千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  
旧館の「千の天使がバスケットボールする」http://blog.goo.ne.jp/konstanze/

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2013.12.15 Sunday

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2007.03.30 Friday

『善き人のためのソナタ』

監視社会がはじまっている。
私の勤務先について言えば、メールは管理職は見ることができるし、社外とのメールは件数をカウントされている。街を歩けば、テロ対策防止用の監視カメラにぎょっとすることもある。しかし自分の知らないうちに最もプライベートな、個人の尊厳に関わることまで監視されていたとしたら。しかもその結果によっては、失職どころか獄中につながれて社会人として抹殺される可能性もあったとしたら。旧東ドイツの秘密警察・国家保安局(シュタージ)は、1949年から89年のベルリンの壁の崩壊まで、実に40年間という長い歳月において国内の反体制を徹底的に監視し取り締まってきた。

1984年の東ベルリン。国家保安省局員ヴィーラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は、常に謹厳実直、ねらった反体制分子に対してはなんの感情もなく冷静沈着に自白させ落としていた。そんな彼に、人気劇作家のドライマン(セバスチャン・コッホ)と彼の恋人である華やかな舞台女優クリスタが反体制的である証拠をつかむように命令がくだる。成功すれば、昇進と登用が待っている。国家に忠誠を誓い信じてきた彼は、このミッションを着実に遂行するためになんの疑いも抱くことなく、彼らの部屋に盗聴器をしかけた。
毎日、毎晩、盗聴器から聞こえてくる恋人たちの生活の音や響きが、やがてヴィーラー自身の心に共鳴していき新しい世界が開かれていくとは予想すらできなかったのだが。
(以下、内容にふみこんでいます。)

本作品のテーマーはみっつある。
まず冷酷な監視社会における恐怖と悲しみである。親しい友人、あるいは家族や恋人だと信じていたはずなのに、実は監視されて密告されていたという事実を知った時の衝撃と苦しみ。(これは映画でも照会されていたが、ベルリンの壁崩壊後に個人情報を本人に限り閲覧できるようになり、その結果、上記のような事実に接し人間不信に陥る人が多く出現した。当然だろう。)そして睡眠妨害などの拷問、あるいは家族を守るために友を売る行為に、人を追い詰めていく当時の東ドイツの体制の恐ろしさを淡々と静かに描いている。

次に共産主義とは言いながらも、支配する人間と支配される人間が構成する完全なる権力のヒエラルキー社会における恐ろしさと虚しさ。生殺与奪の権利を手中におさめた権力者の悪魔のような欲望の前に、虐げられた人間はあまりにも非力である。生きるために権力者にひざまずく彼、あるいは彼女たちを責めることができようか。あまりにも残酷な仕打ちに、自らを生涯責め続ける被支配者層の悲しみもまた深い。

ヴィーラーとドライマンは、近い世代の同じ国家の男性でありながら、すべてにおいて対称的に描かれている。ストイックな生活そのままに無駄な贅肉がいっさいないヴィーラーと、ネクタイを嫌う長髪でほどよく年相応のあぶらののったドライマン。多くの友人が集まり、音楽とお酒と楽しいプレゼントではじまり、そして叶恭子さんドイツ版のような恋人ととの激しくも情熱的な抱擁でおわったドライマンの誕生日。それを屋根裏でひっそりとひとりで盗聴するヴィーラー。
それは単に体制側と芸術家でもあり自由な反体制側というモデル像との対比を強調しているだけではない。
ドライマンの部屋は友人から贈られた楽譜からの美しい音楽を奏でられるピアノ、壁は様々な蔵書に囲まれ、誕生日のプレゼントが無造作にのせられた机があり、そこからは親しい友との会話のさざめきが満ちている。一方、盗聴をおえて帰宅したヴィーラーの部屋は、実に簡素で最低限の生活必需品以外なにもない。勿論、彼を迎える女性の姿もない。
ヴィーラーは、盗聴器を通してそこから溢れてくる生活の華やかな音楽に耳と心を奪われていく。音楽、自由な思想、詩、そして愛する人との語らい。それは、彼の知らなかった、彼のもたざるものだった。
「生きる歓び」
初めてそれを知った彼は、心がふるえた。
それは、確実に彼自身を変えた。

この映画の主役は、なんといってもヴィーラーである。娼婦とあわただしくコトをすまし、名残惜しげに彼女をひきとめるヴィーラー。出世の道を完全に絶たれ、地下室で黙々と郵便物の開封作業をし、最後には街の片隅でひっそりと郵便配達夫になっていたヴィーラー。彼はすべてを失った。それでも彼は、生きる歓びを知ったことで後悔はない。私は宣伝で強調されている監視社会の恐怖よりも、この”生きる歓び”の感動が重要な三つ目のテーマーだと感じる。
センスのよい邦題「善き人のためのソナタ」がいきてくるラストシーンは、33歳の監督の才能を遺憾なく発揮している。
この映画を観ていない人には、映画好きと言わせたくない。
★★★★★

2007.03.29 Thursday

ブログの時代―旧館「千の天使がバスケットボールする」より

05/3/14

先週の「週刊文春」で真鍋かおりさんやヤクルト球団、古田選手らの人気ブログの記事が掲載されていた。ブログをやるのは自己顕示欲というのが文春の分析。

何故、自分はブログをはじめたのだろう。以前の自分の性格から考えたらありえなかったことだ。ブログを書いて公開するということは、自らの心のストリップに近いものがある。そんなことは考えるだけでもおぞましいという感覚からの不特定多数への”仮面の告白”というこの跳躍は?

職場環境が変わったこともあるかもしれない。以前は、仕事がら手のあいた時は「週刊ダイヤモンド」「週刊東洋経済」「エコノミスト」「選択」という雑誌を読むことで経済や時勢の情報収集ができた。また男性社会だったために、その手の会話もできた。ところが、今は仕事も含めて諸々が180度かわり、職場は殆ど花盛り?の女性ばかり。政治や経済の話なんぞしたら浮いてしまうぞ。そんなわけでブログでささやかな知識ながらも、文章をおこすことによって世の中の流れを感じていたい、朝から夜まで時間に追われる日常で自分を見つめ、自分と向き合う時間をつくるためにものを書いていこうというのが確信犯の動機だ。

それから、先日の検察審査会の親睦会で現審査委員長に、初回の「裁判員制度に反対の立場をとるもの」という自己紹介から私のような女性は100人に一人もいないだろうと声をかけられた。言葉は悪いが論理的な思考ができそうだからできない男よりもよっぽど役にたつというのが一応の真意らしいのだが。そういう発想そのものにちょっと男女差別の意識が含まれているのは充分自覚されているので、その点については言及せずに「ただの変人なんですよっ」と笑い飛ばした。
考えてみると、だいたいこどもの頃から自分はマイノリティ派だった。(天邪鬼ともいえるかもしれないが)クラシック音楽が好きだという趣味じたい、もはや絶滅種に近い。けれども、gooだけでも154453の膨大なブログの群れから、興味のあるテーマーや共通の話題を検索していくと共感できるブログにお目にかかれるのが予想外の発見だ。しかも読んでいておもしろかったり、内容も素晴らしいブログに出会うことによって、ブログをはじめてよかったと思える。

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