千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  
旧館の「千の天使がバスケットボールする」http://blog.goo.ne.jp/konstanze/

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2007.04.30 Monday

「たとえ世界が不条理だったとしても」吉田秀和著

吉田偉大なるチェロの巨匠、ロストロポーヴィッチ氏が27日亡くなった。
訃報とともにスラヴァと多くの人々に愛された氏の業績を紹介する報道では、崩壊された東西ベルリンの壁のうえで演奏する姿が流れた。マエストロは、その誰もが魅了されるチェロだけでなく、政治ぬきでは語れない旧ソ連に生きた音楽家だった。そのかって冷戦下時代の1957年、北米の音楽家として初めて旧ソ連に招かれたピアニストがいた。プログラムの中心は、バッハ。西側の情報が規制されていたこの時代、聞いたこともない若者が弾く演奏がバッハばかりだったので、モスクワ音楽院の大ホールは閑散としていた。ところが演奏がはじまるや、その聴いたこともないフーガの演奏に熱狂した聴衆の口コミにより次々と観客が押し寄せてきて、最後はブラボーの嵐に終わったという。この若者は、西側ではcalafさまのような熱狂的な信者のいるグレン・グールドだった。
このエピーソードを紹介しながら、著者はグールドの出現がソ連のある人たちにはそれまでと一味違う自由の舌ざわりの経験となり、新しい出発への促しの働きをしたと洞察している。この純一無雑な天分を放射するピアニストがバッハを再認識させたように。

本書は、71年から朝日新聞に連載されていた「音楽展望」の2000〜から休筆する04までの評論をまとめた本である。
音楽評論を読むのは、けっこう難しい。音楽の評論は、物理的な解釈とともに抽象的な表現が求められる。読み手がわの教養や知識というバックボーンがないと、たいそうつまらないものである。ところが吉田氏の著書は、音楽好きであれば行間まで共感できる感性が理解を推進する。またたとえ音楽に興味がなくとも、教科書や入試に採用される文章らしい、平易な文体でありながら音楽だけでなく社会に対する深い洞察力と、吉田氏らしい端正な気品が満ちている。このような文章におめにかかれること事態、最近は少なくなったことに思い至るとそれも残念だ。

本書のタイトルのモチーフになった「不条理と秩序」では、一般的に使用されるサルトルの実存主義からくる”不条理”という言葉をしきりに思い出され、幸福な日々の条理も不運な事故で命を失う不条理も所詮は表裏一体、今生きていることの根拠のなさに空しさを感じて心を閉ざしたという心情が書かれている。その音楽の窓さえ閉じた著者の心を解放したのは、バッハだった。バッハの音楽が続く限り、世界には何もないかもしれないが、その空虚の中で空虚のままにひとつの宇宙的秩序というものが存在していると考える。たとえ世界が混沌の渦巻く無意味で虚ろな穴だとしても、あらゆる生物を死に追いやるものは、また、私たちを生かし、花を咲かせ実らせるのと同じ力だと。バッハを聴いていると、著者の哲学的な悩みと青年のような独白が、あまりにも的をえていることに驚くといったら僭越だろうか。
随所に感じられる鋭い感性と整然とした文章には、知的にありがちな冷たさやしきいの高さはない。それは、吉田氏の音楽や芸術全般への深い愛情と音楽家への慎みのある敬意に満ちた批評ゆえだろう。ルービンシュタインは、ゆったりとした円やかさ、華やいだ豊かな楽しみ、彼こそは「巨匠」と呼ばれるのにふさわしいと評しながらも、でも、あとには何も残らない、一方ホロヴィッツは、作曲家と演奏家の合作のようなもので、なにを弾いても音楽を塗りかえてしまうと述べている。これほど端的にふたりのピアニストの違いを喝破した評論家はいるだろうか。

また座右の1冊にしたいくらい、何度も何度も読んでしまう名文が並ぶのも本書の魅力。私の乙女心が活発に発動するではないか。
あの不朽の名作、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を「華やかなうちにも哀愁のヴェールを冠った洗練高雅な美術品の味わい」と称えている。私はこの一文に、思わず悶絶してしまいそうだった。嗚呼、最後の感想は本書にふさわしくなく下品になってしまった・・・。

追記:1913年生まれの吉田氏は、結婚して50年を迎える頃に愛妻を亡くされたことをきっかけに、ものを書く気力がまったくなくなってしまったそうだ。「展望」をしばらく休んでいる間に、多くの方からねぎらいや励ましに支えられ冬がおわり、まるで春の芽が萌えてきたような新しい気持ちでペンをとるも、その後再び休眠に入られてしまった。現在は、文筆活動を再開されているようだが。


2007.04.29 Sunday

『ゆれる』

ゆれる3田舎では、長男の立場は重い。
身軽な次男の猛(オダギリ・ジョー)は、東京に出て新進カメラマンとして成功している。久しぶりに母の1周忌で故郷の実家に帰省するが、およそ仏事にふさわしくない乱れた髪にくすんだ赤い皮ジャンに暗い赤めのズボンといういでだち。おまけに遅刻する。けれども閉鎖的な田舎では、若者や女性にとって猛は新しい風が吹くかっこいい男。家業のガソリンスタンドを継いで、口うるさい父と生活している兄の稔(香川照之)は、店のお客扱いと同様、親族への気配りの笑顔を絶やさない。どこにでもあるような、どこにでもいるような兄弟の対比が、彼らの服装、髪型、乗っている車や立ち居ふるまいに女性監督のきめ細やかな視点で鮮やかにうかんでくる。好きな仕事で成功し女性にももてて自由に生きる弟と、独身で洗濯物の下着を夜たたむさえない兄の背中。
彼ら兄弟と幼なじみの智恵子(真木よう子)は、渓谷に遊びに行く。興味のひかれる被写体をめざして、カメラを片手に軽々とつり橋を渡る弟。川のほとりに咲く可憐な白い花は、彼にとって被写体と同時に女性を象徴している。猛をずっと思いつづけている智恵子も彼とともに活きたいと願うあまりに、危険なつり橋を渡りはじめる。すると気の弱い兄が好意をもっている智恵子を心配して、後を追いかけていく。
ゆれるつり橋に残された智恵子と兄。すると智恵子が橋から転落してしまった。果たしてあのつり橋のうえでなにが起こったのか。事故だったのか、殺人だったのか。真実をめぐってゆれる兄と弟だったのだが。。。



ゆれる2兄弟の確執を描くと思いきや、拘留中の兄の稔が少しずつ精神が崩壊して行く場面は緊張感がはしる。そして誠実を絵に描いたような兄が、日常生活にふたをしていた狡猾で計算高い本性をあらわしはじめた意外性には、うっすらとした恐怖感すらうかんでくる。この場面での香川照之さんの演技が期待をうらぎらない。『故郷の香り』でも聾唖の役を演じてその演技力にひきこまれたが、本作品でも”いい人”だった兄の豹変ぶりと狂気を演じた演技力には圧倒される。対峙するオダギリ・ジョーも、兄の言動にとまどいながらも彼にまきこまれてゆれる心情を自然に演じている。感情がストレートながらも兄を気遣う姿に、まるで猛が彼そのものにさえ見える。その後の自分の人生を見失いかけた姿の繊細さもよく表していた。人生とは自分を探す旅である。誰もが抱えているであろう心の闇を暴いた監督自身による脚本は完成度が高い。またユーモラスさえ漂う法廷劇や離れてもずっと猛を思いつづけていた智恵子の暗さや女の怖さも、夜の渓谷や暗室の中のゆれる水とともに演出が巧みである。通常は名詞でおわる題名を「ゆれる」と動詞にしたタイトルにも深みがある。なんと才能溢れる監督なのだろう。

香川さんの父は、高名で優れた歌舞伎俳優である。もの心つく前には父とは別れ、母親に育てられたという。成人になる頃たった一度だけ、その歌舞伎俳優である父を彼は尋ねた。父は、自分にはこどもはいない、自分を父とは思うな、とたったひとりの息子に伝えたという記事を読んだ記憶がある。そこには、凡人にははかりしれない多くの思いがこめられているのだろう。その香川さんが兄弟や家族の絆を問う素晴らしい映画に出演したのも別の感慨もある。
ゆれる橋は、架け橋でもある。最後の印象的なシーンは余韻となぞを残すが、私は希望のうちに幕を閉じた。自分の人生をとりもどすための橋だったのだから。

監督:西川美和



2007.04.27 Friday

「魔笛」カナダ・ロイヤル・ウィニペグ・バレエ団

魔笛2あのモーツァルトの傑作オペラ『魔笛』が、バレエになった!

国際エミー受賞者のバーバラ・ウィリス・スウィートが古いおとぎ話に現代的な解釈を加えて、カナダ・ロイヤル・ウィニペグ・バレエ団によって私家版といったオリジナリティ溢れるバレエ。27日NHKの教育テレビ「芸術劇場」では、そのテレビ映像用に製作されたオリジナル・バレエが放映された。

先日、マシュー・ボーン演出の『白鳥の湖』をDVDで(心は贅沢に)堪能したが、これは実際に進行している舞台をそのまま録画したものだった。カナダ・ロイヤル・ウィニペグ・バレエ団の『魔笛』はテレビ用に編集しているため、王子タミーノとタミーナが踊る”舞台”だと思っていたのが映像の中のスクリーンの枠に入り込み、その映像を観ていた夜の女王が踊り始めるや、やがてその舞台がさらにスクリーンで映像化されていて、そのスクリーンが先ほどの舞台の中に設置されていてパパゲーノとパパゲーナが踊り始める、という説明が難しいのだが三つのそれぞれの世界がパラレルに生きているという凝った演出である。つい真剣に観ていると、鏡の世界に入り込み、その仮想世界の中に置いてある鏡を眺めているうちに、さらにその鏡に入ってしまったような不思議な感覚が残る。

時間は60分程度なので物語に深く入り込むというよりも、軽快でテンポよく進行するバレエは、むしろオペラよりは親しみやすい。従来のバレエやオペラに必ずあるソリストの見せ場、聴かせどころで物語が中断する一種のハイライトがないのがテレビ版。しかし、多忙でストレスのたまり易い(私のような短気な)者には、手ごろな時間でスピード感のある踊りは、週末の最高に寛げる時間と芸術に浸れる至福を与えてくれた。バレエといえばこの踊りという定番に、コンテンプラリーな楽しく悩ましい(色っぽい)踊りも加え、その演出には一瞬の無駄も退屈もない。お見事!
またパパゲーノのシャツのトルコブルーの色をパパゲーナの髪を結んだリボンやトゥシューズにとりいれ、錆色の赤いズボンをパパゲーナの上半身に統一といった色彩感覚が楽しく鮮やか。終盤で村人たちが次々と積んであった袋に入れた穀物をさかさまにして撒くのだが、それらが金色に輝いて華やかさと幸福感が漂うところはエンターティメントととしても成功している。

mateki
Royal Winnipeg Balletは、1939年に創立されカナダで最も歴史のあるバレエ団である。
私はいつも思うのだが、「魔笛」の主人公は王子タミーノとタミーナが主役ではない。なんといっても嫁とりに励む愉快な役どころでイイトコどりのパパゲーノと、女の策略の手腕を見せつける夜の女王以上の大物はいない。この大物を踊ったTARA BIRTWHISTLEのだが、彼女は公式HPによるとバンクーバー生まれ。本格的にバレエのレッスンをはじめたのが、85年の附属ロイヤル・ウィニペグ・バレエ学校だった。2000年からプリンシパルに昇格。画像にあるようにプラチナ・ブロンドの短髪が、従来のゴージャス巻き髪を高くまとめたイメージの「夜の女王」をうらぎる。しかし通常のバレエではあまり見かけないかなり胸のあいた黒いドレスで無表情に踊る姿は、現代のママの魅力的な色気を能弁に語っている。このセクシー・ビームに抗える男性は、悪玉ザラストロだけでなくあまりいないだろう。長い髪で可憐なタミーナ姫は、まだまだ女としてもダンサーとしても「夜の女王」の貫禄には及ばない。
鑑賞後の感想をひと言で言えば、モーツァルトの音楽と歌手の歌、さらに踊りと、豪華な幕の内弁当のようである。この幕の内弁当は週末の夜遅く、ひとりでいただいても美味しい。一度は、召し上がる価値あり。
歴史の浅いカナダであるが、バレエの水準は高い。


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CHOREOGRAPHY : Mark Godden
MUSIC : Wolfgang Amadeus Mozart
SET & CUSTUME DESIGN : Paul Daigle
LIGHTING DESIGN : Pierre Lavoie
SOUND DESIGN : Jean-Pierre Cote
FEATURING : Winnipeg Symphony Orchestra, 15 vocal soloists and the Opera Workshop Ensemble

2007.04.24 Tuesday

「白鳥の湖」

白鳥映画『リトル・ダンサー』の主人公、ビリー・エリオットは、バレエダンサーになる夢を実現するために、サッチャー政権によって寂れつつあるイギリス北部の炭鉱町を後にした。彼が向かったのは、ロンドンの格式の高い名門ロイヤル・バレエ学校だった。11歳だった少年のその後は・・・。
ビリーは、ロイヤル・ダレエ団のプリンシパルとして白鳥を踊る。青年になったビリー役を演じたアダム・クーパーの、最後にわずかに登場する一瞬の踊りは、誰もが魅了されるだろう。力強く逞しくそして男性らしい美しさは、従来のチャイコフスキー作曲バレエ「白鳥の湖」とは大きく異なる。

そのアダム・クーパーが白鳥を主演したマシュー・ボーン演出、アドベンチャーズ・イン・モーション・ピクチャ−ズによる新版『白鳥の湖』(96年ロンドン公演)がDVD化されている。バレエといえば、まず「白鳥の湖」。あの憂愁をたたえた有名な優雅なメロディを、誰もが思い浮かぶだろう。しかし鬼才マシュー・ボーンは、白鳥を男性が踊るという斬新な発想と大胆な解釈で、全く新しい「白鳥の湖」を創作したのだ。

ある国の王子の一日は、召使に洗面と着替えをさせられ、報道官によって決められたスケジュールに従ってすべてが厳格に動いていく。まるで生きていない人形のような存在の自分に孤独と疑問を感じながらも、慕う母の王妃は王子の気持ちよりもビジュアル系の軍人たちの感情の方が大事。ここに国王(夫と父)不在の国における、息子の母に対する異常な関心があらわれている。やがて成人した王子は、報道官の意のままに現代的な女性に恋をするが、王室にはふさわしくない彼女のふるまいに王妃に結婚を反対される。気晴らしにソーホーの秘密クラブに出かけるも、恋人の悪しきしぐさや逃げられない自分の立場を実感して厭世感にさいなまれる。
そしてたどりついたのが、セント・ジェームス公演。絶望のふちにたつ王子の前に舞い降りたのが、神々しい白鳥だった。


白糖まるでパパラッチに追いかけられる英国王室を彷彿させる設定である。この点は、マシュー・ボーン自身が、そもそも「白鳥の湖」が王室の結婚がかかえる問題を扱っていると答えていた。従来の女性の理想系の頂点キャラの”王子像”から、人間的にも弱いマザ・コンタイプの王子として描いている。しかも、この王子は夜の公園で出会った野性的で妖しい美しさを放つ白鳥に恋をしてしまう。この場面の群舞とアダム・クーパーのソロの踊りは圧巻である。今までのチュチュがふわふわ舞う女の子の白鳥はいったいなんだったのか、というくらいに濃厚なたくましい男の色気オーラーが舞台のすみずみまで発散される。ダイナミックで力の満ちた踊りは、やはり本来の白鳥はこうなのだという説得力がある。この場面だけでも、賞賛に値する。
白鳥2しかし、なんと言っても第三幕「宮廷の舞踏室」で、人間に化身した白鳥(アダム・クーパー)の存在感である。王子の品があるが弱々しさに比較して、すらりと背が高く野性的で舞踏会にきているすべての女性をとりこにし、特に王妃を誘惑して王子を悲嘆させて、勝利の美酒に酔う”黒鳥”ともいえる悪の華ぶりである。黒いジャケットに長い脚にぴったりした黒い皮のようなパンツをはき、煙草をくゆらしワイングラスを傾けるアダムなくしてこの公演の成功はありえない。
特に王妃のふるまいに狂気じみる王子に、自分が白鳥であることを知らしめるある動作をするのだが、この時のアダムの不敵な笑いは、思わず戦慄が走るくらいの強烈さである。DVDは、臨場感に欠けるが登場人物の表情を読み取れることで鑑賞が深まる利点がある。この王子を挑発する笑いは、まさに恋愛の極意ともいえる毒の甘美さをもたらしている。
最後の衝撃的な結末は、現代のゲイのバレエ物語ともとれる苦悩と願望がうかんでいる。
その点でも、「チャイコフスキーが考えていた本来のバレエ」と評して、何度も来日公演を観てご推薦いただいた友人の鑑識眼は正しかった。チャイコフスキーの音楽をあますことなく表現した演出と物語、そして新しい解釈の新しい踊りがひるがえってチャイコフスキーの「白鳥の湖」の素晴らしい音楽性をひろげた。
周囲に翻弄される王子役を演じたスコット・アンブラーも適役だった。今度は、是非生の舞台を鑑賞したい。

2007.04.23 Monday

『ションヤンの酒家』

syonnyann中国の古都、重慶は、今急激な都市化が進んでいる。その大都市の都市開発から取り残された小さな片隅の旧市街地「吉慶街」に、ひっそりと小さな屋台の食堂”ジュウジュウ酒家”を営む女主人がいる。その女主人のションヤンは、スタイルもよく華やかな美貌をもっている。それが料理だけでなく男性客をひきつける理由だということはわかっている。しかし、お店の名物である鴨の首を揚げた食べ物を料理する手つきは、生活感がただよいたくましい。彼女は、ゆでた鴨の首を使いなれた包丁で一気にためらいもなく落とす。一瞬息をのむような思いがたちあがる。果たして自分はあのように、鴨の首を落とせるのだろうか。

最初は20代半ばに見えたションヤン(タオ・ホン)だが、その客あしらいのうまさや一度結婚に失敗したことや流産したこと、それ以上に疲れた時の表情が、もう若くない30代の女性であることが伝わってくる。彼女には、天からさずかった美貌のかわりに、妻の尻にしかれっぱなしのふがいない兄や家族を捨てて京劇の女優と出奔した身勝手な父、そして幼い頃から亡き母親がわりに育てたのに麻薬中毒になり更正施設に収容されている弟、それに文化大革命時に接収された祖父の小さな家を取り戻す問題など、多くの困難を抱えていた。ションヤンは、今日もロープウェイに乗って更正施設の弟を訪ね、家を取り戻すために住宅管理所長の歓心を買うよう策略をめぐらし、不仲だった父を訪問して弟のために家の相続を自分名義にしてもらう。


そんな毎日に疲れが漂う彼女だが、気になる男性がいる。1年前から店に通うその中年の男性、卓(タオ・ザール)氏は周囲から大物とささやかれ、彼女とのその成り行きを注目されていた。まだ充分に美しいションヤンには、不釣合いな容貌と外見の卓氏に見えるのだが、彼女がこの恋に慎重に賭ける心情をやがて納得するものもある。
卓氏は、さえない風貌だが、きちんとネクタイをしめてスーツを着こなす姿に、酒場の他の酔客とは違う裕福な事業家であることが伺える。金離れもよく、あつかましく値切ることもしない。ただ、そっと見つめるだけの節度ある”紳士”なのである。ここは、中国なのだ。中国の富豪ランキングにランクインする女性には、殆ど共同のパートナーがいる。なんの後ろ盾もなく学歴もない女性が、ひとりで都会の片隅で生きていくことには、日本のパラサイト女性には想像もつかないような切実な厳しさがあるのだろう。ションヤンの弟ジュウジュウを一心に想う田舎から出てきたアメイも、ションヤンに都市戸籍を取得できると諭されて、住宅管理所長の精神を病んだ息子にまるで家の権利取得の見返りのように嫁いでいった。
ある日のこと、店で好物の料理を買った卓氏がお金を渡す時、そっとションヤンの手を握る。その行為は、じっと1年間彼女を慕い続けた中年男性の純愛のあらわれでもあるが、それはまた粘り強く交渉してビジネスで成功してのしあがってきたしたたかな男の次の一手でもあった。
「雨にぬれた吉慶には、情緒がある」
男はそうささやく。しっとりと雨にぬれたションヤンは、乏しい街灯のあかりをうけて、小雨にけむる夜の廃れた吉慶を背景に男を誘うかのように美しく浮かびあがる。
ションヤン吉慶の街の幾段も重なった石段は、人々の生活の足取りで角がなめらかになり、雨にぬれて今夜もひっそりと輝いている。街を行き交うロープウェイからは、かっては優雅であっただろう欧風の建物の瓦が今にも崩れそうになり、すっかりはがれおちた壁が眺められる。小さな家の小さな部屋には貧しさの底にも、精一杯生きる人々の生活がただよう。ションヤンが奪い返した古いあまりにもつつましい家にも、少女とその家族が生活していた。その一方でくすんだ空の向こうには、高層ビルがそびえたつ。映画『山の郵便配達』で中国の美しい自然とそこに暮らす人々の暮らしを描いたフォ・ジェンチィ監督が、今度は都市化と寂れていく街の対比を女性を主人公に情緒豊かそして憂愁をおびて描いている。

この映画の成功は、吉慶の街の情緒とションヤン役の女優の魅力による。DVDでインタビューに答えるションヤンを演じた女優タオ・ハンは、聡明で活発なお嬢さんが30歳になったという印象で、映画の中のションヤンとは全く異なるイメージである。最初から最後まで、まるで別人のように見えた。これも演技力の証明だろう。

不運な運命を嘆くこともなくすべてを受け入れて、今夜もションヤンはあの街で好きでもない煙草をくゆらしながら”酒家”にたっている。
毎日毎日、いさぎよく茹でた鴨の首を落として、揚げながら。

原題:「生活秀」”Life Show”

2007.04.21 Saturday

「超寿」の時代

まもなく団塊の世代が、老人と呼ばれる人種に突入する。が、さすがに学生運動の闘士で」ビートルズ世代のこの方たちは、旧来の”お年寄り”にはならないということは、野村総合研究所の「2010年の日本」を一読すれば納得がいく。彼らはいくつになっても、自分への関心と情熱を失わない生き方の達人かもしれない。それに高度成長期と年功序列の遺産をもって引退するから、自己への投資資金もそれなりにありそうだ。ところで日本と桁違いの米国の富裕層の団塊の世代たちは、今アンチエージングへの自己実現に熱心だ。

先日、テレビで観た米国テレビ番組のドキュメンタリーに登場した医師は、自らの肉体を使ってアンチエイジング医療をめざしている。すっきありしたスーツ姿からも伺えるほど私には異常に見えるほど若く筋骨隆々のマッチョな肉体は、毎日のジムトレーニングで鍛えている。鉄アレイを握るたくましい腕の動きには、無駄もなければためらいもなく、そこだけ見ればとても老人とは思えない。彼の営む近代的でりっぱな病院を訪問すれば、様々な検査を行い、総合的に肉体の老いをチェックされ、より若く健康を維持するための対処療法のアドバイスを受ける。60歳の俳優も若さを保つための診断を受けた。ホルモン注射をして彼用のサプリメントと薬を渡される。定期的に病院で検査を行い、薬をもらい、自分の肉体のランニングコストは、月10万円。彼の場合は、仕事への投資、経費と考えられる部分もあるが、セレブなマダム族は病院よりももっとゴージャスでリラックスできるエステサロンと医療を組み合わせた「医療スパ」に向かう。ここでは、注射によるしわとりなどの美容医療も受けられる。

米国サウスカロライナ州のヒルトンヘッド島にあるスパ「セレンディピティ」では、窒素プラズマのエネルギー、皮膚再生をして顔のしわとり、別のスパ「FACES」では、筋肉に微弱な電気を流してたるみとり。確かにあまり品のない某野球監督の夫人が、美容医療をしたら格段に若返ったことで、その効果に目をみはった記憶があるから、女性としても多少の関心はある。
米国では、美容形成外科学会の報告によると、昨年1年間で美容外科治療を受けた人は、約1150万人。費用は、なんと122億ドル(約1兆4600億円)にものぼる。病気や事故による美容形成の需要もあるが、大半が顔のしわとりやたるみを取るアンチエージング目的の”治療”である。
当然こうした分野になだれる企業の研究開発の投資もふくらみ、今や一大産業に成長している。元来保守的だった米国を変革させた世代は、新しい産業をも生み出しだのだが、こうした流れに警鐘を鳴らす医師もいる。米タイム誌から「最も影響力をもつ米国人」に選ばれた医師のアンドルー・ワイズ教授が次のように語っている。
「外見を若くして老いから目をそらすとしたら健康を損なう。」
ドキュメンタリー番組でも紹介された自らアンチエージングを実践している医師によると、ホルモンを補うことによって若い時の積極性や前向きなやる気を取り戻せるそうだ。未知数の副作用に関しては、医師にとっても病院を訪れる患者にとってもあまりたいした問題ではない。ヒラリー夫人のライバルであるオバマ氏は、実は愛煙家である。しかし大統領になるために、必死に禁煙しているという。喫煙が個人の趣味趣向の範囲を超えて、禁煙・体重管理と同じく”若さ”が米国での出世の条件。いつまでも若くありたいという女心の願望だけでなく、この国の多くの人種を受け入れる寛容さと矛盾した少々ヒステリックで単純な思考を見るような思いだ。
ところで、米国でのこうした潮流は、日本にも昔ほどのタイムラグがなく及んでいる。消費者としての層の厚い団塊世代の髪型服装だけでない若さへの熱意は、若者の知られないところで華が開いているのかもしれない。

勿論、若輩ものの私も、いくつになっても若くありたいし、そう言われたい。けれどもアンチエージングとは少し違う。老いには個人差もあるが、どんなに外見を若くしても、細胞年齢は平等に、しかも確実に老いる。私は「若い」ということと、「若々しい」ということは違う次元と考える。おばあちゃんになっても若いと言われたくない。しかし、いくつになっても若々しさを失いたくない。そう考えている。

2007.04.18 Wednesday

「夜は短し 歩けよ乙女」森見登美彦著

夜タイトルからずっと気になっていたのですが、「乙女その1」の私は、本日掲題図書を読了しました。どうやら同じく読みたがっていた「乙女その2」つなさんはまだ未読のようですが。)
「全国書店員が選んだ いちばん!売りたい本 2007年本屋大賞」を僅差で敗れて惜しくも二位に。私が売りたい本と本屋大賞受賞本には大きな開きがありまする。この乖離は、おそらく空からふるまん丸達磨を受けとめる勇気や人生に深みを与えてくれることを本に期待する日々脳内会議を進行している乙女と、疾風怒濤の如く読書を楽しもうという気運の本屋さんの店員さんたちとのモチベーションの違いでしょう。本書は、まさに偽電気ブランを呑みながら、夜の特に怪しげな裏道の散歩を好み、読書することのわくわく感を楽しみたいお友達向けの本です。

<主人公は、京都の大学に通う先輩(私)。サークルの100%天然の後輩(但し、酒精に浸るくらい酒には強い)に一目ぼれをしてから、いかに彼女に近づくか、ストーカーまじき日々を送りながら京都の大学生活を四季を通じて物語は進行します。現実なのか、はたまたファンタジーなのか、それを問うのは野暮京都の学園生活は、女装が似合う美貌の持ち主にして閨房調査団からの桃色賄賂は受け取る学園祭事務局長、一年中浴衣で移動式炬燵を愛用する樋口氏たちの優雅なたちまわり、惚れた女性を射止めるためにパンツを替えないという願かけをして下半身が病気となったパンツ総番長の純愛の成就など、まるでキャンディ・ボックスのようににぎやかである。
本書を読んだ賢明なる読者諸兄は、かっての大学生活への郷愁をたっぷりと誘われながら、あの毎日お馬鹿まるだしの「青春」という恥ずべき時代から、ようやくりっぱなおとなになった自分を安堵をされることでしょう。(本当に、おとなか?)


1979年生まれ、京都大学出身で4年前「太陽の塔」(日本ファンタジーノベル大賞)でデビューした著者の、少女漫画のような恋愛小説である。
舞台は、京都。京都以外にありえない。しかしなんと言っても、本書の特徴はその独特の文体と節回しにある。読み進みキャラクターを把握していくと、その不可思議でありながらノスタルジックな文体にはまっていく。同じ京都大学出身の1975年生まれの平野啓一郎氏が23歳にして当時最年少で芥川賞を受賞した「日蝕」が、懐古調の華麗なる文体で話題をさらったことを思い出す。音楽で言えば、平野氏が正調派クラシック音楽としたら、森見氏はあかるいポップスである。これは、読者の好みだけでなく年齢でも好みがわかれそうだ。但し、森見氏の「夜は短し 歩けよ乙女」は、平野氏ほどの強気さは路上に見当たらない。文体という表面のおもしろさと魅力が勝負である。このような売りで思い出したのが、今や殆どの著書が絶版になってしまっている森雅裕氏の一連の著書。偶然図書館で見かけた本の森氏の写真に、私の乙女心は電気ブランを一気呑みしたごとくわいた。森見さんだったら、森雅裕氏の著書の方がはるかにおもしろい!・・・森見さんファン、ごめんなさい。

それは兎も角、美しく調和のある人生を送る乙女たちは、もりもりご飯をいただいて城の外堀を埋められる日々を待ちましょうか。こうして出逢ったのも、何かのご縁。



2007.04.16 Monday

NHKアーカイブス「春・瀬戸内海」

nhk2「瀬戸内海に浮かぶ島々は、それぞれの春を迎えています。大小700を超える島がありますが、そのうち人が住むのは約150。過疎化・高齢化という時代の波に洗われながらも、やさしくたくましく生きる人たちの小さな共和国・瀬戸内の島々の暮らしを詩情ゆたかに伝えます。」

これは、昨夜「NHKアーカイブス」でとりあげた1987年(昭和62年)4月24日放送「春・瀬戸内海」(45分)の番組の冒頭のナレーションである。
温故知新という言葉もあるが、ここで再放送される番組を観るたびに、かっての日本人の姿や失われつつある日本の原風景に単なる郷愁以上の感慨を感じさせられる。いずれも質の高いドキュメンタリーの再放送なのだが、今観ても新鮮な映像に驚くとともに、深い哀しみを感じる特集もあり、叙情に心があらわれるときもあり。
今回の特集「春・瀬戸内海」の最初から最後まで観ていたわけではないが、記憶に残る部分のみ感想を。

朝6時半に小さな港を出港する村営のフェリーは、高校生専用。彼、彼女たちは船に乗って1時半かけて通学するのだ。(←この風景に早くもカルチャーショック)船上では、楽しそうにおしゃべりする女子高校生や、簡易机になる設備を利用して予習する生徒たちの活気で溢れている。乱れた服装の子どもは誰ひとり見かけることもなく、その素朴な姿には胸がきゅんとするものがある。(←この反応は自分が年をとった証拠だろうか。)


ある島には、出漁したまま何十日も家に帰宅できない両親を待つこどもたちが、集団生活をする「学寮」がある。保育園児程度の年齢から15歳まで、およそ50人ほどのこどもたちが共同生活を送っている。勿論、これも村営である。一緒に食事をし、遊び、寝る設備が整っているのだが、まだもの心もつかないくらいの年端のいかないこどもが親と離れて生活せざるをえない環境に、瀬戸内独特の職業の特徴と厳しさを感じる。
またこどもたちの元気な姿に活気ある島がある一方、150もの島の中には島民の離島によって無人島になってしまう島もある。かって住友金属鉱山が島ごと購入して銅の精錬工場を営んでいた愛媛県の四阪島では、最盛期には6000人の島民がこの島で生活をし、島には映画館もあったという。ところが昭和50年溶鉱炉の火が消え工場の閉鎖とともに、次々と島民が離れていき、会社を定年退職になった最後の二家族もいよいよ引越しすることになった。空から眺める島には、今では閉鎖したかっての大きな工場や、島を捨てた人々が生活をしていたたくさんの廃屋が続く。丸ごと島そのものが巨大なゴミ捨て場のようなゴーストタウンのその様相に、時代の流れと産業構造の変遷をも感じる。20年前のあの島は、今はどうなっているのだろうか。

nhkそして香川県の塩飽諸島では、徳川家康から安堵を受けた御用船方は人名(にんみょう)と呼ばれ、人名株によって世襲された。これは、実質的に自治をまかされていたことだと島民の人々は自負する。年寄衆が政務を執った塩飽勤番所(しわくきんばんしょ)の中に所蔵されている箱の中には、鮮やかな達筆の筆で任命の文字が綴られている。

最後は、島の頂上に植えられた満開の桜の木々が流れるように続く映像でしめくくられた。いずれもそれぞれの歴史と島民の息吹きが聞こえるような風情に、短編小説を読んだような充実感が残った。
番組の最後に、案内役の名アナウンサーの加賀美幸子さんの伝えるところによると、苦労して海中ケーブルをひいて公衆電話を設置したある島では、数年前にケーブルが切れて使用不可になってしまったが、現在は携帯電話の普及によって不要になったこと、島民全体の数は減っているが人が住んでいる島の数はかわらないそうだ。


2007.04.15 Sunday

乙武洋匡さんの今

乙武【乙武先生が、始業式で児童と対面】
ベストセラー「五体不満足」の著者で、今月から東京都杉並区の任期付き教員になった乙武洋匡さん(30)が5日、配属先の区立杉並第四小学校(同区高円寺北2丁目)の始業式で子どもたちと対面した。 始業式では、宮山延敬(のぶたか)校長が乙武さんら新任の先生を紹介。乙武さんが「皆さんに手伝ってもらうこともあるかと思いますが、一緒にいろいろな思い出をつくっていきましょう」と笑顔で抱負を述べると、子どもたちは大きな拍手で迎えた。
乙武さんは当面は担任を持たず、5、6年生の授業で複数の教師が指導をする「チームティーチング」に加わる。道徳の授業や特別活動では、全学年を対象にする。 乙武さんは「子どもたちが発するSOSを受けとめたい」と一昨年から大学の通信課程で学び、教員免許を取得。今春、任期付き教員制度を導入した同区が1日付、原則3年の任期で採用した。 (07/4/5 朝日新聞)*******************************


私には、これまで写真だけで一目ぼれをしてしまった男がふたりいる。
一人は勿論Gackt。但し、彼の場合はほれたのが顔よりもエステの宣伝で惜しげもなくさらした美しい裸体だったから、心底その顔を気に入ってしまったのはたった一人になるだろうか。正確に言えば、”顔立ち”ではなく顔を大層好きになったのが乙武洋匡さん、その人である。
今でも忘れもしない平成11年3月8日号の週刊「AERA」の表紙になった顔である。駅の売店で見かけた表紙の彼の顔が、あまりにも素晴らしく”良い顔”だったので思わず魅入ってしまったのだった。それは、写真家の腕以上に彼の中にあるなにかが、自然ににじみでてまれなる良い顔にしていると直感した。その時には、後に空前のベストセラーになった彼の著書が評判になっていたとは知らず、芸能人とも思われず、サッカー選手にも見えない、20歳そこそこで「AERA」の表紙に抜擢される彼は、なにをしている青年なのだろうと強い印象を残した。
その後彼の本を読み、彼の育った環境や考えを知り、度々マスコミに登場して活躍する姿を見るにつけ、これまでブログで彼のことにふれる気持ちはいっさいなかった。それが、私流の良い顔にほれた男性への礼儀だったのだが。

その乙武さんが、教師になるという。
そのニュースに接して、なんとなく気になっていた。不図、今朝も彼のことが頭にうかんだところ、新聞のめったに観ないテレビ番組表の「いつみても波乱万丈」で彼の名前を発見する。
久しぶりの乙武さんの会話は、あいかわらず楽しくてうまい。トークの達人と言ってもよいくらい、何度も笑わせてくれ、そして考えさせてくれた。
彼の著書が空前のベストセラーになったのは、彼のご両親の教育や彼の内面の魅力もさることながら、ルックスがよく、話もうまく、そしてやはり早稲田大学在学という三拍子そろっていたことにもあると思う。美談だけではなく、人をひきつけるキャラが人気の秘訣だ。

番組中印象に残ったのが、小学校時代のある担任教師が校内で車椅子を使用することを禁止したエピソードだ。真冬の校庭で車椅子なしで立つ彼をあまりにも気の毒に感じた他の教師の助言に耳を貸さず、「今彼を可愛がることよりも、彼の将来を考えるべきだ」と厳しく接したという。お尻が冷たくつらかったそうだが、その恩師の教えにより彼は肉体を鍛えられ階段を登るようになったそうだ。彼の小学校で使用した机は、使い勝手を考えて特別大きく、さらに鉛筆が落ちないように周囲が少し高くなっている。それは彼を甘やかすことなく、けれども思いやりの満ちた机である。
また高校受験を控え、合否もわからないうちから高校の目の前のマンションを購入したり、わんぱくな彼を謙虚に育てるよりも本来の我を強く自由にふるまわせる選択をしたご両親の話、中学校時代バスケットボールに入部してドリブルを練習して試合に出場したエピソード。キューバーの偉大な野球選手に接して、自分はこうあるべき人間から逃げていたと考え始めたこと、楽しい話題の中に真摯な生き方をのぞかせる乙武さんは、やはり私がほれるのも当然の青年だったことに安堵した。彼を美化する気持ちはない。話ぶりや視線から、意外なほどきかん気な部分や弱くもろいところもあるごく普通の青年ぶりものぞく。それでも、彼は魅力的な人間だ。

周囲の人々に恵まれたのも彼の努力に負うところもあるだろう、大学時代、突然自分がこの世に生まれた意味を考えバリフリーの活動をはじめ、誰もが卒業後は福祉関係の仕事に従事するだろうという予測をうらぎるスポーツライターの道を選び、そして今教師への転進。
杉並区が教師としての活動でぶつかるであろう困難を、100リストにあげて解決方法をともに模索して採用した彼への期待は大きい。今後は、マスコミに登場する機会はへるだろう。だからこれまで封印していた乙武さんを語りたい。
なにをするにも”「五体不満足」の”という冠がついて語られる(上の朝日新聞の見出しもそうだったのだが省略)彼が、その冠の重さに負けずに彼にしかできない仕事をやり遂げていただきたい。この春に新しい生活を迎える方にエールを贈りたい。

2007.04.14 Saturday

『素粒子』

素粒子3世界の真理は、その入口を発見することからはじまる」
昨年のドイツ映画祭で見損なったこの映画の冒頭は、このアインシュタインの言葉から始まった。映画のタイトル=メッセージ性をもつ「素粒子」は、あたかも天才物理学者が舌をだして笑っている写真と同じような一風変わった不可思議なタッチで幕を閉じた。しかし、風変わりゆえに無難な万人向け映画とは異なる個人的なこの作品は、嫌悪を感じながらも心を激しくゆさぶる力がある。一人の評論家が観終った後に号泣してしまったと言っていたが、ある種の男性には、まるでぼろぞうきんがねじれたような苦しさを与えるだろう。だから、観る価値おおいにありなのだが。

物語は、ヒッピー生活を送る自己中心的な両親から幼い頃に養育放棄され、それぞれ異なる祖母に育てられた異父兄弟、高校の国語教師の兄・ブルーノ(モーリッツ・ブライプトロイ)と天才的な研究者の弟・ミヒャエル(クリスティアン・ウルメン)、この両者を軸に彼らが辿る愛と性の彷徨と遍歴を描いている。
(以下、内容にふみこんでいます。)

この兄弟の紐帯の役割を果たすのが、性交渉のパートナーも私有財産も共有するヒッピー族のユートピアで暮らし、放浪生活を送る母親である。自分の生き方をすべてに優先するこの母親の自己中心的なパーソナリティが、この兄弟の性的な困難さに後々大きな影響を与える。幼い頃母親から愛を充分に受けなかった兄弟は、それぞれに不幸を抱えていた。
素粒子2兄のブルーノは、妻との満たされない不毛な性生活が、病的ともいえる強烈な性的欲望へと向かう。そこに現れた作家志望の女子学生の熱意を、自分への好意にすりかえてすがるように彼女に救済を求める実質犯罪行為に及ぶのだが、当然の如く彼女に拒絶されたことをきっかけに精神が少しずつ崩壊していく。
一方弟のミヒャエルは、性と生殖をきりわけて考え、性交なしで種の保存を図るクローン技術の研究に余念がない。この数学の天才である頭脳には、正解か否かしかありえない超難解な数式しかつまっていない。女性には全く関心がない。飼っていたインコが突然亡くなり驚くも、それは彼にとっては即物的な生物の死でしかなかった。そんな彼にも、たった一人心に残る幼なじみの女性がいた。その女性アナベル(フランカ・ポテンテ)と故郷で再会してから、これまでの孤独な生活が変わり始める。


やがて妻に離婚されたブルーノは、”愛”を探しに訪れたヒッピー集団のヌディスト村でクリスティアーネ(マルティナ・ゲデック)と出会うのだが、この二人の性交渉がまた尋常ではない。何をもってしてノーマルかアブ・ノーマルかを選別できるものではないが、彼らを通して描いているのがおそろしいまでの現代社会の不毛と孤独である。ここでのブルーノやクリスティアーネは、自然な成り行きでの異性への恋愛ではなく、自分の深い孤独を癒すための”恋愛”に身をささげる。その孤独が深いだけに、恋も激しく、性もまた凄まじくもハードで濃い。またゆっくりだが順調に育みはじめたかのように見えるミヒャエルとアナベルにも、大きな不幸が待ち受けていた。けれども、その絶望を救ったのが、これまで自分の研究にしか関心のなかったミヒャエルの一つの決断である。

素粒子3原作は、世界中でベストセラーになったフランス人作家ミシェル・ウエルベックの同名小説「素粒子」である。原作は読んでいないが、おそらく映画化するには難しい題材だったと想像される。また世界的に評判になった小説を映画化するという難業を成功させた監督は、オスカー・レーラー。彼自身、作家の両親が3歳のときに離婚し、7歳で父に引き取られるまで祖父母に預けられたという。更に東西ドイツ統一後、思想的な主軸を失い92年に自殺した母ギゼラ・エルスナーをモデルに製作した映画『行き先のない旅』を製作するという経歴をもつ。映画の全編に漂うシニカルなユーモアと哀切に満ちたペーソスは、監督と映画の彼らに重なる部分があるからだろうか。ドイツでは実力のある監督ということで評価も高いようだが、本作品が本邦初公開になる。

ブルーノー役のモーリッツ・ブライプトロイは、「ベルリン映画祭2006」で銀熊賞(主演男優賞)を獲得しているが、彼の目の演技には観る者にせまるものがある。『エス』でも精神の均衡を失う青年役を演じて強烈な存在感を残したが、本作品でも色気たっぷりの狂気を見事に演じている。
この映画は、男性の男性のための映画ともいえる。そういう意味では、昨日公開され早くも大ヒットが期待されるリリー・フランキーさんの自伝小説を映画化した『東京タワー』にも通じる。世界の真理の入口は、どこにあるのだろうか。その入口の見つけ方を教えるのが、おおいなる母という存在なのだろうか。
女性観察者としては、クリスティアーネの行動に久々の18禁映画らしいオトナの映画を満喫した感がある。
知らぜらるドイツ映画の実力を知る。

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