溢れていく。あまりにもこの映像の素晴らしさに感動して、映画館の暗闇で私はこの場面だけを何度も繰り返して観たいと願った。セシーリアのシルクの上品なドレスの深い翠色にすいこまれるように、久しぶりに純粋に恋愛映画を堪能した。今年は、もうこれ以上の恋愛映画には出逢えないのではないか。

・・・そしてつのる想いが書かせた物語の鍵を握るいたずらめいた妄想の秘密の手紙。
『チャタレー夫人の恋人裁判』の時代背景からすると、あの手紙の内容はとんでもなく”猥褻”である。ここで、あえて”猥褻”という言葉を使用したが、私はむしろ”あれ”は、恋する男性の願望の本音であり、恋愛の本質でもあると思う。だから、拒絶せずに手紙を受け入れて涙を流すセシーリアが高貴で美しい。

成長したブライオニーがセシーリアとロビーに再会する場面では、ロビーの厳しい口調だけでなく時系列でも違和感が残ったのだが、その理由が最後にあかされて映画に深みを与えた。
「つぐなう」ためには、つぐなう対象の存在が必要だ。ゆるされるためにも、ゆるしをこう相手がいる。空想の再会をボーナストラックのように用意することで、果たして罪はつぐなえるのだろうか。原作者のイアン・マキューアンは、これまでショッキングな題材を冷徹な手法で描く作家という評判らしいが、一生「つぐない」の重みを背負う老いたブライオニーに作家自身の投影を見る。

ジョー・ライト監督
制作:2007年イギリス映画


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2008.04.20 Sunday

「続 獄窓記」山本譲司著

つgく2法務省発行の「矯正統計年報」によると、現在、年間3万人の受刑者が入所してくるが、そのうち25%の受刑者が、IQ70以下の知的障害者である。そんな彼らが、刑期を終えて出所後待っている環境、社会の受け皿は。

刑期満了後、3ヶ月たったあるクリスマスの日、著者は大量に投与されてせいだろうか、太ったある32歳の男性とずっと手をつないで動物園にでかけた。彼は、著者の刑務所時代の友人である。出所した彼を待っている家庭は、母親は12年前に蒸発して行方不明、父親は脳梗塞の後遺症で半身不随、そして弟は統合失調症を発症。こんな家庭環境の元囚人の知的障害者の彼に、社会復帰のプログラムは用意されていない。そもそも、受刑されていた刑務所時代も、厚生教育のプログラムを受けるわけでもなく、懲罰を受け、処遇困難者として薬漬けにされ、同じ受刑者からもネグレストされて「非人間的」「非社会的」に落ちていく彼ら。
”秘書給与詐欺事件”で1年6ヶ月服役した著者が、こんな塀の中の驚くべき実体をあきらかしたのが体験記の「獄窓記」だった。その本の最後は、本当の現実を知り、これまでの理想を語り、福祉政策を論じてきた政治家としての活動を恥じ、出所後は「福祉の仕事に関わりたい」と結ばれていた。そして刑期を満了して出所した。
その後の元囚人の山本氏の人生・・・ここから始まるのが「続 獄窓記」である。

「刑務所は、やっぱり大変だった。でも、これからのほうが大変だ」
いわば人生の選択肢を与えてくれた友人のその言葉は、著者に重くのしかかる。
著者は、友人とは違って、あたたかく迎えてくれる妻、可愛い盛りの息子という家族があり、また同居をすすめてくれた義父母の自宅や友人、恵まれた環境といってもよいだろう。それにも関わらず、本書の前半は、囚人としてのコンプレックスにさいなまれてひきこもる日々がくりかえされて書かれている。元々志高く、真面目な人だけに、常に自分を責めたてる。確かに福祉の専門学校の入学も断られ、”前科”の重いくびきが、社会復帰をそがいでいた。社会から抹殺されたかのような厳しい現実に、著者は絶望しそうになる。しかし、受刑体験のすべてを書き残そうと決意して生まれたのが、「獄窓記」だった。このたった1冊の本から、著者の人生は、文字通り第二の人生の道が開かれる。
私が最も感銘を受けたのは、著者とまさに”福祉”を本気で考えている人々との出会いと、そこから動きはじめた数々の活動である。
運命的な出会いのような前作を出版したポプラ社の編集者、出版後、最初に取材にきた長靴をはき大きな蝙蝠傘を背負った北海道新聞の記者、そして「社会復帰センター」建設に関わる建設会社の人々。誰もが受刑者の処遇を変えて、刑務所を改革をして、社会から孤立している障害者を救いたいと願っている人々だった。

やがて山本氏の活動は法務省にも認められ、全国の刑務所長たちに講演をするまでになり、実際刑務所は確実に変革しつつある。また著者は、現在、知的障害、精神障害のある受刑者に対し、生活訓練・社会適応訓練、カウンセリングなどの障害特性にあった処遇を行う新しい刑務所の運営アドバイザーとなっている。最初の新刑務所の建築の開札に、品質では勝っていたのに価格差で落札できなかった時、
「また挑戦しましょう」
そう叫ぶように電話で伝えて終えた最終章の「いつの日か」は、まだまだ続いている。

著者の人生の変遷に驚くが、エリートの政治家時代よりも、たとえ前科があっても、彼ははるかによい仕事をしていると思われる。出所後の仕事を知れば、誰もが選挙になると”福祉”を声高に連呼する政治家よりも彼の活動を応援したいだろう。
けれども忘れてはいけないのが、著者がようやく就職できたのが、知的障害者入所施設の時給1000円の支援スタッフの仕事だった。この仕事は、獄中での体験とともに、今日の活動を支える原点である。人との出会いに恵まれている著者は、こえからも家族や友人、多くの人々の理解や支援が、活動や運動を応援して支援してくれるだろう。しかし、本当に彼の活動をかげながら最も支えているのは、受刑者時代の多くの認知症になった老人や障害のある受刑者の友人たちの存在だ、と私は思っている。


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・「累犯障害者」塀の中の不条理
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2008.04.16 Wednesday

「波乱の時代」上 アラン・グリーンスパン著

あらん米国経済、ひいては世界経済の金融をつかさどる偉大なる船長が、87年レーガン大統領によって任命され、一昨年80歳を前に引退するまでFRB議長として”波乱の波”をのりこえ、根拠なき熱狂をかわし、いくどもそのソフト・ランディングを神業とまであがめられたアラン・グリーンスパン氏の回想録のタイトルが、「波乱の時代」。これは、皮肉にも後継者であるバーナンキ議長への次なる時代の予感をこめられたメッセージとも受け止められる。しかし、悪夢のようなサブプライム問題へのグリーンスパン氏の原罪の有無と責任を問う前に、私は本書に魅せられた。
概ね経済・産業界、政界で活躍した地位も名誉もある人物の回想録は、饒舌で自信に満ちた自己アピールで退屈な時もあるのだが、率直で飾らない文章と、なんといってもジュリアード音楽院で音楽を学んでジャズ・プレイヤーとして活躍した青年が、計量経済学の黎明期にマクロ経済学モデルとその限界を理解した後に、エコノミストとして活躍した半世紀。それは米国経済の軌跡であり、地球儀の上にかかる雲の流れを眺めているような感覚を読者に与える。そして世界の頂点を極めたエコノミストの哲学のような思想や発想、その優れた洞察力と品格のある性質、今でも記憶に残る日経新聞に掲載されたアンドレアさんとの結婚式の写真(そもそも日経新聞に個人の結婚式の写真が掲載されたこと事態が珍しい)からも想像されるように、恋人時代からのおだやかで信頼の充ちたふたりの関係も含めて、私は丹念に文字を追うことの楽しみを慈しむような感じだった。

予想どおり、グリーンスパン氏は共和党員である。クラシック音楽好きだからと言う訳ではないが、保守的な方でもある。そして氏は、ルートビヒ・ウィトゲンシュタインにはじまる哲学であり、知識は事実と数値からのみ得られるとする論証を重視する論理実証主義者である。原子物理学にも魅力を感じていて、マンハッタン・プロジェクトの科学者に共鳴していて、価値観や倫理、行動様式は文化を反映して、厳密な論理の対象にならないと考えている。この主義思考から、社会科学者としてのエコノミストとしての一面もうかがえて興味深かった。
また、ニクソン大統領から現ブッシュ大統領まで、さりげない表現ではあるが、歴代の大統領の貴重な証言にも、グリーンスパン氏が経済分析だけでなく人物を分析する能力にもたけた人という印象も残った。氏によると権力の頂点にたつ者がかなり変わっているのを見てきたが、フォード大統領は、精神的に常に安定していて冷静。自分が知っていることが何で、知らないことが何なのかを理解し、経済に明るいほどではないが、経済政策に関する見方が洗練されていて筋が通っていた。カーター大統領は優柔不断で、無策ではないが経済動向に関しては不運な人。レーガン大統領は、大統領の地位に明るさと善意をもちこみ、知性のカタチが違っていて、グリーンスパン氏はすかりその性格に魅了された。クリントン大統領はきわだって頭脳がよく、読書好き、世界のあらゆることに好奇心をもち、経済の細部まで関心をもった。更に現実をごまかそうとせずに、勇気のある人だった。そして、歴代大統領の中で強烈な人物は、やはりニクソン大統領だろう。クリントンと並ぶくらい飛びぬけて優秀で、自分意見を述べる時は、そのままでセンテンスとパラグラフが見事に整った文章になる話し方をし、たった今入手した知識のなかった最新ニュースさえも、大学教授のように豊富な知識をもっているかのように記者会見にいどむことができる。まさに、政治家向けの才能がある、のだが、或る日政策について議論する場で、民主党がいかに悪辣かを口汚く非難しはじめた。これはある程度想像できるが、驚いたのが、口調が厳しく卑猥な言葉が次々と飛びだしたという点だ。非常に優秀な反面、人間嫌いでとんでもなく偏執的、というキャラクターの持主は危険すら感じる。フォード大統領とは、昼と夜ほどの違いのある人間の暗い側面をかいまみたグリーンスパン氏は、ニクソン大統領から離れていった。

随所にグリーンスパン氏の鋭く光るセンスや信条、社会主義や計画経済がうまくまわらない理由、インフレをコントロールする技などがさらりと詰め込まれた本書は、一度は読んでおきたい経済の教養本である。
そして今、老いたエコノミストが夢みるのが、党派をこえた友情の培われた共和党の大統領に民主党の副大統領、あるいはその逆パターン。それもありかな、と無知な私ですらそう思う。そう、確かに世界が平和であれば問題はないはず。。。



「波乱の時代」下巻
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米国の不思議な聖域「FRB」

「ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝」田中秀臣著
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