クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録
旧館の「千の天使がバスケットボールする」http://blog.goo.ne.jp/konstanze/
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2007.08.31 Friday
ある中年の大工さんが不運にも仕事中に二本の指を切断してしまった。健康保険のない彼は、医師から素晴らしい選択をせまられた。
「中指をつなげるなら6万ドル、薬指なら1.2万ドル」
この大工さんはロマンチストだったので、薬指を選択。お別れした中指の方は、新居にお引越し。サヨナラ・・・、、、失われた中指の移転先はどこかって?そこは、ゴミ集積所だった。
これは、米国のマイケル・ムーア監督の新作映画『シッコ』の笑える一場面である。
先進国で唯一、国民保険制度のない米国では、65歳以上の高齢者向け(メディケア)と低所得者向け(メディケイド)の公的医療保険制度があるが、現在6人に一人、約5000万の人々が無保険状態になっている。その一方、医療費は高騰し、約2兆ドルにまで達している。とんでもない金額を請求されたり、診療拒否されたり、推定500万世帯が医療費を払えず自己破産。ワシントン州の店員、19歳のクリスティン・アレンさんは、高熱で緊急入院をし脾臓肥大と診断されたが、無保険である彼女の治療を病院は拒否。その後、2時間半の診療(治療ではない)を受けた別の病院で、約84万円も請求された。脾臓だけでなく、返済できない借金の利息までおおきくなるばかり。米国では、とっくに医療制度は破綻しているのである。
米国の医療技術は、世界最先端で最高技術である。しかし、その最先端の技術を支えているのが、皮肉にも無保険だったりする底辺に生きる人々の存在だ。
格差社会は、命の重さにも格差をもたらしていた。米国は、来年の大統領選に向けてヒートアップしている。その大統領選で争点となると見られているのが、医療保険制度である。
民主党のバラク・オバマ上院議員は政府による国民の保険加入支援、ジョン・エドワード元上院議員も全従業員の保険料を企業に払わせる改革案を提唱し、最有力候補のヒラリー・クリントン上院議員は、9月に新しい案を公表する予定である。
しかし、共和党の候補者にとっては民主党の「皆保険制度」は赤色と感じ、「自己責任」と「市場原理」を重視して、税額控除による保険加入促進にとどまっている。
市場原理主義は、すなわち医療業界、保険業界、製薬業界の利益至上主義であり、患者、病人、国民の命は、リッチな業界にゆだねられている。またこういった業界から高額な政治献金を受け取っている議員たちが、業界の発展と繁栄にも見事に貢献している。かくして保険会社、製薬会社の近代的で巨大なビル、役員のぶあつい財布に貢献しているのが、この構造から落ちこぼれた一般市民の損なわれた健康と思わぬ怪我により痛んだふところである。
巨漢のマイケル・ムーア監督が医療保険問題にとりくんでいるという情報をキャッチするやいなや、医療業界はマイケルのそっくりさんを起用した「マイケル・ムーア対策マニュアル」DVDを配布したり、「野球帽を被った薄汚い男に気をつけろ」というメールを流したりと、戦々恐々だったそうだ。
ある男性など、愛する娘の片耳の手術費(片耳の手術費の支払を保険会社は”実験的治療”として拒否)を請求するため、保険会社にムーア監督に報告すると訴えたら、速攻で支払が認められた。
(この項つづく)
■アーカイブ
・米医療保険制度を痛烈批判 ムーア監督の新作が評判
2007.08.30 Thursday
女性の胸の大きさと快楽指数の関数で論議をよんでいるペトロニウスさまの『物語三昧』で気になったコメントに
「> 女装の男性や男装の女性という変身願望は、人の物語欲を刺激して止まないようです。
これはありますよね、まさに『ベルばら』のオスカルが、これにあたりますし。」
というのを見かけた。地下鉄の駅で、よく見かける宝塚のポスターの男装の麗人がまさにそれであろう。勿論、漫画の『ベルばら』は全巻読破している。けれども、個人的にはオスカルさまにはちーーっとも萌えない。だって、所詮オンナでしょ。だから、たとえどんなに麗しくとも、男装した女性があそこまで女性ファンを獲得するのは、私にとっては長年不可解な現象なのである。しかも、最近従来だったらヅカファンでおさまっていた層のテリトリーが広がり、指揮者の西本智実さんの追いかけ隊にまで及んでいる。女性の指揮者はとても少ない。男性優位の保守的な指揮者の世界だからだろうか、女性指揮者は一様に燕尾服を着て女性性を封印しているように見えるのだが、チャイコフスキーのコンサートで至近距離で見かけた西本さんは、まさに男装の麗人!
顔立ちも宝塚の男役よりも端正で、背も高く、髪をかきあげちゃったりなんかして、颯爽とした指揮のふりかたものだめの千秋以上に絵になっていた。なるほど、ここにきてようやく私も女性ファンが、男装の麗人にサインを求めて行列をつくるのも納得。
女性が男装の麗人に胸をときめかすのは、何故か。オスカルさまにせよ、西本さんにせよ、何故あんなに女性に人気があるのか。
彼女たちは女性なので、たとえどんなに憧れても、どんなに近づいても永遠に”結ばれること”はない。そういう意味で、究極のプラトニック・ラブの王道であろう。しかも、独身を通せば誰のものにもならないので、それはいつまでも抽象的にはみんなの共有財産であり、まただから自分のものともいえる。そして、オスカルさまは、髭やすね毛なんかとんでもないっ、あくまでもお肌は美しく、色白を通す。人形の美しさに近い。
・・・でも、これってあの上杉謙信役を好演しているGacktさまを彷彿させるではないか。
Gacktさんは、本当に色白で美肌、肉体をストイックまでに鍛えて体脂肪率10%以下を誇るが、決してマッチョな肉体にせず、鎖骨が美しく見えるような華奢で中性的なラインにこだわる。いつも化粧をして、眉のカタチは並の女性以上に細く整えて完璧。しかも、本来は体毛が濃いタイプなのだが、エステに通って髭はなく、すね毛などないし、見たくもない!!一年365日、男の体臭を感じさせず、シャネルのエゴイストをたっぷりふりかけて指輪とネックレスを飾る。マネキンのような男なのだ。おっと、それでは西本さんのような男装の麗人とGacktさんは、リンクしているように思われる。
つまり、男性か女性かの性の核の違いをのぞけば、容姿端麗、眉目秀麗、笑顔よりもストイックで真剣な表情がいずれもよく似合う。Gacktファンとしては、生々しい男性像とはかけ離れた理想的な憧れの象徴であり、そのような対象に憧れる行為を通じていつまでも成熟しないがピュアな乙女のままで安住できることの喜び。Gacktさんの前では、永遠の16歳を演じられる自分って。。。
もしかしたらこれは、日本だけの現象かもしれない。男装の女性の変人願望というよりも、日本女性の繊細で純粋なプラトニック嗜好のあらわれとも言えなくもない。結局、日本は幼稚な文化なんだろう。けれども、それもそんなに悪くないと考えている。
2007.08.27 Monday
村上被告判決理由要旨 インサイダー取引事件
東京地裁が19日、村上世彰被告らに言い渡した判決理由の要旨は次の通り。
【証拠の信用性】
村上ファンドおよびライブドア(LD)の各社内、両社間、両社と外部との間で交わされた膨大なメール、株式の取引記録などさまざまな客観証拠が存在し、これらは事実認定の基礎となる。宮内亮治元LD取締役らの証言の信用性は高い。被告の自白調書は信用性を肯定できるが、公判供述は不自然。
被告がニッポン放送株の大量取得をLD側に勧めた2004年9月15日以後、LDの意思決定機関である堀江貴文前社長、宮内元取締役は買収を準備。同年11月8日の会議でLD側から同ファンド側に大量取得の意思表明があったのは明らかで、買い付け状況からLDの大量取得情報が同ファンド側に伝達されていたと認められ、大量取得の決定を会議で聞かされた被告にはインサイダー取引の故意がある。
被告は「堀江前社長からニッポン放送の経営権を取りたいとの話を聞いたが本気とは到底思えず、インサイダー情報を聞いた認識はなかった」と供述するが、被告にはLDが大量取得実現を意図していたとの認識も実現可能性の認識もあった。
ニッポン放送株の売買、とりわけ同年10月に被告が積極的に買い付けるよう指示後の売買は、そのすべてが被告がMACアセットマネジメントの業務執行に関して行ったものと認められ、被告には、インサイダー取引の故意が認められる。
ニッポン放送に関する複雑かつ重層的な戦略の中で、LDによる大量取得に対する動きも重要な考慮要素として位置付けられていた以上、その後の買い付けは、ファンドの利益を企ててなされたものと認められる。
被告は巨額の資金を集めるファンドを支配しており、このような立場を利用して高値で売り抜けることを企て、それを確実にするためにLDのインサイダー情報を利用しようとした動機には強い利欲性が認められ、強い非難に値する。
【態様について】
被告自らLDを勧誘してその気にさせ、回答としてインサイダー情報を受けた点で、ニッポン放送株を買い集めることを偶然「聞いちゃった」のではなく、「言わせた」といえる。その結果、LDが同年11月8日の会議前の10月20日には、ほぼ確実に決定したことを知り、情報を自らの買い付けに利用。同ファンドが購入先を紹介するため、「決定」の実行がいつなのかも正確に把握できた。
巨額の資金で自らインサイダー状況を作り出し、豊富な資金でさらに買い増しを続けるなど、一般投資家が模倣できない、特別な地位を利用した犯罪でもあった。
本件は、被告がファンドマネジャーと「物言う株主」の活動を1人で行うなど同ファンドの組織上の構造的欠陥に由来し、偶発ではなく必然。
【悪質な情状】
まず保有するニッポン放送株の半分をLDに高値で引き取らせて利益を確定。次に、LDが大量買い付けを公表して株価が高騰した後、残りの大部分を売却し再び利益を得た。
フジテレビから見れば、株式公開買い付け(TOB)実施を働き掛けた被告が応じないのは裏切り。LDから見ても、土壇場でファンド保有株を高値で引き受けさせられ、残りの株は売り抜けられた。被告の「ファンドなのだから、安ければ買うし、高ければ売る」という徹底した利益至上主義には、りつぜんとする。不公正な方法で類例をみない巨額の利益を得たことは、証券市場の信頼を著しく損なった。
【情状】被告は「もの言う株主」として社会の耳目を集める一方、裏ではこのような罪を犯していた。本件の利益はフジテレビとLDとのニッポン放送の支配権をめぐる争いから「漁夫の利を得た」ものだ。一般投資家や同ファンドに投資した者、さらには資本市場など社会に与えた影響も大きい。ファンドからの払い戻し等を通じた個人的な利得のほか、会社への出資を通じて投資顧問料等の報酬にも反映されて巨額の利得を得た。記者会見で謝罪の意思を表明したのは当然だったが、法廷では「記者会見ではうそを言った」などと態度を一変させ、巧みに問題をすり替え、不合理な内容の弁解に終始した。利得も保持し続けており、反省は皆無。村上ファンドの主宰者、被告会社の実質的経営者としての責任は重大だ。
【酌むべき事情】買い付けはインサイダー情報でもうけようとする単純な意図ではなく、ニッポン放送株をめぐる村上ファンドの戦略の一つであり、悪質さが減殺される余地も残る。自己の利益目的だけでなく、ファンドの出資者のためでもあった。既にファンドは解散し、被告会社は実態を失った。
【結論】買い付け額は類を見ないほど巨額。ファンドマネジャーというプロによる犯罪で犯情自体も悪質だ。原状回復の手段がなく、追徴によっても犯罪による利得の一部をはく奪するにとどまる。市場の適正化のため、本罪の厳重な処罰の必要性が高まっていることなどにかんがみれば、酌むべき事情を最大限に考慮しても懲役刑の実刑が相当。法定刑の最高額の罰金刑を併科し、得られた財産の理にかなったはく奪のために、判示金額の追徴が相当である。(07/7/29共同通信)
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ご承知のとおり”もの言う株主”だった通称「村上ファンド」の代表者というよりも、もはや首謀者という言い方がふさわしいのだろうか、村上世彰氏がインサイダー取引容疑で逮捕された。東京地裁は19日、懲役2年、罰金300万円、追徴金約11億4900万円(求刑懲役3年、罰金300万円、追徴金約11億4900万円)の判決を言い渡され、こういう表現には疑問は感ずるが、灘高⇒東大⇒通産省から独立した拝金エリートは市場外に追放された。
「金儲けは、そんなに悪いことなんですか。」
勿論、金儲けが悪いことではない。その儲け方において法律違反を犯していたのであれば、この問い自体陳腐だろう。しかし、判決文要旨では、その金儲け主義に対して裁判官は”慄然とする”という言葉を放っている。そんなに金儲けは悪いのか、そんなに額に汗する仕事に比べて金融業会で運用や投資によって利益をえることは卑しい仕事なのだろうか。私も世間のみなさまにそう問いたくなる。
本書は、そんな村上世彰氏を彷彿させる身長の低いことにコンプレックスを感じているファンドの主催者、相馬顕良なる人物の滑稽な見栄と評判の悪い新興某会社社長とのオークションでの競り合いからスタートする。その相馬氏に猛攻撃でセールスをしているのが主人公の広田美潮で、彼女は外資系証券会社で資本市場部・株式チームに勤務し、顧客の企業買収やM&Aに入りこむのが仕事。美潮は業界のみならず、その敏腕で世間からも注目を集めている相馬と組んで大きなディールを手がけることに必死である。そんな彼女の野心は、両親の離婚により絶縁状態になっていた父が相馬ファンドが密かにTOBをしかけている会社の役員だったことから、決して踏み外してはいけないコンプライアンスの領域からはずれていくのだったが。。。
幸田真音氏の作品の新鮮味は、なんといっても従来は経済小説の女性といえば、主人公の男性の理想的で”古風な”補佐役をつとめていたのが、堂々と有能な男と同等に仕事がデキル女性であることだ。しかも、人柄も女らしい憂いと深みを秘め、当然容姿も端麗。まあ、これもある意味、殆どの読者が男性であることを意識して、男性受けする新しい女性像を設定しているのだろうが。しかし、本書では肝心の美潮の行動の動機に、今ひとつ掘り下げ方と共感性に薄いことと、一言で言って「それは軽薄だよ」と忠告したくなる言動に終始してしまったのが、ちょっと興ざめ。また、父親と亡くなった母、その父親が慕う会社の社長との関係も説明不足であることは否めない。惜しい。。。
読むべき部分は、前述した相馬顕良、友人の木村、アクティブ・ゲート事件、ファンドの影の首謀者だある山室和生・・・、本書はあくまでフィクションで登場する人物、実在する企業と関係ないとの断りがあるが、それはそれで現実の現在進行形の事件と照らし合わせて深読みするおもしろさはある。また、具体的なTOB、MBO、クラウンジェル、焦土作戦など、具体的な手法が目にみえてわかりやすい。ただ、いかんせん物語の盛り上がりに欠けている点からも完成度が低い。ただ聴こえてくるのは、司法の手がせまり逮捕も時間の問題となった相馬の次の声である。
「資本主義の原点は、人、物、金。市場経済は、需給と供給のバランスにつきる。そして技術立国を礼賛するばかりで、モノつくりを高潔な仕事とする風潮にあるこの国は古い価値観に固執する幼稚な国。成熟とも進歩とも無縁な人間ほど、金融は虚業だと蔑視する。だからいつまでたってもこの国は資本主義が洗練されず、経済界はただのもたれあいで、国家の金融力は育たない」
村上ファンドも、最初は怠慢な経営者にモノをいい、本来の市場主義経済をめざす情熱があったのではないだろうか。いつ、どうして、どのようにその理想が歪められたのか。
それを明らかに語って、あらためて金儲けはそんなに悪いのかと、堂々と発言していただきたいと願う。
2007.08.24 Friday
【ワールド/株式上場に重い問いかけ】
いかにも風変わりな行動だ。株式上場が企業の勲章とされる中、れっきとした上場企業があえて非上場に転じようというのだから。前代未聞といっていいだろう。
東京、大阪の両証券取引所第一部に上場するアパレル大手、ワールド(本社神戸)が先日から取り組み始めた、経営陣による自社買収(MBO)のことである。
寺井秀蔵社長が個人で持つ投資会社が九月一日までの間、ワールド株を対象にしたTOB(株式公開買い付け)を行い、現経営陣や、創業者で大株主の畑崎広敏前社長らも協力し、約七割の株取得をめざす。
買い付け価格は一株四千七百円で、最大二千三百億円とみられるTOB資金の大半は、三井住友銀行などの金融機関から融資を受ける。順調に進めば、ワールド株は十一月にも上場廃止になる、という。
多くの日本企業にとって上場はステータスであり、資金調達の必要を吟味せずに上場を急いできた面がある。その意味で、ワールドの決断は示唆に富むといえよう。
(05/7/29神戸新聞)
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【ワールドがパート5,000人を正社員に登用】
アパレル大手の「ワールド」は2006年11月21日、同社販売子会社の契約社員やパートタイマーの販売職約6,000人のうち、8割の約5,000人を、同子会社の正社員に登用したと発表した。景気回復で人材確保が難しくなるなか、正社員に登用することで人材を囲い込むことが狙いだ。この措置で、給与や福利厚生費など年間22億円の負担増を見込むという。J-CASニュースより
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米系投資ファンドのスティール・パートナーズによるTOBで、ブルドックソースはゆれている。6月13日に行われた代表者のウォレン・リヒテンシュタイン氏は池田章子社長の初の会談の席で、270億円の大金を投じて手に入れようとしている老舗企業に「私はソースが好きではない。味わったこともない。」と放言をはなったという。暴言になるのか、傲慢なものいいになるのか、今後の成り行きが益々気になるところだ。そもそもTOB「Take Over Bid」を敵対的買収と訳するのもどうかと私は考えるのだが、この企業の同意をえない敵対的買収を防ぐためにいっそのこと上場を廃止してしまおうという果断な行動をとったのが、大手アパレル・メーカーの「ワールド」である。一昨年の7月25日、ワールドの寺井秀蔵社長が、株主から自社株を譲り受けるMBOを発表したことは、いまだに記憶に新しい。
またTOBへのリスク回避だけでなく、流行の波と消費者の気まぐれな趣味嗜好に翻弄されがちな浮き沈みが激しいアパレル業界で、迅速な意志決定と大胆な戦略、長期的な展望で経営の舵としをしたいという経営者の思惑、四半期ごとに決算発表をする経費負担と市場の評価にさらされることへの負担を考えれば、今回の財務状況もよい優良企業で異例の上場廃止を英断だと私は評価したい。
ところで、MBOをするには、当然自社株を買い戻すための巨額な資金が必要である。この資金提供を、当時の三井住友銀行で法人営業部長だった宿澤広朗氏がてがけていたのだった。3099万株(66%超)で1株あたりの買取価格は4700円。ワールドの株価はなかなか高かった。2300億円という巨額な資金提供の担保としてワールドの資産や将来の収益を担保としたLBOの手法が用いられた。三井住友銀行が幹事となり、広澤氏は他行もまきこみシンジケード団を結成。UFJ銀行の合併問題による脱退という事態を乗り越え、三井住友銀行は高金利で882億円を融資して、尚且つ手数料も確保した。
(その後、ワールドは自社株の一部を幹部に売却、ストックオプションを450人の管理職に発行した。)
そして昨秋、パートの約6000人の販売職を子会社の正社員に登用。
バンカーとして企業価値を高めたいと生前部員たちに伝えていた広澤氏のねらいどおりに、ワールドははばたいている。
■
ワールド上場廃止から考える「株式会社制度」の意義
2007.08.19 Sunday
猛暑だっ、酷暑だっっ!まるで亜熱帯地域に組織変更したかのような東京の夏。不都合な真実は、体力に乏しい我が身にとっては思いっきり不都合な天候をもたらしている。厳しい日差しの中、指揮者の中田延亮氏のご都合により今年から3月から8月に移ったメロスフィルハーモニーの13回めの演奏会に詣でる。会場は、第一生命ホール。
この第一生命ホールは、私は知らなかったのだが実は歴史のあるホールである。1952年、近衛秀麿氏の指揮により近衛管弦楽団の第一回定期演奏会が開かれた。その後、N協メンバーによる室内楽等、多くの演奏家たちの名演奏を包んだホールが、2001年の晴海アイランドトリトンスクエアの誕生とともに、移転して新たに生まれかわった。東京には、つくづく音楽会に最適なホールがたくさんあると思う。けれども、お気に入りのサントリーホールや王子ホールをのぞいて、欧米の豪華で特徴のある劇場に比較して、機能性では優秀でも没個性なのが残念だ。
さて、猛暑の東京で別世界のようなホールで、まるでウィーンにいるかのような気分にさせてくれたのがメロスフィルの演奏会。
毎回愉しみにしている薪傍ご隠居氏の曲目解説は、「何と素晴らしいプログラムだろう」という文面ではじまる。 コリオラン序曲でベートーベンの深遠に誘われ、モーツァルトの交響曲第40番 で疾走する悲しみにどっぷりと感傷的にひたり、、、しめは涙なんかあっというまに乾いてしまうあの楽聖ベートーヴェンの交響曲第8番 。
確かに何と素晴らしいプログラムであるが、アマオケにとって難と難しいプログラムであろう。
このオケで感心させられるのが、最初の音がいいことだ。音楽の物語のはじまりを期待する客席の読者のわくわく感を裏切らない。いつも、望むとおりの、最初のその音だけで集中できる響きをもってくる。それは、彼らがいかに音楽を大切にしているか感じさせられる響きでもある。極論すると、今年の熱闘甲子園でわいた最後の満塁ホールランを打った高校野球の魅力に近いかもしれない。
つづくモーツァルトの40番。薪傍ご隠居氏もふれているが、弊ブログのタイトルにも因縁のあるさる評論家のあまりにも有名な「モーツァルトの悲しみは疾走する。涙は追いつけない」という一文に、国内では半永久的に閉じ込められた曲である。特徴のあるメロディーが繰り返し文字通り疾走し、破綻するかのような儚げなゆがみすら感じるこの曲は、ジュピターと並んでモーツァルトの王冠のような名曲である。しかし、これまでのモーツァルト的な透明な哀しみを払拭するかのような曲想が感じられ、私には新鮮味があった。
のだめ効果であろうか、近年これまでクラシック音楽をあまり聴いていなかった層に意外にも受けているのが、ベートーベンである。きっとこどもの頃の音楽の授業でなんとなくなじんでいることもあるのだろう。けれど、入りやすくて予想外に広いのも気難しい顔をしたベートーベンだ。
ちなみに最後のベートーベンの8番は、来年の第九特別演奏会への橋渡しとなるべくして選曲されている。
(気が付くのが遅かったが、来年8月31日での特別演奏会で4人のソリストと合唱団が必要なために、今回1口5000円の寄付金を募っていた。一口につき、二枚の招待券付。市民オケや大学オケ、企業オケと異なりスポンサーのないアマオケが質の高い演奏会をめざせば、さらなる資金が必要になるところは、なかなか難しいことだ。)
中田延亮氏は、06年より音楽監督ロリン・マゼールによるオーディションで選ばれ、バレンシア州立歌劇場(PALAU DE LES ARTS REINA SOFIA)メンバー、今シーズンより副首席奏者になるそうだ。スペインか・・・。
---------2007年8月19日 第一生命ホール ------------------------------------------
L. v. ベートーヴェン / コリオラン序曲 Op.62
W. A. モーツァルト / 交響曲第40番 ト短調 K.550
L. v. ベートーヴェン / 交響曲第8番 ヘ長調 Op.93
■アンコール
W. A. モーツァルト / メヌエット
■アーカイブ
メロスフィルハーモニー第11回演奏会
メロスフィルハーモニー第12回演奏会
全くの余談だが、ブログを更新するにあたり”メロスフィル”で検索したら2ページめに弊ブログがでてしまい、非常にあせった。
指揮者の中田さんの風貌をドラエモンののび太君に似ているという感想が、朝日新聞元次長の猥褻疑惑の文章の次に表示されている。あまけにGacktフィギュア人形が続く・・・。嗚呼、恥。。。
2007.08.18 Saturday
昨年の初夏、惜しくもこの世を去った宿澤広朗氏は、住友銀行元頭取・西川善文氏によるとバンカーとしての完成の域に達していたという。
ちなみに西川氏の中では、銀行員としてのリーダーシップの発揮の仕方というと、即断即決、スピーディな処理、明快さにある。
銀行員として、またラガーマンとして、そのリーダーシップを遺憾なく発揮した彼のこのような資質はどのようにしてつくられたのだろうか。生まれもった性格・能力のような気質もあるだろう。努力によってつかんだ栄光がもたらした自信と周囲の賞賛も当然作用したことだろう。しかし、広澤氏にとっては、加藤仁著「運を支配した男」によると、1977年から7年間滞在したロンドン駐在時代にふれた英国のラクビーの伝統による影響が大きいと思われる。
宿澤氏の駐英時代の感想によると、米国におけるカレッジ・スポーツがプロ養成的になっていくのに比較して、オックスフォード、ケンブリッジ大学を中心とした英国の大学の基本理念がリーダー教育、リーダー養成にある。スポーツだけでなく、学術・文化を通じてリーダーを育てる、リーダーとして学ぶ場になっている。それでは、我が国内においてはどうであろうか。今年も夏の甲子園が白熱している。白球を追う高校球児のファンイン・プレーと熱戦には、素直にスポーツの醍醐味に酔い、感動もする。しかし、彼らにとって、キャプテンにとっては、リーダーとしての資質が育つスポーツというのとは少し違うような気がする。
学校教育の場では、責任や統率力が求められるリーダーシップを学ぶことはできても、高い判断力、決断という能力を培う場は残念なことに少ないのではないだろうか。
それでは、宿澤氏の考えるリーダーの条件とは。
為替のディーラーとして全戦全勝を自負し、市場営業第二部の部長時代は、バブル崩壊で傷ついた銀行に莫大な収益をもたらし、NYのワールド・トレード・センターのテロの時は、優先順位を決めて明確に3つの指示をして危機をのりこえた彼が、銀行員の集大成に向かって構想し、着々とすすめたプロジェクトがある。このたちあげに伴い、彼の脳裏にうかんだのがこれまでの銀行員としてリーダーに求めたのは従来の全方向型のゼネラリストでなく、スペシャリストだった。
「なにかのスペシャリストは、必ずゼネラリストよりも優れている」
これが彼の信念だった。万能なゼネラリストを多くそろえるよりも、優秀なスペシャリストをそろえ、その中からリーダーを選ぶ。なにかのスペシャリストにならなければ、リーダーになれない。最近では、ゼネラリスト型尊重主義からスペシャリスト型へと世の中の動きが変わってきているが、彼の強烈な思いは、単にビジネスマンとして一筋の道を歩いてきた者にはなかった独自の視点を感じる。
世界的な指揮者として活躍する大野和士さんによるとリーダーの条件は、次のようになる。
・リーダーには確信が必要
・リスクは自分がとる
・どんな状況でも自分のベストを尽くし諦めない
個性を重んじる芸術分野における指揮者として望まれるリーダーと巨大企業のトップとして期待されるリーダー像は、よくよく考えれば予想外に重なる部分も多い。指揮者というのも、やはり究極のスペシャリストである。この国の指揮者である首相の存在と会社の最小単位である10名に満たないチームのリーダー。最近、リーダーの条件というのを考えている。
■アーカイブ
・「
宿澤広朗 運を支配した男」
・「
科学は最高のスポーツ」
・「
喝采か罵倒か 指揮者・大野和士」
2007.08.16 Thursday
今年の4月2日、三井住友銀行の入行式において、奥正之頭取はひとりの”銀行マン”について新入社員に語った。
その人物、三井住友銀行専務・宿澤広朗氏は、頭取候補とまでささやかれた一流の”銀行マン”であり、またワールドカップ・ラクビーで日本代表の監督をつとめ、唯一日本に金字塔のような勝利をもたらした”ラガーマン”としても活躍した。こんなかっこいいバンカーが、こんなすごいラガーマンが、日本にもいたのである。
宿澤氏と同じ大学出身で団塊世代でもある著者は、銀行で広澤氏と関わりのあった上司や部下、取引関係者、ラクビー関係者や友人、ご家族と幅広く取材し、広澤氏のひととなりをつかんでいく。
経歴どおりに、大学紛争で東大受験を断念したほどの頭脳、162センチの体格にも関わらず高い身体能力、目立ちたがりやで負けず嫌い、我慢強い、プライドの高い人、エネルギッシュな反面、家庭ではタテになったことがないヒトと笑われるくらいどこにでもいるおじさんらしさもあり、眼光鋭くオーラを発散させながらも、童顔の満面の笑みは人の心に印象を残し、ブランド品と真紅の薔薇を好み、それに姉によると間違いなく女好きだとか。
けれども、宿澤氏を語るにもっともふさわしいのは、猛烈な努力を積み重ねて”努力が運を支配する”という名言をつくりあげた男だったことである。
優秀な成績で入行し、職場でよい仕事をこなしながらも処遇に恵まれない者が数多くいるのが銀行という組織だ。そんななかで、入行当時の専務取締役の磯田一郎がラクビー好きで、最初に赴任した新橋支店の支店長が東大ラクビー部出身という陽のあたる場所で、行員としてスタートしたことは確かにラッキーだった。しかし、その後ロンドンに赴任し、本店に戻って為替のディーラーとして全戦全勝し、バブルが崩壊して傷のつかない大塚支店とは言いながらも支店長に就任するや4期連続業績表彰、5期連続基盤格充実運動受賞と不振だった支店を復活させ、その後市場営業第二部の部長当時は、その部門において住友銀行の全収益の3割を計上するまでの業績をつくった。しかも、その間ラグビーというフィールドでも精力的に、やすまずたゆまず活躍していたのである。そのため仕事は早くきりあげていたのだった。
こうした銀行での活躍ぶりをラクビーでの”名声”を利用しているという声もあったかもしれない。しかし、その後ビックプレイヤーとして、また一流のバンカーとしての仕事ぶりを読みすすめると、確かに西川善文・元頭取の言うように「それだけで宿澤に力を推し量れるものではない」という証言が重みを増してくる。またそれと同時に、日本の巨大な銀行というステージで、銀行というひとつの巨人のような生命体を、ひとたび死に体も同然の状態から復活させて更に成長させること、頭取への階段の険しさを思うと、別の意味での宿澤が背負ってきた重さもまた量りしれない。
そんな重さに、激務に、宿澤の心臓は思いもよらないかたちでノーサイドの笛を鳴らした。これまで努力で運をつかんできて、銀行員としても最高峰が視野に入った男が倒れたのは、なんと携帯電話のつながらない山頂でのことだった。
享年、55歳。
このめったにいない大人物のあまりにも若い死を惜しむ人々の葬儀の列は、4000人にも連なった。
同期でトップを走り、49歳の若さで執行役員になった時はかなり話題になり、私もこの時はじめて「宿澤広朗」の名前を知った。むしろラガーマンとしての彼を知らないのと言われたくらいの有名人だったのだ。好んだ薔薇の花のようにすべてが華麗なプレーのように見えて、ラクビー改革の夢は2005年6月の協会退任をもって、その道半ばで閉ざされた。現在のラクビー協会会長は、あの森嘉朗である。
宿澤広朗氏は、いずれ伝説の人物となるだろう。けれども著者の感じるように、その立場から多くの仲間や友人に恵まれ愛されながらも、またその立場ゆえに彼は孤独な人だった。この孤独な魂を抱きしめるかのように、ビジネスマンには残りの夏休みの課題図書として、是非お読みいただきたい一冊である。
そして迷った時は、「努力こそ運を運ぶ」という彼の信念を思い出したい。
2007.08.12 Sunday
日本ハムのピッチャー、ダルビッシュ有選手が8月9日に、結婚宣言をした。最初から狙っていた「お立ち台」でのヒーロー・インタビューで、結婚と父になることをファンに報告。彼は、この特別な日のために、絶対に勝つと最初から気合たっぷりだったそうだ。見事、約束した勝利は、彼にとっては二十歳最後の登板の記念すべき勝ち星となった。前途洋々のダルビッシュ選手は、まもなく若い父になる。
妻と八ヶ月の息子がいるジャンニには、二十歳の時に出産で恋人を失った。その哀しみと絶望のあまり、生まれてきた我が子を手放してしまった。
ジャンニが一度も会ったことのないこどもを育てている亡くなった恋人の兄が、少年の写真を携えてジャンニに15歳に成長したパオロの話をする。這いながらボールを追いかける6歳のパオロの写真を見つめるジャンニの手はかすかにふるえ、瞳は罪悪感と苦悩、そしてためらいにゆれている。
そして、ジャンニはパオロをミュンヘンからベルリンの障碍者のリハビリセンターに送るために、一緒に旅に出ることになった。それは、15年間の空白をうめるジャンニとパオロ、彼らの”家”の鍵を見つけるための旅路でもある。
まず髪をきちんとわけて、旅行と言ってもリハビリの施設に行くのが目的のためだろうか、ジャケットをきちんとはおるジャンニ役のキム・ロッシ・スチュアートの、そのあまりにも整った容姿に関心がいく。このような美形俳優では少々リアル感がないのでは、と心配になるくらいの甘めの綺麗な顔立ちなのだ。ところが、はじめてパオロに会い眠っている彼(ここでは、パオロの姿が映らない)を見つめるジャンニの表情が、当然ながら再会の喜びよりもとまどいと、初めて見る我が子の障碍への苦悩で憔悴していく。夜行列車での眠れない夜の時間が、その表情にあらわれている。そして15歳になった我が子なのだが、まだ小学生のような体格と誰の目にもあきらかなその障碍。
端正な父とそんな息子の”表面的な”違いに、意味があることに気が付く。外見が異なっても、それでも彼らは父と息子なのだ。
そして、パオロが検査を受けている病院で、ジャンニは重い障害の娘を育てている知的で成熟している女性ニコール(シャーロット・ランプリング)と出会う。母親的な包容力で接するニコールは、本作品で重要な役どころである。全く似ていないにも関わらず、さらにジャンニがパオロの父であること否定しても、彼が父であることに気が付いている。そして、ジャンニが嘘をつく心情も。彼女は、ジャンニの不安でおどおどした目を「夫と同じに、我が子が周囲に迷惑をかけることを恥じている。」と伝える。そして、このようなこどもの世話を”母親にあてがわれた汚れた仕事”と、夫はいつも口実をつくって逃げるという言葉は、あまりにも辛らつだが本質をついているのではないだろうか。殆どの男性が必然的に外で生活費を稼ぐ役割を担うというだけでなく、男としてのプライドの高さ、おとなになりきれないよくも悪くも男の特性を連想する。また、ここではあかせないが、母親としての感情の告白は、その静かな語り口ゆえに決して忘れることができない。こういう残酷だけれど、きれいなだけではない描き方は、作品に重厚さをもたらしている。
旅を続けていくうちに、父と息子の心が通いはじめる。最初はパオロにどう接していいのか、どのように介護していいのかわからなかったジャンニが、パオロの好きな女の子に会うための旅の途上で、まるで最愛の恋人に接しているかのように、いとおしそうにパオロの髪にふれ、頬をなで、あごにさわり、体を抱き、キスをするシーンが私は好きである。そして勿論、おそろいのヨットパーカーとジーパンに身をつつんだパオロが、ひとりで車から出て泣いている若い父に寄り添って声をかけるラストも。
監督のジャンニ・アメリオ氏自身、19歳の父と16歳の母の間に生まれてた。妻子を置いて異国に旅立った父とはじめて会った時、すでに17歳になってたという。
監督は、そんな父の無責任さを責めず、彼の抱える問題や貧困を理解していく。「私は父親に対してたいへん悪いことをしたと思うようになった」とまで、言う。そしてよい息子にはなれなかったが、よい父親にはなれたと。
現代で二十歳で父親になるという責任は、重い。けれども、ジャンニのように、息子とともに、父として成長していけばいい。たとえ、ゆっくりでも。
監督:ジャンニ・アメリオ
脚本:ジャンニ・アメリオ、ステファノ・ルッリ、サンドロ・ペトラリア
出演:キム・ロッシ・スチュアート、アンドレア・ロッシ、シャーロット・ランプリング
2004年/イタリア映画
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