千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  
旧館の「千の天使がバスケットボールする」http://blog.goo.ne.jp/konstanze/

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2008.01.28 Monday

第13回チャイコフスキー国際コンクール 入賞者ガラ・コンサートジャパンツアー

なんと、世界にはクラシック音楽のコンクールは1000以上もあるそうだ。
しかし、そのなかでも華やかで音楽ファンの注目をあびる権威あるコンクールといえば、ショパンの名を冠したポーランドの「フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール」、ベルギーの「エリザベート王妃国際音楽コンクール」、パリで開催されるヴァイオリニストのジャック・ティボーとピアニストのマルグリット・ロンによって創立された「ロン・ティボー国際コンクール」、そして「チャイコフスキー国際コンクール」。
そのなかでもチャイコフスキー国際コンクールは、扱う楽器がピアノ、ヴァイオリン、チェロ、声楽と範囲もひろく、また旧ソ連時代に国家の威信をかけて開催されていたという点もあわせて、最も華やかなコンクールだろう。
昨年の第13回のコンクールで優勝、或いは最高位の栄冠に輝いた未来の音楽家のお披露目コンサート・ツアーが真冬の日本ではじまっている。
本コンサートの主旨は、やはりまずはご褒美!、そして舞台経験のチャンスが演奏家としての糧になることや、次のオファーへのきっかけ、プレゼンテーションみたいなものだと思う。

最初のチャロ部門のセルゲイ・アントノフ氏は、1983年、モスクワ生まれでモスクワ音楽院を卒業し、M.ロストロポーヴィチ財団のスカラシップを受けるという生粋のロシア人のチェリストである。あかるく軽やかな「ロココ風の主題による変奏曲」を弾く弓さばきは、新人とは思えない巧みなテクニック。すでに国際的なコンクールでの優勝経験もあり、最後のフィニッシュのつもりのチャイコフスキー国際コンクールの参加なのだろうか、音程も明晰で歌いまわしにも余裕すら感じられる。完成度が高いだけに、強烈な個性がないとも言えなくもないが、意外と今後の路線が予測つかないチェリストでもある。

次に登場したのが、神尾真由子さん!おそらく会場の殆どの方は彼女の演奏を最も楽しみにしていたことであろう。長い茶髪が色白の肌に映え、堂々とした体格が遠目には日本人離れして見える。またシャンパン・ゴールドのドレスが、年齢以上に彼女をおとなびた雰囲気を演出している。最初の一音から、渾身の集中力で弾き、尚且つ自分の弾きたい音づくりのこだわりが随所に感じられる。優等生的な誰もが納得する弾き方の多い日本人の演奏家の中で、個性的というよりもがんこなまでの自己主張が演奏に貫かれている。年齢のわりには土着的でべたな演奏に彼女が大阪出身であることを思い出し、コンクールを勝ち抜いた”浪花節”は会場をも制覇したといっても過言ではないだろう。
ところで、最近の神尾さんの髪の色や渋谷系のメイクを見ていると、私にははっきり性格の方だと見受けられる。あのタイプの容姿の女性は、新宿や渋谷の繁華街にはそれこそはいて捨てるほどいるのだが、クラシック業界の水にはあわないだろう。素朴な日本の少女からどんどん濃くなるメイクに比例してプロとしての実力と経験をものにしていく彼女は、「蛇にピアス」で芥川賞を受賞して文壇に踊り出た金原ひとみさんを彷彿させる。実力、おしだし、たくましさ、将来の大物候補の筆頭株である。

声楽部門のアレクサンドル・ツィムバリュク氏は、バス部門でありながら、スマートで長身の繊細なタイプのなかなかイケ面。真摯な音楽つくりが好印象。
またオレシャ・ペトロヴァさんは、ロシア出身の25歳。まだ声楽家としては若く素朴な感じなのだが、声に凛とした気品があるではないか。現在、サンクトペテルブルク・コンセルヴァトーリ(国立音楽院劇場)のソリストも務めている。

最後は、ピアノ協奏曲でしめるというプログラム構成は、この鍵盤楽器の華やかさとチャイコフスキーによる曲のロシアの大地のような豊饒さを示している。ピアニストのミロスラフ・クルティシェフ氏は、唯一10代半ばかと錯覚してしまうような雰囲気があるが、すでに成人しているし、しかもユーリ・テミルカーノフ、ウラディーミル・アシュケナージ、ワレリー・ゲルギエフ、ユーリ・バシュメットといった世界的な指揮者との共演経験もあるそうだ。華奢な体躯にも関わらず、重く暗い音から、軽やかな初夏の光を思わせる第二楽章の展開、アンコール曲もふくめて、その深い音楽つくりには、ロシアの音楽教育の伝統と健在ぶりが感じられる。
全体を通しての印象だが、チャイコフスキー国際コンクールの優勝者は、いずれもすでに大きなコンクールでの優勝経験をもち、プロの演奏家としてキャリアをすでにスタートしている人ばかりである。以前のように、知名度があまりない大型新人が彗星のように出現するような新鮮味はなくなってきているのではないだろうか。ある意味では、出来レースに近い。国家の威信をかけ、東西冷戦下の第一回のコンクールで米国人のピアニストが優勝した時は、歴史に残る事件にもなっていたのだが、日本のトヨタが開催費用(約7億8千万円)のうち3分の1を負担していることもあわせて、チャイコフスキー国際コンクールも曲がり角にきているのではないだろうか。

−−−−−−−08/1/28 サントリーホール −−−−−−−−−−−−−
■出演者
神尾真由子(ヴァイオリン部門1位)、セルゲイ・アントノフ(チェロ部門1位)、
アレクサンドル・ツィムバリュク(声楽男声部門1位)、オレシャ・ペトロヴァ(声楽女声部門2位)、
ミロスラフ・クルティシェフ(ピアノ部門1位なし2位)

指揮:ユーリ・トカチェンコ
オーケストラ:チャイコフスキー記念財団 ロシア交響楽団

■曲目
チャイコフスキー/ロココ風の主題による変奏曲 イ変調 作品33
Tchaikovsky Variations for Cello and Orchestra on a Rococo theme Op.33
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
Tchaikovsky Concerto for Violin and Orchestra in D major, Op35
ヴェルディー/ 歌劇『エルナーニ』よりドン・シルヴァのアリア「私は不幸な男だ」
Verdi Opera”Ernani” Aria of Don Silva “Infelice..!E tuo credevi”
チャイコフスキー/歌劇『マゼッパ』より「これが密告に対する褒美だ」
Tchaikovsky Opera”Mazeppa”Arioso of Kochubey”Tak vot nagrada za donos”
チャイコフスキー/歌劇『オルレアンの少女』よりジャンヌのアリア「森よさようなら」
Tchaikovsky Opera”Maid of Orlean” Aria of Joan “Da Chas Nastal”
チレア/歌劇『アドリアーナ・ルクヴルール』よりブイヨン公妃のアリア「苦い喜び、甘い苦しみ」
Ciela Opera”Adriana Lecouvreur” Aria of La princesse de Bouillon  “Acreba volutta, dolce tortua”
チャイコフスキー/ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 作品23
Tchaikovsky Concerto for Piano and Orchestra No.1 in B flat minor, Op.23
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2008.01.27 Sunday

大学生の9割が「KY」いや

1月21日の読売新聞に『学生9割「KYいや」』という記事が掲載されていた。(概要は次のとおり。)

日常生活で「まわりの空気を読むこと」が重要であると考える大学生が9割に上ることが、首都圏5大学の学生たちの調査でわかった。
調査対象大学は、上智、成蹊、専修、東洋、早稲田の学生計800人で、主催はこれらの大学の広告マーケティングを学ぶ学生でつくった「大学生意識調査プロジェクト」


・日常生活でまわりの空気を読むことは重要か。⇒「とても重要である」52%、「やや重要である」38%
・自分自身について「他人からどう思われているか気になる」人は⇒71%
・まわりから自分だけ浮きたくない⇒72%
・人前で失敗することはとても恐い⇒60%
耐えられない行動として
・会話中に沈黙が続く⇒44%
・ひとりで学食でご飯を食べる⇒42%


このプロジェクト代表者の分析どおり「親しき仲にも”空気”があり、周囲から孤立することを恐れて過剰に適応しようとしている」現代大学生の気質がうかびあがる。
ひとりで学食でご飯を食べられない大学生が42%とは、、、難儀な学生生活だな。。。

山本七平さんの著書にある空気を読むことや社会的心理学のEQとは区別して、流行語としての「KY]という言い方を使うが、KYってそんなに大事だろうか。確かに空気が読めなくて孤立していく人は、職場にもいた。よく周囲の人間を観察していながら、人と協調していこうとしていく姿勢がなければチームプレーの場では敬遠されていく。しかし、自己と他者の接点を見つけておりあっていく協調と、その場の空気をよんでとりあえずあわせることとは少し違うのではないだろうか。その場を支配する微妙な空気、そこには個人と他者とのつながりよりも、見えない空気、集団に埋没していこうという日和見主義にしか私にはみえないのだが。

先日、勤務先の人権啓発研修で障碍者にまつわるお話があった。
重度の障碍をもつ妹がいる中学生のお兄ちゃん。自宅では、妹を可愛がり、よく面倒を見ているお兄ちゃんなのだが、或る日学校行事でバレーボールの大会があった時に、妹を連れてこないでほしいと母親にお願いをした。母親は、お兄ちゃんの悲しい気持ちを忖度して、こっそりと妹を車椅子ののせて連れて行き、遠くからめだたないようにお兄ちゃんのチームの応援をしていた。応援のかいもあり、見事お兄ちゃんのチームは優勝。そっと帰宅するつもりだったところ、母親と妹に気がついた同級生たちによって、あっというまに車椅子の周囲をとりかこまれてしまって動けなくなってしまった。母子の姿から、車椅子にのって重い障碍のある女の子が彼の妹とわかり、緊張したその場の空気をときほぐしたのが、ひとりの同級生の男子生徒の言葉だった。
「この子は、勝利の女神だね」
と、優しく女の子の頭をなでると、みんなが口々に「そうだね、勝利の女神だよ」と同和してなごんだそうだ。

大変よいお話である。誰もが、自分も障碍のある方に差別の意識もなく思いやりの心をもちたいと考えるだろう。けれども、それとは別にKYな私はある種の懸念を感じてしまう。
妹の存在をかくしたかったお兄ちゃんは、中学生という自我が確立形成される難しい時期でもある。そんななか、もしあの状況で最初に口を開いたのが賢くあたたかい気持ちの男子生徒でなかったら。世の中には、感受性が鈍く愚かな人々が多いのも、新聞報道を読む限り事実である。自我がかたまらない中学生の集団で、最初の一言で、”美談”の状況、空気が全く違ってくる可能性もないとは言い切れない。
空気を読めないことは、そんなにいけないことなのだろうか。知性の成熟には、異なる人間との関わりぬきにはありえない。また友人関係は、自分とは違う個との対立とせめぎあいではぐくまれていくのだとも思う。お互いの空気を大事にしなければ成立しない脆弱な親友などいるのだろうか。
先日の某大学の応援団の団員への不祥事による解散事件など、誰もが暴行をとめることができなかった。これは、名のある大学という最高学府に学ぶ団員がその場にあった”空気”にさからえなかったということだろうか。伝統ある部でOBの残念さはわかるが、解散は当然であろう。

「空気の研究」で山本七平さんは、「日本は空気に支配されて意思決定が歪む国であるという悪癖がある」(←「物語三昧」のペテロニウスさまの言葉から引用させていただきました)と、自分の意志決定をその場の”空気”にまかせる危険性を指摘した。
日常でまわりの空気を読むことが大事とした大学生は、9割にのぼる。空気をよむ文化をすべて否定するつもりはないが、誤解をおそれずあえて言うと、まわりからうくことを恐れいつまでも自我が確立しない幼稚な学生、KYってそんなに悪いことばかりでもないと学食で平気でひとりで食事をしていた私は思うのだが。
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2008.01.26 Saturday

「コンサートマスターは語る 安永徹」

先日逝去された江藤俊哉氏の門下生のひとりに、ベルリン・フィルでコンサート・マスターを長年つとめている日本人がいる。
現代の音楽シーンにおいて、特別なウィーン・フィルを除けば、名門オケのいたるところに日本人の顔が見える。女性だっている。けれども、安永徹さんが、今から25年前の1983年に、ベルリン・フィルのコンサートマスター(しかも第1)に就任したことは、それ自体ひとつの事件として受け取られていたそうだ。
当時の自分がコンサートマスターになったことより、外国人をコンサートマスターに選んだ方がすごい、という安永さんのコメントを読むと、名門の敷居の高さとそれゆえに実力主義で質の維持をはかる誇り、また安永さんの音楽への気負いのない自信がうかがえる。
先日、部屋の整理をしていてひょっこり出てきた「音楽の友」の1992年1月号に、「コンサートマスターは語る 安永徹」という懐かしい記事が掲載されていた。(ただし、過去記事をほりおこして構成している。)

カラヤン時代に求められたコンサートマスターについて。

「カラヤンが指揮をする時に、コンサートマスターを勤めるのは本当にものすごく大変。彼が求めているのは、とても大きい」

やはりコンマスとしては第1ヴァイオリンが乱れないことに気をつかうが、カラヤンにとって、音楽的にあっているのは当然。指揮者はあわせる必要がない。そうではなくて、音楽をつくるべきなのだから。だからカラヤンが振る時は、たくさん準備して、最初に棒をふる時から全てを理解していないと気持ちが落ち着かなかったそうだ。言葉で翻訳するのでも、頭で理解するのでもだめ、身につき習慣化するまでやらなければいけない、習慣化させれば、どういう表現でも必ずうまくいくことを知っていたカラヤンは、自分の求めている音楽を表現していく。しかも手で。

しかし、これにはお互いに相当な努力を強いられる。カラヤンの忍耐力はものすごいそうだ。オケを自発的に弾かせながら、自分のほんの小さな指先に団員の集中力と音楽的な緊張感を集めて、音楽をやわらかくする。

「小さな指の動きを見つめることは、たいへんな神経の集中が要る。この集中から生まれる音楽的な解放感が、聴いている人にとっては非常な快感だということをカラヤンは体で知っていた」

カラヤンの音楽には、これまで聴衆の期待を計算しつくされた合理性を感じていたのだが、むしろ頭脳プレイではなく「からだで」というところに、ベルリン・フィルの魅力があったのかもしれない。このような高いレベルの職人芸にこたえることができたのも、彼が常任指揮者だったからこそである。安永さんも、客演指揮者の場合は、自分が求める音楽をどこまで要求できるか、という時間的制約がどうしてもあると語っている。

さて、偉大なるカラヤンの後任は、いわずと知れた大統領選挙なみの激戦を勝ち抜いたアバド。クラウディオ・アバドとベルリンフィルのコンビは、圧倒されるような派手なアピールは足りないかもしれないとのことだったが、本当にアバドの音楽は安永氏の”派手”という単語を引用させていただければ、確かに”地味”になる。でも、音楽のしみじみとした味わい、華やかでも瞬間花火のように消えるのも早い音楽とは違った、長く心に残る音楽があったと思う。アバドの就任時、ここ10年はレパートリーの繰り返しでトレーニング不足を懸念していた安永氏の期待にこたえるかのようにレパートリーの幅を広げている途上で病によって任期満了とともに退任した。
現在のベルリン・フィルは、アバドの後任のサイモン・ラトルの手腕によって、映画音楽の録音、ドキュメンタリー映画制作、新境地を開いたかのようにみえるのだが。。。
ベルリン・フィルとともに生きてきた安永氏の率直な言葉による音楽も聞いてみたい気持ちがする。
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2008.01.25 Friday

「石のハート」レナーテ・ドレスタイン著

石友人から送られた本の三冊目。
「お母さん、わたしは生きていていいの?」
本の帯カバーの悲痛な小さな叫びが、近頃”流行の”「トラウマ」(Trauma)を読む前から意識させられる。いったい少女になにが起こったのか。

12歳の少女、エレンは平凡だが勤勉な両親、思春期を迎えたふたりの兄と姉、小さな弟の7人家族。郊外の大きな家には、テーマごとに新聞の切り抜き収集を生計の糧にしている両親たちが築いた、毎日にぎやかだが平和な家庭が息づいていた。そこに両親にとっては6人めのこどもとなる小さな天使がやってきた。一人っ子で育った母のマルヒェにとっては、計画どおりの最後の出産。自分の夢を叶えた最後の天使。
男の子が3人、女の子が3人。赤ん坊のイダを迎えて、家族はつつましくも絵にかいたような幸福な家庭だった。それが、緊張感をはらんで少しずつ軋んでゆき、或る日ありふれた一家に悲劇が襲った。
それから30年近い歳月が流れ、解剖医になったエレンは、夫と離婚して妊娠中の膨らんだおなかを抱えて、かって惨劇のあった”我家”に再び戻ってきた。迎えるのは、かっての「家」にしみついた喪失した家族の思い出だったのだが。。。

現在のエレンのと過去の少女のエレンの思い出が交錯して、物語は進行していく。そして主人公である家族の中で利発な少女エレンには、事態の冷静な観察者と家族の絆の役割としての視点を与え、読者にとっても違和感なく、しかも救いのある結末に導いてくれる。生きることすら困難なのだから、せめて物語は人生を抱擁するものにしたい、という作家の願いが成功し、悲惨さと残酷さをのりこえるあたたかみのある読後感だ。この小説の本質的な魅力は、キャッチな米国流”感情のジェットコースター”ではなく、ひとりの少女の再生と愛情をとりもどす感性の瑞々しさと理性の力によるところが大きい。

作家の本書を読む感性を充分に備えているのは、女性に限定されるのではないだろうか。胸がふくらみ初潮を迎えても赤ん坊の世話に母を奪われた12歳の女の子と、高齢になって遺伝子の半分の出所が不明でもこどもを産むことを受け入れた女性。こどもよりも母との愛に殉じた父を永遠に許せないエレン。成人しても、自傷行為のようにゆきずりの肉体だけの関係を続けるエレン。エレンが見るもの、聞くもの、感じるもの、それは女の子、女性特有の研ぎ澄まされた感覚にほかならない。その鋭利な刃物のような感性を共有できるのは、女性だけ、作家と読者の女性同士という枠の中ではないだろうか。

また、もうひとつの読みどころが、ここに書かれているのは、あくまでも作者の想像の産物であるにも関わらず、エレン自身がまるで作者の自叙伝という錯覚すら覚えるくらいの丹念で繊細な表現にある。朝食の食卓からただよう匂い、床の小さな傷、幼い手がつけた壁のしみ、階段のわずかなくぼみや座った時の木のやわらかさ、姉の肩のソバカスや、兄のふわふわとした巻き毛やこっそり吸う煙草の匂い、庭の空気や体温が行間からただよってくる。間違いなくストリーテラーでありながら、多彩なセンテンスから紡がれた文章力に、小さな国オランダの作家の才能に感嘆させられた。6歳で字を覚えて以来、物語の魅力にとりつかれ、作家以外の職業はありえなかったドレスタインと、同じく作家を志ながらも自殺した妹。本来、小説というのは、作家以外の何者にもなれない人種が生きることの意味を見出すための作業の結露なのかもしれない。つい最近、芥川賞と直木賞の受賞者が発表されたが、読書好きを自他ともに認める私ですら、あまり関心がもてない。本書を送ってくれた友人が、「日本の小説はもう殆ど読まない。近頃読むのは、岩波文庫の外国もの」と言っていた理由がようやくのみこめたような気がする。

善良な人々が窮地に追い込まれて最も許さぬ行為に走る人間の過程を理解したいという著者の動機からはじまった物語だが、オランダ郊外の幸福な家族を襲った悲劇は、日本では悲しいことに昔からよくある事件でもある。

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2008.01.22 Tuesday

ヴァイオリン界の重鎮去る

【江藤俊哉氏死去=戦後日本を代表するバイオリニスト】
日本人音楽家として戦後初めて国際舞台で活躍し、音楽教育にも尽くしたバイオリニストの江藤俊哉(えとう・としや)氏が22日午前6時36分、死去した。80歳だった。東京都出身。葬儀は近親者で行う。
4歳でバイオリンを始め、12歳で第8回音楽コンクール優勝・文部大臣賞、さらにNHK交響楽団と共演するなど天才ぶりを発揮。東京音楽学校(現東京芸大)卒業後、戦後初の音楽留学生として渡米し、エフレム・ジンバリストに師事した。1951年にはカーネギーホールでリサイタルを開くなど、米国を中心に演奏活動を行った。
61年に帰国、スケールの大きさと包容力を感じさせる演奏で人気を博す一方、後進の育成にも情熱を傾け、堀米ゆず子や千住真理子らを育てた。また、自らタクトも振り、オーケストラとアンサンブルにも深い理解を示した。(2008/01/22時事通信社 )
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私は訃報に関するブログをめったに書かないのだが、江藤俊哉氏は特別。
各紙の報道を読んでいて、初めて知ったのだが、江藤さんは例の「違いがわかる男」としてコーヒーのCMに出演されていたそうだ。享年80歳ということから、随分前のことなのだろう。スポーツ新聞の見出しになると【「違いのわかる男」江藤俊哉氏死去】になるらしい。世間一般の認識レベルというのは、こんなものだろう。天才ヴァイオリニストとしてデビューした時の音を知っている者は、もうあまりいない。
しかし、後年ご自身はステージで華やかなライトをあびることはなかったが、演奏活動で活躍されている多くのヴァイオリニストを育てた。日本の音楽教育、特にヴァイオリン教育に関しては、この方の名前は大きい。
江藤氏は、戦後、ヴァイオリン教育に力をそそぎ、掘米ゆず子さんがエリザベート国際コンクールで優勝した時は、海外の留学の経験がなくとも自前で世界に通用する音楽家を育てられるという意味でも、当時は彼女の受賞は画期的であり、朗報を祝ったと聞く。
掘米さんだけでなく、国際的なコンクールで賞をとった門下生は、加藤 知子さん、諏訪内晶子さん、戸田弥生さん、清水直子さん(現在はVa)、それにベルリンフィルでコンサートマスターとして重責を担う安永徹さん、新日本フィルのコンサートマスター・豊島 泰嗣さん、東京都響の矢部 達哉さん、近頃帽子を被って路線変更をされたような古澤巌さん、川本 嘉子さん(Va)、川畠 成道さん・・・国内外で活躍されているヴァイオリニストは、推挙にいとまない。桐朋音大の卒業生を含めて、江藤氏に師事した方はとんでもない数にのぼるだろう。
戦後、日本経済の発展と音楽教育にかける親の熱意と良い楽器という音楽家の育成の条件も整備されたが、やはりヴァイオリン族の発展の最大の功績者のひとりは江藤俊哉さんだろう。
逆に言えば、ジュリアード音楽院のドレシー・デュレイ氏のように名教師で力のある教師には、それだけ優秀な生徒が集まるということか。
若手の庄司さやかさんや神尾真由子さんが原田幸一郎氏に師事していることから、ひとつの時代が終わったともいえる。
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2008.01.21 Monday

「現代のガリレオ」情熱大陸より

冬の凍てついた空にまたたく星を眺めながら、悠久なる宇宙の果てを考えるのも、日ごろの時間に追われる生活のストレス解消になる。毎日宇宙のことを考えることをお仕事にしているちょっとうらやましいような理論天文学者、小久保英一郎氏が昨夜の「情熱大陸」の主人公。
タイトルは、「現代のガリレオ」。

番組では、甘めのルックスの現代のガリレオの業績と講演、趣味に興じる私生活を紹介していた。
がり小久保さんは、自分で制作したスーパー・コンピューターを駆使して、データを動かして惑星の成り立ちをシュミレーションしている。自称「地球をつくる実験」である。画面上には、散らばった塵が途方もない年月を経て、太陽系の惑星に集約していく映像が紹介されていた。それによると、月は46億年前にたった一ヶ月で誕生したそうだ。小久保理論の画期的な点は、数式をシュミレーションして惑星形成の理論を説得力もつ実験結果で証明したところにあるように感じた。テレビで観ても、単なるビジュアル的なCGではなく、凡人には理解を超える理論の裏付けを感じさせる。小久保理論は、学会でホームランを飛ばして、一躍その名前を世界に知らししめた。今は、さらに自説の理論の精度をさらに高めている研究をしているようだ。

小久保英一郎さんは、宮城県の仙台一高出身。(仙台出身と聞くとだいたい一高か、最近は二高だしな。)1997年に東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了して、現在は国立天文台理論研究部の研究員。主な研究分野は惑星系形成論である。

こどもの頃になりたかったのは、冒険家。高校時代は山岳部で、大学からはスキューバー・ダイビングに凝っていて、今でもよくもぐりに行く。伊豆の海をもぐりふわふわと浮遊しながらボンベにつながった小久保さんと彼とたわむれる魚たちを見ていて、海の中は地球外惑星のイメージに近いと感じた。映画『ワイルド・ブルー・ヨンダー』で有人探査船「ガリレオ」がたどりついた惑星の映像が、海の中で撮影されていたことを思い出す。海の中と宇宙、スェットスーツを着ているか、宇宙服を着ているか、意外にもリンクしている。象牙の塔にこもり、難解な数式ばかりを相手にしている研究者とはイメージが違っていた。三鷹市にある国立天文台にも、外国製の高価な自転車で通勤。理系の研究者にありがちな、食事にはこだわらないようだが、凝り性でもある。幸か不幸か(←番組での言葉)いまだに独身。研究室の本棚にあったB級の宇宙人をテーマにしたサブ・カルチャーの本を撮影されると「やばい」と言っている素顔は、研究内容に比較して普通のちょっと年のいった青年だった。独身のせいか、39歳という年齢のわりには、ずっと若々しい雰囲気がある。

がりそんな元探検家志望の小久保さんの持論が、探検とは知的情熱の肉体的表現である。まず最初に結果を想像してシュミレーションするばかりではなく、とりあえずやってみて発見する喜びもあるそうだ。そんなことを語る講演会のもようを紹介していたが、これが大変わかりやすい。地球の自転を、その角度とほぼ24時間かけて一回転することを、日本のように四季があり美しいことや、回転速度がもたらす安定や自然の恵みを説明していた。
最後に受講者からの質問に対する回答に、豊かな自然に恵まれた田舎で野山をかけまわって育ったという現代のガリレオらしさを感じさせた。
「宇宙人はいるか」宇宙には、1億個の惑星があるそうだ。

小久保氏の信条として、地球の誕生は奇跡ではなく、僕たちはなにも特別な存在ではない。だから宇宙人はどこかにいる。
この辺は、サイエンスというよりも個々人の世界観に近いのだろう。近年、宇宙理論学者の間では、逆に地球のように高等生物が発生できる環境にある惑星が誕生するには、多くの偶然と幸運が重なった奇跡のようなことから、人間のような知的生命体は存在しないのではないか、だから人間の存在には意味があるのではないか、と模索する流れもある。現代のガリレオと特別な存在の研究者としてマスコミでも放映される小久保氏が、「我々は特別な存在ではない」という信念をもっていることも興味深かった。

*ご参考→対談(前半)(後半)


2008.01.20 Sunday

『レンブラントの夜警』

れんエルミタージュ美術館の254室は、「レンブラントの間」と呼ばれている。部屋に入って真っ先に招かれるのが、1636年に制作された「ダナエ」である。
レンブラントが描く前にも、後世に名声を残す画家のモチーフに何度もとりあげられた神話の「ダナエ」。しかし、これまでの画家がダナエを、その表情、肌の色、姿勢、肉体のラインを現実感の伴わない彫刻のように完璧に描いていることに比較して、彼は生身の自然な人間らしさを描いている。あまりにも複雑で、心理的、奥の深い彼の絵画は、同時代の人々には理解できなかった。愛妻のサスキアの死後制作された「ダナエ」には、当時の画家と世間の対立がしのばれる。
昨秋、4日間通ったエルミタージュ美術館でもっとも感銘を受けた画家は、レンブラント・ファン・レイン(Rembrand van Rijn)だった。それでは、私はレンブラントを好きだったのだろうか。あの最も有名な「夜警」の不気味さと緊迫感が恐ろしく、嫌いな画家だった。けれども、彼抜きには近代絵画を語れないのだ。
『レンブラントの夜警』は、美術学校出身の画家でもあるピーター・グリーナウェイ監督が、筆のタッチ、色、即興性など後期印象派にも影響を与えたオランダ絵画を代表するレンブラントの名画「夜警」にまつわる謎と波乱に富んだ半生に、監督自身の考察を描いた”物語”である。

粉屋の息子、レンブラントは30代で肖像画家として大成功した。1634年にマネージャーとして有能なサスキアと”逆玉婚”をして、社会的な地位、名声、富、ひとり息子ももうけ、ゆるぎない地位と栄華を築いた。そこへまいこんだのが、アムステルダムの市警団からの集団肖像画の依頼である。当時、集団の肖像を描く場合は、依頼主の賃金にみあうように平等に並べて顔と姿を描くことは、ビジネスの常識だった。これまでも、依頼主の隠された内面を描いてしまったために訴訟騒ぎを起こしていた彼にとって、ただ顔を並べるだけの集団肖像画は、気がすすまない。しかし、生まれてくるこどもの経済的安定のため、と愛妻に説得されて筆をすすめるレンブラント。その愛妻も産後の肥立ちが悪く亡くなり、絵画が完成した1642年を境に、レンブラントは一転、転落の人生を歩んでいく。いったい画家に何があったのか。そしてこの名作「夜警」にこめられた謎とは。。。



れん2グリーナウェイ監督は、独創的な監督である。当時のオランダや画家レンブラントの人生と人間性をあまさず研究して、そのうえに「夜警」に独自の解釈をほどこした冴えも見せつけてくれる。彼の頭の中にある名画の50以上もの謎が、パズルのピースのように組み合わせて描かれたもうひとつの名作”レンブラントの夜警”に、私は心底感嘆とさせられた。冒頭から、弱視だった右目を終生気に病んでいたレンブラントの悪夢が、臨場感をもってせまってくるかと思うと、暗闇を背景にして、召使によって次々と開けられる窓から溢れる光を受け、レンブラントの色の解釈がはじまる最初の場面。高い寝台から転げ落ち、太って醜い裸体をさらして弱々しく泣くレンブラントの痛ましくも孤独な魂。このあたりの前衛劇のような舞台的な趣向は、知的に富んで一瞬も気が許されない。
名誉市民である依頼主に、罵声を浴びせ、陰謀、性的虐待、殺人を次々と汚い言葉で告発していくレンブラント像に、最初は違和感すら感じたが、欧州初の共和国の女性は男性と対等な関係だったことを考えると、博愛主義者でフツーのオジサンという監督の考える巨匠の人間性もまっとうかもしれない。だからこそ、妻を失った後に悲しみをまぎらわせるかのように召使との偽りの性的探求にはしり、最後に20歳も年下の若い召使と生涯をともにしたのだろう。

レンブラント役のマーティン・フリーマンの舞台人のようなセリフ回しと演技、「夜警」の中の登場人物を次々と暗闇からひきづりだすかのようなジョバンニ・ソリマの音楽。素数のように完璧な構図が光によって浮かび、また闇に沈んでいく映像の美しさ。ただただ、監督の刺激的な挑発のわなにはまっていく。「夜警」の中で画家自身を除いて、私達をまっすぐに見つめている人物がいる。審美家でもあった作家のヤコブ・デ・ロイだ。彼は、最後にレンブラントを告発する。
「お前の絵の中にいるのはすべて俳優。ひとりを除いて。お前自身の自画像だ。これは、本質的に絵ではない。演劇なんだよ!」
映画の中では、野外の劇場で演劇に心を奪われるレンブラントの姿が何度も描かれている。光と闇を駆使して登場人物の内面や関係性まで表現した絵に、監督は映画に近いものを感じている。
「彼が現代に生きていたら、絶対映画監督になっていた」
そう語るグリーナウェイ自身、画家でありながら、映画をつくっている。そんな監督が、映画の最も重要なテーマを質問された時の回答がすこぶる明解だ。

”セックスと死”以外に何があると言うのだろうか
思わずひざをたたいてうなづいてしまった。本作品も私の選択にかなったR−15。



れん2さて、「夜警」に不快感を感じる理由のひとつにあるのが、中央に位置するふたりの少女だ。映画では彼女達にも、監督流のグロテスクでいびつな物語が用意されている。一般的には、この少女の面差しが「女神フローラに変装した妻 サスキアの肖像」に似ているからだろうか、少女=サスキア説が有力だそうが、私の印象は違う。そもそも少女には見えない。脳下垂体に異常がある小人の”老婆”に見える。しかし、彼女こそ「夜警」の精神を象徴していると言われている。
エルミタージュ美術館の「レンブラントの間」で最後に飾られているのは「放蕩息子の帰還」だ。世間の流行の波に背を向けて破産宣告を受け、富も名誉も家族も亡くした晩年のレンブラントの愛と苦悩、そして寛容の感情が、この傑作の筆の息づかいに静かに、そして厳かに溢れている。「夜警」からレンブラントがたどりついた終着駅に、私はしばし時の流れも忘れて佇むばかりだった。


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2008.01.18 Friday

「アメリカン・コミュニティ」渡辺靖著

あめ髪の色と同じ、シルバーのポンポンをもち、真紅の超ミニ・スカから伸びた脚が、なんとなくこころもとない。
それもそうだ、1992年に結成されたチアリーディングチーム「ジャージ・ポムズ」のメンバー32人の平均年齢は70歳!最高齢は、83歳。元気なおばあちゃま軍団は、地元の劇場でその艶やかな姿と妙技の成果を披露するだけでなく、大きなイベントにもちゃんと招待されている。2年前には、ディズニーランドの舞台にもたち、ポンポンとともにはじけまくった。

このチームの本拠地は、米アリゾナ州サンシティ・ウエスト。ここはリタイヤした55歳以上の人だけが住める高齢者専用のコミュニティで、現在の人口は約3万1000人。米国では、日本のようにまず行政ありきではなく、このような住民指導で町が形成されることが法的にも可能だ。米国人の複雑で多様な事情を映し出したかのような「コミュニティ」。このようなコミュニティは、モザイクのように点々と広がっている。そこは米国にありながら、まるで別世界の独立したひとつの国のようでもある。

文化人類学者の著者は、米国の個人と国家の論理、ローカリズムとグローバル化、伝統と革新、保守とリベラルの論理を考えるために、こうした倫理の交差点であるネットワークのひとつ、米国人が最も大切にしている「コミュニティ」をフィールドワークスした成果が本書である。

著者が訪れたコミュニティは、9ヶ所。
進化論を否定し、アーミッシュのような原理主義的な信仰をもちながら、グロバリゼーション化によって玩具や家具のビジネスで成功して、彼らのコミュニティを維持しているのは、信仰よりもビジネス(工場)と批評されるブルダホフ。貧困と荒廃していた町が再生して希望のストリートに変貌してソーシャル・キャピタルが民主主義を支えている概念から論じた「孤独なボウリング」の著者、ロバート・パットナムもうならせたダドリー・ストリート。成功した富裕層が自己充足的な生活空間の確保のために築く要塞都市、ゲーテッド・コミュニティや、表紙にあるような宗教右派メガチャーチが司るコミュニティなど。裏表紙の箱庭のような人工的な街は、ニュー・アーバニズムの手法を取り入れたディズニーランドが創った町「セレブレーション・フロリダ」である。ここでは多くのクラブ活動やボランティア活動で活気があり、秋には落ち葉、冬には雪を人工的に降らせたりもする。大変美しく素晴らしい街である。けれども、私にはなんだか映画『トゥルーマン・ショー』の舞台の町を彷彿させる。勿論、住民の8割以上が共和党支持者で殆ど白人である。日本人の感覚からすればとても住めないような街から、典型的なアメリカと評される町、刑務所のある町まで、実にその「コミュニティ」は多種多様である。

その”多様性”こそが、単なる社会構成の多様性を指すだけでなく、定義づけを拒むカウンター・ディスコース(対抗言説)が存在することに米国らしさの特徴がある。また、多様性は米国的な自由を生み、民主主義の思想を発展させてきたと私は思う。おりしも大統領選挙運動が白熱しているが、共和党員の3分の1は人工妊娠中絶に賛成して、民主党員の3分の1が反対している。さらに共和党員の3分の1は、銃規制に賛成している。保守かリベラルかの二色では描ききれないのが米国である。そして多様性を背骨の如き貫く存在が、資本主義や市場主義という現実。米国を論じる際に必ず引用される150年以上も前のフランスの思想家、アレクシ・ド・トクヴィルの”地位の平等という基本的事実を再発見した”と記された米国。著者が9つのコミュニティを訪問した感じたのは、地位の平等よりもむしろ資本主義や市場主義の力だった。ロバート・パットナムの指摘したノスタルジックなソーシャル・キャピタルの低減よりも、グローバル化した市場経済の波にソーシャル・キャピタルもプロセスでのみこまれているということだろうか。
気鋭の学者である著者の本書は、現在進行形の米国を語り、幾分感傷も交えて米国を感じる。世界に嫌われても、やはりこの国はおもしろい。


さミニのおばあちゃま達は溌剌としていて、どのメンバーも年齢よりも若く見えるそうだ。サンシティ・コミュニティには、住民用のスポーツや文化講座は120以上もある。初等教育にお金がかからないため、住民税は安い。年齢を意識せずに真紅の超ミニをはいて、女であることを死ぬまで楽しめる街。
私もおばあちゃんになったら、こんな街に住みたいと思うのだろうか。

■アーカイブ
「孤独なボウリング」ロバート・D・パットナム著

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2008.01.14 Monday

コルソ・ウィーン 〜華やかなるモーツァルトとシュトラウス〜  

コルソ所謂カイシャにオツトメなるものをするようになった時の、私の密やかなる野望?は、定年退職もしくはやめてやるぅうう〜と退職したら退職金(・・・いくらもらえるのだーっ?)で、ウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートに行くことだった。「おこた」でのだめのように丸くなり、にぎやかで繊細さに欠ける家族たちと蜜柑を齧りながら、NHKテレビの恒例の衛星中継の、テレビに映り込んだ着物をお召しになったおばさまたちのだるまのような体型を眺めながら、乙女は毎年誓った。
「絶対にウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートに行くぞーっ!!」
あの頃、、、チケット代はJTB価格で16万円だったような気がする。そもそも、定期会員でもないフリーの観光客が晴れのニュー・イヤー・コンサートにもぐりこもうという事が土台無理な話なので、法外なチケット代も致し方がないと思っていたのだが、その後とんでもなく値上がりをしてしまい、ばかばかしくなってしまった。だったら、ジルベスター・コンサートにしよう!と切り替えたのだが、それもとんでもない金額なのさ・・・。
かくして、乙女の老後の唯一の夢は打ち砕かれた。

ウィーン・フィルハーモニーは、特殊な団体で、ご存知のとおりウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーからなる(つい最近までは世界唯一)「自主運営団体」である。今年は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が協会を組織して100周年という記念すべき年である。コルソ・ウィーンは、そのウィーン・フィルが公認団体として認め、ウィーン・フィルやウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーを中心にウィーンで活躍している音楽家23名が集結した室内オーケストラである。

前半は、オール・モーツァルト・プログラムで華やかであかるい曲が続く。最初のセレナーデは、11人構成。丁寧な音づくりながらも、格別宣伝文句にあるウィーンの馥郁たる香りはしない。ドイツではない、ウィーンなんだから、と、どうせだったら正調でいくよりも、もう少し洒脱な遊び心があってもよいかも、というのはウィーンという名前に対する過剰な期待だろうか。ホルン協奏曲の演奏者は、若い青年だった。経験を積むともっとのびやかな音がでると、今後の成長を期待したい、というところだろうか。

後半のシュトラウス、これはさすがにウィーン独特のリズムである。金色の天上もない、舞台に赤い花も飾られていない。だって、ここは新宿だから・・・、けれども、ウィーンの音にはかわりはない、と思う。(涙)次々と音がのってくる。コンサート・マスターのヴァイオリン独奏が、ポルタメントを多用した甘い調べにのって、ホールのすみずみまで優雅につややかに響く。指揮も演奏も芸達者ぶりを少しずつ発揮して、聴いているうちにいつのまにか笑顔になっている。
最高に楽しかったのは、アンコールで披露された「レンツ・サーカスの思い出」である。小さめの打楽器シロフォンの超絶技巧の演奏は、まさに見せる、聴かせる、魅せる演奏と音楽だった。遠目では、そのすばやい腕の運動が、くるみ割人形を連想させた。
最後のラデツキー行進曲は、指揮者が舞台袖に帰りかけた頃に、オーケストラが戻すかのように音楽をはじめるというチャーミングな演出ぶり。ニュー・イヤー・コンサート恒例のこの曲に寄せる観客の拍手のタイミングの息がぴったりあっているところをみると、みなさんよくご存知と同好の士を感じる。そういえば、ヴィオラ奏者に日本人と思われる女性がいましたね。

このような曲の構成、演奏会を考えると、所詮本場ニュー・イヤー・コンサートのアジア圏のミニュチュア版かとさみしい気持ちにもなりかけるが、新年のすがすがしい気持ちにふさわしい演奏会だったことでよしとしよう。とにかく楽しかった。嗚呼、ウィーンのニュー・イヤー・コンサートに一度はやっぱり行きたいっ!!


−−−−−08/1/14 コルソ・ウィーン〜華やかなるモーツァルトとシュトラウス〜  オペラ・シティ−−−−−−−

指揮:アルフォンス・エガー
演奏:コルソ・ウィーン

一部(モーツァルトの部)
セレナード第6番ニ長調K.239「セレナータ・ノットゥルナ」
ホルン協奏曲第4番変ホ長調K.495
セレナード第13番ト長調K.525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」

第二部(シュトラウスの部)
モーツァルト党op.196
エルンストの思い出、またはヴェネツィアのカーニバルop.126
ヴェルサイユのギャロットop.107
パリの女op.238
皇帝円舞曲op.437
とんぼop.204
トリッチ・トラッチ・ポルカop.214

■アンコール
レンツ・サーカスの思い出
美しく青きドナウ
レンツ・サーカスの思い出(←アンコールのアンコール)
ラデツキー行進曲

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2008.01.13 Sunday

「社長の椅子が泣いている」加藤仁著

社長関東圏に生息している音楽好きの同好の士で、銀座のYAMAHAのお世話になったことのない方はまずいないだろう。15年ほど前は、全日本学生音楽コンクールの予選が8階のヤマハホールで開催されていたし、また、地下1階にある楽譜と書籍売場は充実していてなにかと重宝している。店員さんの物腰と接客は、さすがに”YAMAHA”と感心するくらい一流である。

そのヤマハ(当時は日本楽器製造)に、46歳の若さでなんの学閥も門閥もなく社長に抜擢されたのが、河島博氏だった。しかし、社長に就任して、またたくまに創業以来最高の売上高と経常利益を樹立しながらも、愚息を社長にしたい代表権のある会長にしりぞいた元ワンマン社長の思惑から突然解雇され、ダイエーに転じた。
本書は、有能なビスネスマン、優れた経営者としての河島氏、河島氏の仕事のスタイルと哲学、そして大企業のワンマン社長にきられていった人々の群像を交えて、戦後の日本経済の復興とその後の停滞を象徴する企業の物語にもなっている。

1947年生まれのノン・フィクション作家、加藤仁氏がひとりのサラリーマンとその仕事をじっくり追いながら、日本の企業の叙事詩のような長編を書きたいという長年の夢を叶えるべく白羽の矢をたてのがこの河島氏だった。仕事における独創性やダイナミズムを遺憾なく発揮し、日経新聞の「私の履歴書」に連載されるほどの成功した誰もが知っている大物勝者ではなく、また誰もが共感できる人生の転変があり、なによりも人間的にも魅力のある人物。著者は、20数年前にたった一度だけインタビューしたことのある河島氏を選択した。サラリーマン社長だった河島氏を主軸にしたことで、ここで自ずと日本的な経営風土もうかびあがる。河島氏を選んだ時点で、著者は作品の高く深い魅力をほぼ手中にしたと言ったら、過言だろうか。
そんな著者の申し出を河島氏は固辞した。その理由のひとつに、封印しておきたい事実があるということだった。
けれども、その河島氏の美学を損ねることなく、封印してきた事実をきっちりと書いたところに、決して名文家ではない著者の本書の真価がある。

「ビシネスの神様」
河島氏の仕事での哲学の中心にあったのは、この言葉である。
新入社員時代に、上司の言いつけを守りアンフェアなことをした時に、ライバルの課の元軍曹に激しく叱責された時の経験から、まとめあげた施策が合理性と整合性をそなえ、いかなる角度から見てもビジネス倫理や道徳律から逸脱しない、”ビジネスの神様”からみられても恥ずかしくない仕事を終生心がけた。

「情熱」
常にエネルギッシュに、24時間仕事のことを考えた人である。かって高度成長期を支えてきた猛烈サラリーマン像は、現代では否定されるだろう。しかし、こうしたサラリーマンたちの仕事にかける累々とした情熱と働きを土台として、今日の豊かな生活と繁栄がある。また彼らは、仕事を通して消費者、お客、従業員を経費ではなく資産として考える発想、そして家族を大切にしてきた。最近の次々とあかるみにでるいい加減な仕事ぶりと、公私混同の乱脈経営ぶりとは雲泥の差である。

「明確な経営ヴィジョン」
カリスマ経営者、ダイエーの中内功氏に副社長として迎えられて再生をかけた時、ダイエーの現状を難破船にたとえてわかりやすく説得した。常に、長期、中期の経営の展望を会議やミーティング、従業員にわかりやすく立体的に説明してきたのが河島氏だった。だから、部下は適当な回答は許されない。何故、どうして、部下には常に真剣勝負を求めた。

そんな河島イズムは、従業員の意識とモチベーションを変革し、次々と結果を出していった。しかし、最初に奉公した日本楽器製造では、源さまこと川上源一氏から川上ジュニアを後継者にするために斬られ、三顧の礼をもって迎えられたダイエーでも、後継ぎの潤氏に席を譲り、結局リッカーの再生社長として転籍していった。くしくも、兄の喜好氏が社長を勤めていたヤマハのライバル会社、本田技研工業は、創業者の本田宗一郎氏が2世に後を継がせることなく透明で公正な人事を行っていたことで知られている。どんなに無念とくやしさがあったことだろうか。しかし、いわれのない誹謗中傷にまみれても、すべてを沈黙で通した。

本書を簡単な書評で語ることは難しい。サラリーマンで生きる人、また起業した方や経営者も含めて、本書を手にとって、河島イズムを体験してほしい。
入社試験の面接で、源一氏の父であった当時の社長、川上嘉市氏を前に「人の三倍働きます」と青年は答えて、なんとか就職することができた。ようやく就職できた新入社員時代、バイクで東京藝術大学を訪れた時、顔見知りの学生、大賀典雄に「銀座の店に帰るのか。だったら乗せて行ってくれ」
そう声をかけられて、その後日本を代表する企業の社長になるふたりは、あいのりをしてバイクで銀座通りを走って行った。夕暮れの金色の光をあびたふたりの若き日の姿が、見えるようだ。


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