千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  
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2013.12.15 Sunday

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2008.03.15 Saturday

『草原の輝き』

青春大人」は18歳?世界では主流だけど…

大人になるのは20歳のままがいいのか、18歳に引き下げた方がいいのか。社会で独り立ちが認められる成人年齢を20歳と定めた民法を変えるかどうかの議論が11日、法相の諮問機関「法制審議会」で始まった。「最近の若者は……」という年長者の嘆き節は古来変わらないが、いまどきの若者は成熟しているのか、いないのか。
法制審で議論されるのは、親の同意がなくても契約や結婚など大切なことをひとりでできる年齢を20歳から18歳に引き下げてもいいのか、という点が軸になる。
いまどきの若者はそれほど十分に成熟しているのか。成人年齢の議論で必ず出るこの質問を専門家にぶつけてみた。
精神科医の斎藤環氏(46)は「今の日本人が精神的に成熟するのは、30歳から40歳ではないか」と言い切る。ネットカフェ難民や若年ホームレスなど、望まずして、取り残された若者は少なくない。「なのに、成人年齢を18歳に引き下げれば、そうした若者がさらに追い込まれてしまう」
同じ精神科医の香山リカさん(47)は18歳への引き下げに賛成だ。「大学2年目、就職して2年という中途半端な時でなく、高卒と同時にするほうが分かりやすい」。一方で、若者が成熟していると考えているわけでない。「大人になっても親に寄生し続けるパラサイト・シングルが増えている。親も親で、30歳、40歳になった子にべったりと依存する親もよく診察に来る」。もはや成熟=成人と考えること自体が無理だと実感している。
世界を見渡すと、成人年齢の主流は18歳。ただし、18歳成人の国でも「飲酒は21歳」「運転は16歳」などと許可年齢はまちまちだ。 (08年3月14日朝日新聞)

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成人年齢の民法改正の是非に向けて審議会が始まった。
農家のイエの後継ぎだった祖母は、18歳でママになった。新米パパになった元祖イケ面の祖父は、その時20歳になったばかり。成人になる前に、親になってしまったふたりだが、当時の田舎ではそんなもんだった。農作業と同時に、子孫を残すことも彼らの重大な任務。
日本人の晩婚化がとまらない。これには様々な要因があるが、種にとっては迷惑な話である。人間は、思考する脳をもったために、自分の肉体の主体は自らの存在であると思い勝ちだが、生物学上の種を主体に考えると、個々の肉体は種を継承するための乗物に過ぎない。文明の発達により、10代半ばに発情期を迎える生物の計画と現実の社会にタイムラグが生じてきている感もある。

(以下、映画の内容にふれております。)
1961年制作のこの映画の舞台は、更にさかのぼり1920年代の米国中西部の街。まもなく高校の卒業を控えたバッド(ウォーレン・ベイティ)とディーン(ナタリー・ウッド)は、周囲もうらやむくらいのカップル。ふたりは感情面でも肉体的にも充分成熟しているのだが、欲望を理性で自制してキスをして別れる毎日。ディーンの母親は、SEXに対して罪悪感をもち、ひとり娘の処女を失うことを”汚される”とひどく恐れている。一方、バッドの方は、石油発掘業を営む父から男らしい理想の息子を期待され、愛しているディーンと結婚して牧場をやりたい彼の気持ちに関心を示さず、エール大学に進学して法律を学び石油会社に就職することを説得する。おまけにディーンではなく、もっと軽い女性と遊べばよいと性欲の処理までアドバイスする。その父親らしい?アドバイスのせいではないが、バッドはとうとう別の女性と関係をもってしまうのだが。。。

私が知っている米国は、性の開放がすすんだウーマン・リブ、最近ではジェンダー理論の最先端を走る国だったのだが、映画『愛についてのキンゼイ・レポート』で、米国はむしろ禁欲的でずっと保守的な考えが支配していた国であることを知り、おおいに開眼した次第である。そして、自慰すら禁じる厳格な父の存在からの自立が、この映画のもうひとつのテーマだったのだが、『草原の輝き』も女である長女(バッドの姉)を軽視して、ひとり息子に期待する父親像が描かれている。バッドの父親は、仕事の事故から脚を悪くしてしまったコンプレックス(男らしさの喪失)の裏返しとして、ひとり息子のバッドにスポーツでの花形選手であることと、学業面では名門エール大学の進学を期待する、というよりも自分の理想の男の雛型を押付ける。開拓民の保守的だが、ステレオタイプの米国の父親像が映画ではよく描かれている。そんな父に復讐するかのように、荒れた生活をして、次々と父親の絶対気に入らない男たちと関係を結んでいく姉。そしてもうひとつ重要なのが、ディーンの母親の存在である。娘の幸福を願うといっても、狭い地域社会で世間の目を気にしながらなんの教養もなく、視野が狭く裕福なバッドと処女のままゴールイさせることしか考えていない。倉持三郎氏の著書「『チャッタレー夫人の恋人』裁判」によると映画が公開された1950年代の欧米では、性交自体すら快楽とは別な、こどもをつくるための妻が我慢しなければならない結婚上の儀式とわり切る女性も多かったことを考えると、ディーンの母親は平凡な雑貨やのおかみさんである。
若いふたりが、芽生える自我と両親の期待を裏切らないよいこどもとの対立に痛々しいまでに苦悩する姿は、あくまでも清潔であり青春の輝きに満ちている。バッドがそんな父を本当の意味で超えたのは、自殺した遺体を抱いて連れて帰ると警察官に伝えた私が最も気に入った場面である。

ふたりの道は、わかれてしまった。
しかし、最後にふたりが再生して再会するシーンが作品の価値を名作におしあげている。バッドのこどもを抱くディーンの表情、そんな彼女を見てすべてを悟るあきらかにバッドにふさわしくないイタリア移民の妻、そしてバッド。
「君に会えてよかった」
ディーンにめぐりあったことの喜び、不幸にもわかれてしまったことの悲しみをのりこえて再会できたこと、しかし、その”出会い”を過去形でしか語れない現実の生活。このセリフには、万感せまる思いが溢れてきた。
残念ながら、レッドパージに協力した過去の傷のために、ハリウッドは監督のエリア・カザンを歓迎しない。しかし、彼の作品は、今もその輝きを失っていないと私は感じる。観方を変えれば、性衝動に悩む思春期の青年たちのメロドラマに陥りがちな筋書きを、優れた作品に仕立てのは、ウォーレン・ベイティとナタリー・ウッドの花美しい美貌だけではない。やはりエリア・カザンはハリウッドを代表する名監督だったのだ。

あまりにもベタなタイトルで敬遠していたのだが、時代の陳腐化も感じることなく、今見ても全く色あせない永遠の青春映画と言ってもよい。タイトルに使用されたワーズワースの有名な次の詩の一節に共感できる方にとっては。

「Splendor in the Grass」

Not in entire forgetfulness and not in utter nakedness.
But trailing cloud of glory do we come from god who is our home.

Though nothing can bring back the hour of splendor in the
grass, of glory in the flower, we will grieve not.
Rather find strength in what remains behind.

In the primal sympathy which having been must ever be.
In the soothing thoughts that spring out of human suffering.
In the faith that looks through death.  
Thanks to the human heart by which we live, thanks to its
tenderness, its joy, its fears.
To me, the meanest flower that blows can give thoughts that do
often lie too deep for tears.

草の輝くとき 花美しく咲くとき 
ふたたび それは還らずとも 嘆くなかれ
その奥に秘められし 力を見出すべし

■アーカイブ
・『紳士協定』
JUGEMテーマ:映画



2013.12.15 Sunday

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