千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  
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2013.12.15 Sunday

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2007.11.23 Friday

『レディ・チャタレー』

ちゃ「チャタレー夫人の恋人」と聞くと、おおかたの男性たちは、下××がうずくそうだが、この小説をめぐって英米国でも猥褻か芸術かで裁判沙汰になり、我が国では「猥褻文書領布罪」で出版社と翻訳をした伊藤整が有罪の判決を受けた。その不幸な出生のためだろうか、D.H.ロレンスの最高峰の文学は、今日になってもスキャンダラスで卑猥な小説として、世間ではしばしば誤解を受ける。高校時代に興味本位で××いりの文庫本を読んだ時は、確かに私もこの作品の素晴らしさを理解できなかった。
けれども、一般的には性愛文学というカテドリーに入るこの小説は、そんなに簡単ではない。物語の舞台になった1920年代の英国の貴族社会の時代背景を考えると、被支配者階級による階級闘争、政治、女性の解放、と個人のセクシュアルなブンガクをこえて社会的な文学という読み方もできる実に奥の深い作品である。ここにいたるまでには、女子高校生も教養と経験を積まなければいけない、か?
ケン・ラッセル監督の『チャタレー夫人の恋人』では、森番メラーズ(ショーン・ビーン)の精悍な容姿の魅力もあり、言葉は粗雑で労働者階級出身ながら教養の深い納得のいく男性としてよく描かれていた。単なる18禁・性愛表現だけではものたりない私の要求にもこたえて、階級闘争の意味合いをちゃんと盛り込んだかなりお気に入りの作品だ。

そして、あの繊細で優れた作家・伊藤整を、その珠玉のような作品よりも裁判で被告人として立たされている情けない写真の方を有名にしてしまった「チャタレー裁判」から50周年になる今年!3つのヴァージョンから、広く知られている3稿ではなく、ふたりが愛を求めていく過程が丁寧に描かれていて人間関係、愛情関係に焦点をしぼった第2稿に魅了されたフランス人のパスカル・フェラン監督により映画化されたのが、『レディ・チャタレー』である。

第一次世界大戦によって下半身不随になった夫クリフォード・チャタレー卿との生活は、夫人のコンスタンス(マリナ・ハンズ)にとっては、生きていながら冬の宮に幽閉された死んだような日々が続く。そんな彼女の身を案じた進歩的な姉の手配により、気難しい夫の身の回りの世話をやくため雇い入れた未亡人のボルトン夫人の献身的な働きもあり、コニーは気分転換に森を散歩するまでに回復した。ようやく春の訪れが感じられる森に黄水仙の花を摘みに行くと、金槌の音がこだましてくる。その音をたどると、晩秋に見かけた森の猟番パーキン(ジャン=ルイ・クロック)だった。彼女の脳裏には、その時の体を拭いていた彼の上半身裸の姿がうかんでくる。そして、その時のときめきと苦しくなるくらいの胸の鼓動を思い出した。。。

このあまりにも知られた物語を映画化するにあたり、監督が考えたのが性愛の描写である。
監督によると性愛の表現には3つのパターンがある。
.ラシックな表現・・・行為そのものを見せずに、例えばベッドの中にはいって光が消える。こういう表現も私は好きなのだが、監督によると性行為に含まれている活力やパワーが感じられない。
▲櫂襯痢ΑΑγ砲竜’修叛的興奮を満たすための経済市場の産物。(確かに、このタイプの映画で描かれる女性像は、男性にとって都合のよい性的な動物だと思う。シルビア・クリステル主演の『チャタレー夫人の恋人』が<××解禁版>の路線のハシリだろうか。)
6畭絮撚茲砲ける性表現・・・『愛のコリーダ』『ピアニスト』を芸術的だが、死に向かう性行為として描かれていて、自分の経験が反映されていない。
それでは、フェラン監督の考える性表現は、肉体がどのように結ばれ、どのような対象が生まれていくかの過程を描くことである。

初めての交わりの後、お互いに「こうなると思っていた」と微笑みあうふたりには、まだ自分の欲求を満たした満足感しかない。やがて、森小屋で逢瀬と体を重ねるうちに、コニーの方からパーキンの体に触れ、×××を見たいと言う。それに、はじめはためらいながら応えるパーキン。そして、森の緑に囲まれて××××で体を重ねるふたり。今日では、格別なことがない二人の関係の進行だが、宗教上、性交が子孫繁栄の生殖行為だった時代、妻が夫の欲求にこたえてこどもを生むための存在だったことを考えると、物語が性的に満たされないブルジョア階級の女性と使用人との不倫という見方は、全くあてはまらない。有名な雨の中を裸で走るふたりの表現も欠かせないが、私はふたりが初めて一晩をともに過ごす場面も重要だと考える。それまでの昼間の”情事”から、階級をこえてふたりが本物の愛を成就させる場面であるからだ。
翌朝の淡い光の中で、ベッドのシーツにくるまったコニーが窓を開けるパーキンの姿を見て、
「あなたの×××って、××××××木の芽みたいね。」
とからかう。ふたりは、一線を超えて肉体的にも魂もひとつになった。

監督監督が女性という意外に予備知識のないまま鑑賞したのだが、純真で無垢なコニーが人間らしく解放され、真実の愛にたどり着き、またナイーブで孤独癖のあるパーキンが生きる希望を見出していく過程、映画では、ふたりの関係が丁寧に繊細に描写されている。夫の車椅子を坂道で後ろからふたりが押す場面では、並んだふたりの手がさりげなく写る。レースの手袋をした優しいコニーの手。労働で鍛えられた武骨なパーキンの手。ふたりの手には階級格差があるが、クルフォード・チャタレー卿によって妻として、召使として支配されていることには変わらない。
ハリウッド映画が音楽を意図的に効果音として使っているのに比較して、本作品では音楽に意味をもたせている。映画を鑑賞しながら、この女性監督をしみじみとインテリだと感じた。またコニーを演じたマリナ・ハンズは、こどもらしい純真さをもちながら、自分の価値観で物事を考えるという原作のイメージに顔立ちも体型もふさわしい。森の猟番が頭部の薄くなった太目の中年だということになかなかなじめなかったが、ラストの場面で彼の起用が生きてくる。ショーン・ビーンのような女性を魅了する顔や体だったら、コニーの選択の本質を見出せないまま鑑賞してしまう可能性が大きい。この映画では、社会性よりももっと純粋な男女の愛情を描いている。


「生は優しく、静かだ。しかし私たちが手にする事は出来ない。(中略)優しく、自分を捨て、真実にして深い自己の充溢をもってするならば、私たちは他者に近づくことが出来、最良の、そして最も繊細な生を知ることが出来るだろう。それが触れるということだ。地面に触れる足、木に、生き物に触れる指。手に、胸に触れること。体全体に、他者の体に触れること。情熱に満ちた愛の相互貫入。これが生だ。私たちが存在する限り、私たちが皆生きているのは、触れることによってなのだ。」
―D.H.ロレンス「チャタレー夫人の恋人−第2稿」


精神的に生きる力を失ったコニーの、森の猟番の裸体を初めて見た時の胸の動悸が、静寂でみずみずしい生命感溢れる森の中で、性、さらに生への躍動に変わっていく。
予想外に寂しい観客数だが、私にとってはかなり評価が高い作品である。恩師の妻を奪いドイツに逃れたD.H.ロレンスの最後の傑作は、やはり20世紀最高の性愛文学という評価にかなう。再読しよっと。

監督:パスカル・フェラン
2006年フランス製作
「チャタレー夫人の恋人」裁判・・・倉持三郎著
JUGEMテーマ:映画



2013.12.15 Sunday

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22:53 | - | - | -

コメント

こんにちは。

とても読み応えあるレビューですね。
僕はこの映画の「花」に感応しました。
森の中、テーブルの上は言うまでもなく、
チャタレー夫人が着ている服の柄、
そして最後に体を飾るのも花。

これによって映画がエロス一辺倒ではなく
あたたかな情感に包まれたものになった気がしました。
2007/11/25 9:01 AM by えい
>えいさまへ

コメントをありがとうございます。いつもフォーンとの会話を楽しく読ませていただいております。
外国文学を殆ど読まない私にとって、「チャタレー夫人の恋人」は好きな小説です。

「花」。
そうですね!全く気がつきませんでしたが、花にも意味がありますね。

>あたたかな情感に包まれたものになった気がしました。

最後の場面で、私もコニーと一緒に泣いてしまったのは、えいさまがおっしゃるようなあたたかな情感に包まれたためかもしれません。
それでは、今年も「無人島に行くならこの10本」のアップを期待しております。
やっぱり映画は、青春映画ですか。^^
2007/11/25 11:21 AM by 樹衣子

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『レディ・チャタレー』
(原題:"Lady Chatterley) ----これって「芸術か猥褻か」のチャタレー裁判で有名な 小説の映画化だよね。 「うん。実はその原作には3つものヴァージョンがあるらしい。 で、今回はその中の第2稿が基になっているんだって。 ぼくは、この小説を読んだことがないから チ
(ラムの大通り 2007/11/24 9:06 PM)
D・H・ロレンス原作の「レディ・チャタレー」を観た!
解説: イギリスの文豪D・H・ロレンスの代表作にして、赤裸々な性表現が日本でも裁判ざたとなった問題作を21世紀の新解釈で完全映画化。監督は『a.b.c.(アー・ベー・セー)の可能性』の女性監督パスカル・フェラン。下半身不随の夫を持つ一方、森番の男と肉体を重ねる
(とんとん・にっき 2007/12/04 10:00 AM)
映画『レディ・チャタレー』を観て
94.レディ・チャタレー■原題:LadyChatterley■製作年・国:2006年、フランス■上映時間:135分■日本語字幕:松浦美奈■鑑賞日:11月23日、シネマライズ(渋谷)■公式HP:ここをクリックしてください□監督・脚本・台詞:パスカル・フェラン□脚本・台詞
(KINTYRE’SDIARY 2007/12/29 1:32 AM)
レディ・チャタレー
森の中 歓喜の息吹に 木霊する   何故に今、改めてチャタレイ夫人なんだろうか。いや、チャタレイじゃなく、チャタレーか。実際にカタカナ表記がチャタレイよりもチャタレーであるべきかどうか、それは知らないけれど。  この「レディ・チャタレー」、なんか
(空想俳人日記 2008/01/13 10:57 AM)
<レディ・チャタレー> 
2006年 フランス・ベルギー・イギリス 135分  原題 Lady Chatterley 監督 パスカル・フェラン 原作 D・H・ロレンス「チャタレイ夫人の恋人」 脚本 パスカル・フェラン  ロジェ・ボーボ  ピエール・トリヴィディク 撮影 ジュリアン・ハーシ
(楽蜻庵別館 2008/11/21 11:05 AM)

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