千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  
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2013.12.15 Sunday

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2007.12.01 Saturday

『チャタレー夫人の恋人』裁判 倉持三郎著

ちゃ『レディ・チャタレー』の映画は、言うまでもなくお子ちゃま立ち入り禁止の18禁映画である。
この映画では、どこが、その部分なのかと期待する?18禁映画好きの私でさえ、ここまで解禁か!、と正直、感にたえるくらい最近の映倫による寛大な配慮であった。但し、ある場面の一箇所だけ”微妙に”ボカシがあり、映画評論家の土屋好生氏などは「無粋なボカシがこっけいだ」とのたまってはいたが、私はそうは感じなかった。ボカシがさりげなく、また観客には明確に見えなくても充分”そのカタチ”を理解できる展開だったからだ。たとえて言えば、翻訳小説を×××と伏字にすることなく、直截的な単語をさりげない表現に変えて翻訳しているという印象に近い。映画の芸術性は、かろうじてそこなわれていなかったと私は判断したい。

昭和32年3月13日、原作のD.H.ロレンスの『チャタレー夫人の戀人」は、最高裁判所において訳者の伊藤整と出版社小山書店の社長小山久二郎が、猥褻文書領布罪の有罪が確定された。この裁判が、後々話題になるのも「猥褻か藝術か」という言葉が世間で流行になっただけでなく、日本国憲法第21条の表現の自由をめぐる最初の重要な裁判だったからだ。ところが、我が国で有罪となった小説は、英国や米国でも同じように起訴されたのだが無罪になっていた。あれから50年の歳月がたち、
英語か日本語かの語源の違いがあるにせよ、判決の分水嶺を検証したのが本書である。

そもそも数値で表示できない猥褻の基準とはいかなるものか。
当時の日本では、判定の判断基準として次のヒックリン判定基準(Hicklin test,Hicklin rule.Cockburn’s test)を採用していた。

(現馥發粒暗事実を関連性のなきものとして、文書中の言葉をもつ傾向だけから
∧現颪里錣い擦弔隼廚錣譴詆分を判断材料として
1洞舛鮗けやすい人々の道徳を退廃させるかどうか

による。
要するに小説全体の作品から吟味することなく、部分的な単語や文章を俎上にあげて、精神的に未成熟なお子チャマたちの道徳心を失わせて将来への道を汚して過てる危険性があるかどうか、ということになると思う。日本と英米国の判定の違いは、このヒックリン判定基準を使用したか、否定してそれにかわる基準を採用したかにある。
英米国では、文章の一部分をとりだして、猥褻か否かの論議を行わなかった。陪審員は、小説のすべてを読み、全員が有罪としなければ、猥褻に該当しないと決定した。これは、日本の近代画家で著名である青木繁の教科書にも載っている「海の幸い」の絵画を、全体を観ることなく、局所のみとりあげて猥褻と判断することと同じではないだろうか。
あらためて感じたのが、私は伊藤整の端正な文章が好きだが、本書でも紹介されていた原書の訳は、伊藤整らしくそこはかとなく品がある。
また「チャタレー夫人の恋人」は、産業革命がおこったことにより、労働者が資本家によって人間らしさを失った機械の一部にように使役されていることへの作者ロレンスの怒りが、人間らしさのひとつの表現として、有名なコニーとメラーズ(第3稿の森番の名前)による雨の中を裸体で駆け回り、森の中で性交する場面につながると私は考えている。(この点で、映画『レディ・チャタレー』のコニーや森番役が、ハリウッドの女優や俳優のようにつくられた完璧な裸体ではなく、自然な裸体だったこともキャスティングがよかった。)
米国の裁判官は、むしろ好色的な興味に訴える作品というよりも、この小説を人間性をゆがめる階級制度が重要なテーマだとした。
しかし、当時の日本の映画倫理規定管理委員会の委員長によると、森の中での行為も勿忘草を互いの体に飾る描写も、噴飯もので変態行為となってしまう。(私なんぞ、だったらたとえ変態と謗られても、映画のような美しい自然の中でアンナコトやコンナコトをしたいと妄想するのだが・・・。)また検事も小説の12箇所をひとつずつあげて、猥褻であると証言させ、その他は、単なる埋め草に過ぎないとした。

日本が、性行為や性器が描かれていることをとり上げて猥褻としたのに比較し、米国の裁判官は逆に性教育をするためには性に触れないわけにはいかず、性教育は”影響を受けやすい人々”にとって大切であるという判断基準もあった。そして英国では、表現の自由は明文化されていないが、性行が人間の結びつきの根拠であるとされ、E.M.フォスターも高い文学的価値があると証言している。(生涯同性愛者であることを隠し、名作「モーリス」を生前発表しなかったフォスターのこの時の心境を考えると、なかなか興味深いものがあるのだが。)

今読み返すと、どこが猥褻と判断されたのかといぶかしげる人々が殆どだろう。当時は、単に頭がカタイというのではなく、ヒックリン判定を採用したことと、性に対する考え方が欧米に追いついていなかったのだろうと私は思っている。信じられないことだが、女性にとっては性行為はこどもをつくるために我慢する汚らしい行為だという感覚すら珍しくなかった時代だったのだ。

私は、特別弁護人として登場した福原麟太郎という無削除の原書も読んでいた英文学者の次の証言がもっとも説得力をもって聞こえてきた。
「しめっぽいところがなく、明るい感情を誘うものとなって、あたかも手際のよい彫刻を見るように感心したところがあります。
美しいか、美しくないかが、先決問題であります。つまり、猥褻という場合は、美しくないことです。・・・ロレンスに関しては、ただ美しいと感じられた。」
美の概念は、ひとそれぞれで抽象的である。また美しさに流されてはいけない時もあるだろう。しかし、ロレンスの小説の芸術的な美しさがわからなかった人々によって、本書は猥褻という帯で永遠に閉じられてしまった。


たやtれ*現在は、伊藤整氏の子息であられる伊藤礼氏によって1996年完訳されて新潮社より出版されている。

■本書を読むきっかけになったアーカイブ
映画『レディ・チャタレー』
映画『パッション』
・・・この映画は、名画を活人画として撮影する監督が主人公だったので、名画の人物になりきる役の人々の裸体が登場する。名画の一部をなにかで隠せないのと同様に、映画の中でも映倫による修正はない。
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