クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録
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2007.12.29 Saturday
1957年、凍てつくような冬のウィーンの「オペラ・ホテル」。このホテルのナイト・ポーターとしてひっそりと身を隠すように暮らしていたマックス(ダーク・ボガード)の前に、二流のホテルには不似合いな上質の一組の夫婦が訪れた。若手の世界的指揮者アザートンと、その妻ルチアだった。決して出会ってはいけないふたり。第二次世界大戦時、マックスとゲットーの責任ある親衛隊員として権力をふるっていた彼によって、倒錯した性の愛玩物として生き延びたルチア。20年の歳月を経て、彼らは偶然にも再会してしまったのだが。。。
10代の少年愛を連想させるやせた美少女、指揮者の妻として上流階級にふさわしい教養と美貌をたたえる30代の女性。ふたりの「ルチア」を演じたシャーロット・ランプリングは、この1作で小娘だった私を完全に圧倒した。映画『愛の嵐』は、私の生涯のベスト10に入る忘れない映画である。しかも”忘れられない”映画としても。
かってゲットーで性的ななぐさみものとしてかろうじて命拾いをしてきた少女が、富と名誉と愛する夫と妻としてのオーラに満ちた威厳ある美しさと安息と、、、人生におけるすべての望みを手に入れたのに、ルチアのとった選択とその後の行動を、私は観念からも感性からも不可解さと謎を抱えてきた。けれども、今は衝撃的だったこの映画を、背筋が粟立つほどの感覚とともにわかる。
小池真理子さんの最新作「望みは何と訊かれたら」を読んでから。「望みはなに」これほど、挑発的でエロティックな会話はない。
本書の主人公、沙織は音楽事務所を経営する夫とともにパリにやってきた。健康的で健全な人柄の夫と大学院生のひとり娘と家庭。都内にある「モネの庭」と友人に誉められる庭のある自宅。金色の秋の穏やか光のような50代半ばを迎え、あいた時間にふらりと訪れたギュスターヴ・モロー美術館で偶然にも再会した秋津吾郎。沙織の脳裏には、30年前の学生時代、革命を夢見た時代のシュプレヒコール、凄惨な事件、学生運動を通じて出会った人々、そして吾郎と暮らした密室での悪夢ようで幸福だった半年間が一気に押し寄せてきた。
あの時代。同じく作家である夫の直木賞受賞を祝った時、豹柄のおそらくカシミヤと思われるノースリーブのニットからのびたきれいな腕を夫にそえて喜んだ女流作家は、ずっとその作品のどこかに、私の知らない”あの時代の空気”をただよわせてきた。けれども、小池氏は私の中では、美人で、だからこそ”知的”を売りにしている流行作家。おもしろいと思いながらも、いかにもブンガク好きに気に入るようにうまく作品をまとめることに長けてきた作家だった。しかし、女性らしい感性の泉をたたえ、あの時代を真正面にとらえながらも決して全共闘世代を喜ばせるだけのノスタルジーな安易さや、後半に吾郎との関係に軸足を移すことで時代の検証に陥ることなく、また中島みゆきの歌『時代』を知らない世代にも充分共感できる歎美さを提供して、彼女はざわざわと嵐のように人の心をゆさぶる傑作をうんだ。本書にまみえて、心が騒がない者がいるだろうか。林真理子さんに並ぶ単なる流行作家ではなかった。私は、彼女の溢れんばかりの感性の泉にどっぷりとつかって、読書の醍醐味を堪能した。
「排泄」「無機的」「無限の宇宙」「差別的体質」「階級闘争論」「暴力革命」「戦士」・・・1ぺーじ、1ページをめくっていくと貴婦人のような蝶のように硬質でひんやりとした文体が、あの時代の雰囲気と空気感を運んでくる。しかし、最近はやりらしい携帯小説の貧しいオハナシからはかけ離れた濃密で官能的な物語がくりひろげられ、ページをくる手がもどかしくも読むのがもったいないような高揚感。恋などない、友情もない、まして愛情すらなかった吾郎との初めての性交の描写は、まるで”官能”という言葉をはじめて知った感すらあった。骨太でありながら、しなやかな筆力に、一気に物語に入り込んで、その世界にとりこまれていく。そしてふたりの理性もなく、動物の排泄のような性と社会性を排除した密やかな息をひそめた死と隣り合わせの暮らし、ここでようやく映画の中の『愛の嵐』の中で首に鎖を繋がれたルチアに感受性をゆだめることができたのだった。
沙織は、そこそこの出世、名誉や富、波風たたない社会生活や家庭生活、そんなものを結局のところ、どうだってよいと思っている。つまり物事の本質、人間性の本質にしか興味がないタイプだ。おそろしいことに、沙織は数年後、数十年後の自分に重なってみえてくる。いや、むしろ20歳の時、P村のアジトから脱走してきて吾郎に拾われて命を繋いだ沙織は、もうひとりの自分かもしれない。
「人々は、本当のところ、何を考え、何を想い、何を欲しがり、何にこだわりながら生きているのだろう」
豊かな時代に生まれ、お金さえあればなんでも買える。傲慢な言い方をしてしまえば、たいした努力もせずに、望むものはそこそこに手に入る。けれども本当に自分が”望む”ものはいったいなんだろうか。その望みこそが、生きることの本質的な意味の問いである。
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小池真理子『望みは何と訊かれたら』
再び「あの時代」を背景とした小池真理子の作品です(2007年10月、新潮社)。僕
(オジ・ファン・トゥッテ♪ 2010/01/15 10:36 PM)
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実際の彼女と話をしてみたら、どんな風に感じるだろうなあ、と興味があります。
いよいよ大晦日となってしまいました。
来年も樹衣子さんの記事を楽しみにしています。
良いお年をお迎えくださいね。