千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  
旧館の「千の天使がバスケットボールする」http://blog.goo.ne.jp/konstanze/

<< July 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

2013.12.15 Sunday

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています


| - | - | -
2008.05.19 Monday

『太陽の雫』

しゃいん12歳ひとりの少年が、生まれ育った村を後にブタペストに向かっている。19世紀も終わる頃のことである。彼は非業な事故で亡くなった父のかわりに母や弟たちを養うために村を出たのだ。しかし彼のこころは、父の遺品である秘伝の薬草のレシピを記されたノートを胸に、生まれたての朝露のように瑞々しく希望に輝いていた。少年の名前は、エマヌエル・ゾネンシャイン。その一族の印である名前には、日の光、太陽、喜びという意味がこめられていた。
やがて少年は、醸造所で勤勉に働き、結婚もして25歳で独立。父の秘伝レシピで”サンシャインの味”と名づけた薬草酒を製造して一代で財をなした。
長男イグナツ(レイフ・ファインズ)、次男グスタフにも恵まれ、また亡き弟の遺児である娘ヴァレリー(ジェニファー・エール)をひきとり、厳しくも愛情深く育てたのだった。やがて物静かなイグナツは法律家、闊達なグスタフは医学を修め、美しい娘に成長したヴァレリーは発明された写真に熱中するのだったが・・・。

これは、大河小説のような壮大な映画の物語の序章のほんのさわり。主役演じるレイフ・ファインズが、判事として皇帝とオーストリア=ハンガリー帝国に忠誠を誓い、自分を捨ててまで腐敗した体制よりの厳しい判決を行い、出世の階段を登って行くのだが、肝心な妻の愛を失うイグナツ、そしてイグナツの次男アダム、そのアダムの息子イヴァンと3代に渡ってなんと3役を演じきった、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代の君主政治から共産主義、第二次世界大戦や1956年のハンガリー動乱という激動の時代をこえたユダヤ人のゾネンシャイン一族の一大叙事詩の映画である。
ハンガリーの歴史に翻弄される一族にユダヤ人を設定したことにより、民族の中の人種、ユダヤ人の悲劇、自らのアイデンティティや誇り、個人の成功と失墜、という幾重にも折り重なった人間性のひだが、激動の時代を背景に映画に奥行きと深みを与えている。



太陽フェンシングで頭角を現し、ユダヤ人である差別をのりこえて同化して、ベルリン・オリンピックでハンガリー代表選手として祖国に金メダルをもたらし、一躍国民的英雄として喝采をあびたアダムだったのだが、結局独裁政治の広告塔に利用され、戦争がはじまったらユダヤ人であるという理由だけでゲットーに強制送還される。おりしも北京オリンピックの開幕もせまっているのだが、現代でも、共産主義国にあっては、世界大会でのスポーツでの成果は国威掲揚をもたらし、またそれに貢献した選手は広告塔に利用されることではかわらないのではないか。

父アダムを目の前で拷問されて亡くしたイヴァンは、戦後は共産党に入党して、とりつかれたようにファシスト狩りを行う。彼の厳しい追及の成果を認められ、若くして少佐に登用されるが、実はなんの罪もない父のような上司であるクノール(ウィリアム・ハート)を追求する役割を言い渡される。とうとう良心にさなまれ、警察をやめる決意をし、その後民主化運動に身を投じることになる。

なんと言っても、3役を演じたレイフ・ファインズの演技力が映画の成果におおいに貢献している。顔立ち、姿勢、体格、どれも風格がありながら、繊細な神経で一途な魂にふさわしい。そして魅了されるのが、若き日のヴァレリーを演じたジェニファー・エールの柔和で幸福な笑顔である。唯一、残念なのが、英語圏の英国人によるハンガリー映画の印象がして、ここはハンガリー語を聞きたかった。また冒頭の最初の5分だけで、お金をかけた丁寧な映画つくりに感心する。映画の中のハンガリーの風景は、どこをきりとっても、どこまでも、泰西名画のように美しい。法律家のイグナツが皇帝の謁見する場面、アダムがフェンシングの試合をする会場や練習場、3人の男たちが夢中になる女性と密会するカフェ、、、つくづくヨーロッパ、ハンガリーの至宝のような美しさに何度もため息がでる。贅沢三昧の王室がもたらした大衆への貧困は、罪であろう。それにも関わらず、”美”という遺産は残した。
またイグナツとグスタフ兄弟の妹ヴァレリーが、扇の要のような存在になっている。彼女は、事実そのままを写真に残している。そこには、男達がめざす出世への欲望も復讐も野心も憎しみもない。ただ、ただ、あるがままの肖像である。歴史の波にのみこまれても、自己に忠実に、自分を裏切ることもなく見失うこともなく生きた彼女は、だから人生は美しいのだ。大切なのは、秘伝のレシピよりも、そこに生きてきた人生である。
181分間、ハンガリーの歩みをともにたどりながら、あっというまの100年だった。

監督:イシュトヴァン・サボー
制作: ハンガリー、カナダ、ドイツ、オーストリア (1999年)


■こんなアーカイヴも
・映画『ハンガリアン』
・ハンガリー人のおおいなる夢の実現
・映画『コンフィデンス 信頼』監督:イシュトヴァン・サボー
JUGEMテーマ:映画



2008.05.17 Saturday

『譜めくりの女』

ふピアニストが観てはならないのがこの映画。と言ってしまうと大げさかもしれないが、このとってもよくできたポスターをご覧になったら、ある程度音楽の知識のある方は、なんとなく鋭い音感でふたりの関係が想像つくだろうか。同じ黒い色のドレスを着た世代は違えどそれぞれ魅力的な女性たちは、”美人ピアニストによるデュオ”ではない。フランスの人気ピアニストと”譜めくりの女”である。ピアニストの黒は、華やかに音楽を盛り立てるためのドレスであり、彼女のために楽譜をめくる女性のドレスの黒は、めだたず邪魔にならず、その存在するできれば消したいための色である。
彼女達の視線が示すとおり、妙齢の女性がピアニストのアリアーヌ(カトリーヌ・フロ)で、暗くミステリアスな若い女性が楽譜をめくるために雇われたメラニー(デボラ・フランソワ)。
(以下、内容にふれております。)

メラニーは、ピアニストになることを夢見る少女。肉屋を経営する両親の期待のもと、コンセルヴァトワールの入学試験を受けるまでになったが、あるちょっとしたことをきっかけに動揺して実技試験に失敗した。彼女は、ピアノの蓋に鍵をかけて、ピアニストになる夢を封印したのだった。歳月が過ぎ、メラニーは短大を卒業して高名な弁護士ジャン・フシェクールの事務所に採用され働くようになる。ジャンが息子トリスタンの世話をする女性を探していると聞き、自らその役を申し出る。ジャンの妻は、あの時の実技試験の審査委員長であり、メラニーの憧れのピアニスト、アリアーヌだったのだから。。。


ふめ音楽に心理劇を融合させたサスペンス映画となるが、冒頭のメラニーの父親が仕事で豚肉の塊を切る場面から、入学試験への繋がりがうまく、いやがおうでも緊張感が高まる。この映画は、恐怖よりも、むしろ実技試験を受ける緊張、プレッシャーからくる緊張感に、観客も一緒になって我々一般人が我が身にも覚えのあるハラハラやドキドキをいやでも掘り起こされる再現ドラマである。だから、ピアニストは、観ていても寿命が縮まるだろう。
たった1回の受験の失敗でピアニストをあきらめる少女メラニーの心理や、あのくらいで動揺するようでは所詮ピアニストは無理、そもそも恨みの矛先を間違えていないか、という疑問が、展開していく意外なふたりの関係に思わず目が点となり、それもフランス風と解釈できなくもない。
室内楽でピアノを弾くためには、譜めくりをする方が欠かせない。あの譜めくりも、タイミングをあわせるのがけっこう難しいらしい。抜群のタイミングでそっと楽譜をめくる音楽知識や経験も要求され、できれば大柄でなく小柄でめだたない方という体格の注文から、決してとなりで観客のように音楽を体で聴いてしまってはいけないなどなど。ピアニストは神経質で繊細だからね・・・。
ピアニストが主役で、本来補佐役の譜めくりなのに、繊細な音楽家としての神経をもったアリアーヌは、理想的な譜めくりをしてくれるメラニーに依存していき、彼女がいないと演奏ができなくなり、やがては支配されていく。以前の私だったら、そんなことありえない、と一笑に付しただろうが、青柳いづみ子さんの「ボクたちクラシックつながり」を読むと、ピアニストになるのはとってもとっても大変なのに、ピアニストになれてももっと別な意味でもとってもとっても大変なのがわかるから、アリアーヌの”あがる”現象や、メラニーに翻弄されていくのも、痛々しく同情できる。だから、ピアニストが観たらその痛さがつらいと察せられる。
アリアーヌの弁護士である夫と可愛い息子と住む郊外の邸宅が、本作品でも見どころである。広い緑の芝生。英国ほどクラシック過ぎず、米国流の成金趣味でもなく、イタリアほど甘いセンスに走らない、シックで洗練されたインテリア。その瀟洒で夢のような屋敷の女主人は、アリアーヌ。けれども、その資産のすべては、弁護士である夫のもの。離婚されたら、彼女は息子をおいて、身ひとつで出て行かなければならない。妻の演奏の出来栄えを鋭く批評する夫は、彼女にとっては一番厳しい判定士である。地位も名声を手に入れ、すべてのピアニストを夢みる少女の”生活と人生”を手にいれていても、そこにあるのは人知れず孤独を抱えているゆるやかに老いに向かっている女性の姿だ。
夫が、ピアニストという肩書きや才能がなくとも彼女を愛しているのなら、もっと多くの友人に恵まれていたら、アリアーヌはメラニーの罠に落ちることはなかっただろう、というのが私の感想。メラニー役は『ある子ども』で注目をあびたデボラ・フランソワだが、すっかり成熟して綺麗だが近寄りがたいミステリアスの役を好演。

京都にも半年間滞在していた経験もあるヴィオラ奏者で音楽大学の教授でもある監督のドゥニ・デルクール。多くを語らず、静かで余韻があり、観客に余白を書いてうめることを求める作品は、一昨年のカンヌ国際映画祭でも評価が高かったそうだ。
でも、やっぱりピアニストにはお薦めできないのだが・・・。

監督・脚本:ドゥニ・デルクール
2006年フランス制作

JUGEMテーマ:映画



2008.05.13 Tuesday

SMAP×SMAP「特別編 ザッツ・ジャパニーズ・エンターテイメント 蘇る日本映画黄金期」

今年のこどもの日、「SMAP×SMAP」という番組の「特別編 ザッツ・ジャパニーズ・エンターテイメント 蘇る日本映画黄金期 」で草剛さんがナビゲーターを務め、戦後まもない1950年代の日本映画黄金時代を代表する世界的にも評価されている3人の名監督、小津安二郎、溝口健二、黒澤明の作品を紹介するという好企画の番組が放映された。

広末涼子さんが演じる映画を愛する1953年の新聞初の女性記者を主人公に、芸能人の私生活中心の記事を書くライバルや、男尊女卑で映画を理解していない上司、彼女を応援する後輩という人物背景を中心に、主人公の批評が理屈っぽいと酷評されることへの悩みや葛藤を、当時の時代を再現したドラマが間にはいり、映画への夢と戦後の復興期の希望すら感じられるという物語自体にもひきこまれた。
す最初に紹介されたのが、小津安二郎監督。
畳の目を感じさせないローアングル、登場人物が全員正面を向いているカメラワーク、市井の人々の日常を描きながら、その映像は今観ても独創的で新鮮な感じすらする。「東京物語」(1953年)、「晩春」(1949年)の映像の一部が流れたが、妻の葬儀の後の笠智衆演じる初老の父親の孤独な姿、婚期をのがしかけた娘が父に挨拶する時の原節子の花嫁姿の華やかな美しさ、、、私も大好きな映画なので映画の内容を思い出しながら胸にせまる思いがした。


す2次が3年連続ベネチア国際映画祭を受賞した溝口健二監督。
ジャン=リュック・ゴダールをして好きな監督は「1に溝口健二、2に溝口健二、3に溝口健二」と言わしめた監督である。
溝口監督は、演技に大変厳しい監督で名女優の田中絹代も、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した『山椒大夫』撮影中では、ワンカットを何時間もかけて演技をして疲れきったところを本番に採用したというエピソードととものその名場面も紹介された。また同じくヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を取った『雨月物語』は、幽玄な映像で京マチ子の存在感がたっぷりである。


す最後は、文字通り日本映画界を代表する黒澤明監督。
もはやこの方の作品は、説明不要だろう。(私もクロサワを語りはじめたらとまらない・・・)
『七人の侍』の戦闘シーンは、何回観ても驚くほど迫力あるが、ハリウッド映画に対抗するためにあえて雨を降らせて撮影したとのこと。水しぶきを浴びる馬や兵士の脚が泥水をはねる場面が、緊迫感を盛り立てていることに気が付く。ハリウッドだけでなく、多くの映画監督にも影響を与えた。

最後は、その小津と溝口両監督に「天才」と称えられた清水宏監督の映画を石井克人監督が、完全カバーした映画『山のあなた〜徳市の恋〜』も。結局、この新作映画の宣伝目的かと思われる部分もなきにしもあらずの特別編だったが、ドラマと古典日本映画入門編としてはよくまとまっていた。

最近、日本映画は復活していると聞く。それにしては、寂しいことに私が観たいと感じる映画が少ない。それは何故かと考えているのだが。
ところで、映画とは、あなたにとってなんでしょうか。
小津安二郎監督は、こう応えている。


「泣かせる映画ではなく、人生を感じさせられる映画をつくりたい」
JUGEMテーマ:芸能



2008.05.10 Saturday

『ラフマニノフ ある愛の調べ』

らふ漫画の「のだめカンダビーレ」のおかげで?、ここのところ一気に知名度のあがったラフマニノフさま。
と言っても、みんなが聴きたいのはピアノ協奏曲第2番。ラフマニノフさまの本名がセルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Сергей Васильевич Рахманинов)で、その生涯はあまり知られていない。かく言う私も、ピアノの名手で手が大変大きかったこと以外(中村紘子さん情報)、その生涯は不覚にも存じ上げていなかった。
ごめんなさい、ラフマニノフさま!
ロマン派ピアノ協奏曲の金字塔とも言える第2番は、まさしくロシア的な重さと暗い華やかさを感じさせるのだが、ラフマニノフは1917年のロシア革命を逃れて、翌年アメリカ合衆国に亡命して以降、生涯故郷の大地を踏むことがなかった。


ろ1920年、ニューヨークのカーネギー・ホール。米国の裕福な紳士・淑女が正装してこの哀れなロシアから亡命してきた天才ピアニストにして作曲家のラフマニノフの演奏を、今か今かと待っている。舞台に登場したラフマニノフの表情は、憔悴してやつれているが、その素晴らしい演奏は米国人に熱狂的に歓迎された。その成功を何よりも喜んだのは、彼自身よりも、従妹の妻であるナターシャと演奏をバックアップしているスタンウェイ社のマネージャーだった。次々と依頼のくるコンサートをこなすため、ラフマニノフは列車に乗って、米国中を演奏旅行することになり、その成功がもたらした名誉と賞賛、それにも関わらず資産が増えるのに比例するように、彼は日々いらだちがつのっていくのだが。。。

らふまるで神からの使者のような音楽家が生み出した作品の美しさと深さに反発するかのような、ここまで暴露?しちゃっていいのか人間くさい彼自身の素顔を描くセオリーは、これまでもモーツァルトの生涯を描いた映画『アマデウス』やベートーベンの『永遠の恋人』『敬愛なるベートーベン』などの成功でお約束済み。本作品も、女性たちに性的にも翻弄されちゃっているキャラのラフマニノフが描かれている。ただし、妻の座をいとめたナターシャ(ビクトリア・トルガノヴァ)だけは、生々しいベッドシーンはなく聖母のように気高く賢明で献身的、という理想の女性像にしているのがポイント。実際の事実を脚色して「すべてを捧げた初恋、短くも美しい恋、支え続ける愛、ラフマニノフの人生を変えた3人の女たち」というフレーズで読むとおり、女性好みの女性のための作品と言えよう。確かに天才のインスピレーションに影響を与える女性、そして野球の落合監督や野村監督のように夫をコントロールしてお仕事をさせるデキタ女房は、天才の天賦の才能を活かすために必要な人材であるのは古今東西、共通である。映画に登場する3人の女性は、それぞれに魅力的で天才の作品に寄与しているのだが、演じているロシアの女優さん達はそれぞれに新鮮な印象がある。さらに、写真で観るとおり、ラフマニノフ役のエフゲニー・ツィガノフがよく似ていて演技力もある。(顔のタイプで言えば、同じく幼なじみと結婚しているメドベージェフ新大統領に近い。)花束を抱えて夢中になっている年上の恋人アンナの自宅を訪問する時のドアの開け方など、初めての恋に舞い上がる男の熱気と欲望、そして天才の集中力を感じさせてなかなか見応えがある。また、時代の変遷とともにナターシャの髪型や化粧、衣装がモダンに変化していく姿が、ロシアの初夏の美しい風景とともに楽しめるのも女性好み。
らふ幼い頃の両親の離婚と没落、作曲に集中したいラフマニノフとピアニストとしての表現者にこだわる恩師との確執、スタンウェイ社との共同がもたらした彼の人生に影響も与える音楽界の商業主義、ロシア革命によって祖国を捨てなければならなかった彼の想い。本作品では名曲を飾る短いフレーズに過ぎなかったこれらの事実を、別なかたちでフォルテすると全く異なる映画もできただろう。だから、あくまでもこの映画の主旋律は、ラフマニノフではなく、強いロシアの女性たちである。ラフマニノフさまの才能の扉を開花させる鍵を握っていたのは女だろうか。
嗚呼、、、「女」というコルセットをしていても、たかが女、されど女は強し!

監督:パーヴェル・ルンギン
2007年ロシア制作

JUGEMテーマ:映画

2008.04.30 Wednesday

『Sex in a Cold Climate』

昨秋、エルミタージュ美術館で鑑賞した膨大な絵の中でも印象に残ったのが、ティツィアーノ・ヴェチェリオによる「 Tiziano Vecellio 悔悛するマグダラのマリア(Maddalena penitente)」である。娼婦に身を落としながら後に悔悛したマリアを描いた「マグダラのマリア」像の中でもこの絵は、最も人々に親しまれている絵画だろう。
映画『マグダレンの祈りは、このマグダラのマリアにちなんで、19世紀より食べるために堕落した娼婦になった女性を更正させるための施設、マグダレン修道院にまつわるTVドキュメンタリー『Sex in a Cold Climate』を観て、衝撃を受けた英国人俳優のピーター・ミュランが映画化をした作品である。レンタルDVDで、実際に放映された番組も観ることができた。
まぐ番組では、かってマグダレン修道院に収容された4人の女性へのインタビューに、若かった頃の彼女たちや修道院の様子が写った写真の映像が流れた。
1番の罪は、未婚の母。2番目は噂。元々娼婦救済と更正施設として開設されたマグダレン修道院は、1940年代になると大半は未婚の母や、ふしだらと疑われた少女の収容所となっていった。避妊の知識もなく、避妊が認められない国で、心ならずも未婚の母になってしまった女性たちは、「一家の恥じさらし」と家族に捨てられ、福祉制度もないまま、まるで刑務所のような修道院に押し込められた。親戚の家を訪問した帰り道に、従兄弟から強姦されたにも拘らず「お前に必要なのは罰だ」と責められ、またある女性の場合は、長く美しい髪とひとめをひく容貌のためにふしだらと疑われてそれだけで14歳で連れて来られたのだ、。収容された少女の主な仕事は、「淫らな罪」を償い心をきれいにするという名目もかねた重労働の洗濯である。Aさんは、アイロンかけのために、入所わずか1ヶ月で腕に静脈瘤ができてしまった。運営者は修道女で、アイルランドの村社会では、カトリック教会の教えは単純で厳格。神父や修道女の存在は絶対であった。物や人に興味をもってはいけない。またここではプライバシーもなく、洗濯室で全裸にさせられ、修道女から肉体的なことを嘲笑された。
「申し訳ございません」「許してください」
恐くて、自分の言葉で意見を語るのは到底無理だった。「更正」という目的で施設に入れられた彼女たちを待っているのは、「指導」という名目の虐待だった。
そして「世間体を失って生きる価値のないおまえたちは、ここに一生いろ」
ただ、修道女たちから言われたとおりにするだけだった。

次々と紹介される修道院の少女たちは、同じ洋服、エプロンに身を包み洗濯をしている。隣接している孤児院には、自分たちのこどもも収容されているのだが、授乳の時期を過ぎると会うことは叶わない。掟を破ると、折檻が待っている。
またある女性は懺悔室で懺悔をしている途中に呼ばれて行くと、神父が下半身を露出していたなど、性的な虐待を度々受けた。

悲しいことに、無事脱走や理解ある親戚から救出された女性すらも、修道院で過ごした生活のために、外の社会への適応することが困難であることだ。
神父から性的虐待をずっと受け、性的な知識もないため、結婚してもSEXを罪悪視して受け入れる準備がなかなかできない。人に見られるたびに自信がない。また救出された後に小学校の教師になったある女性は、修道院でずっと束縛されてきたおかげで、二度と束縛されたくないために生涯を独身で過ごす決意をした。こどもを養子にとられた女性は、後に別の男性と結婚してこどもを産むのだが、修道女たちの”教育”のおかげですりこまれた観念によって施設にいたことを50年間家族に隠しつづけた。家族の理解と尽力により念願だった長男と再会できるまで、どれだけの歳月が去っていったことだろう。
10ヶ所あった施設の最後が閉鎖されたのが、1996年。今世紀だけで約3万人の女性が生活していたと推測される。
彼女達に共通するのが、教会に対する根強い憎しみである。教会には絶対に行かない。修道女は、修道服を着た悪魔。修道院で人間としての尊厳もプライドもすべてを失った。
そう語る老女の涙に、教会は今日に至るも沈黙している。


JUGEMテーマ:映画



2008.04.29 Tuesday

『マグダレンの祈り』

まぐ有閑マダムさまが、日本人は、敬虔なクリスチャンという言葉に弱いとおっしゃっていたが、まさに不埒で不信心な私は、敬虔なクリスチャンと聞いただでけで、まぶしい目で見ちゃったりなんかする。しかし先日『尼僧物語』を観て、勿論それだけでもないが、宗教の善し悪しなども考えたりもする。教会が絶対の権力をもつ存在であることの弊害、そして信仰の道を極めるという選択をした信心深い神父・修道女たちによる虐待と非人道的な”善行”を暴いた映画が、実話に基づいた映画『マグダレンの祈り』である。

1964年のアイルランドの寒村。結婚式にわきたつ村人たち。マーガレット(アンヌ=マリー・ダフ)は、従兄弟に声をかけられ別室に行くとそこで強姦されてしまう。泣きながら友人に相談をすると、またたくまにその話が父親や神父たちに知れ渡る。少女のマーガレットは、なんの落ち度もない性的な暴力を受けた被害者である。しかし、祝宴のさなかに、おとなたちの彼女を見る目。そこに宿っているのは、蔑みと嫌悪だった。
翌日の早朝、1台の車がやってきて、マーガレットは行き先もわからず連れ去られた。窓から何も知らない弟が不安気にその様子をのぞくが、両親は何も応えず冷たい。
彼女が収容されたのは、ダブリン郊外にあるマグダレン修道院。未婚の母となったローズ(ドロシー・ダフィ)や、一目をひく容姿が堕落を招くという理由だけで連れて来られたバーナデット(ノーラ=ジェーン・ヌーン)とともに、ここでマグダラのマリアのように自らの罪を悔悛するための生活を送るように、修道女のシスター・ブリジットに言い渡されるのだったが。。。


まぐ未婚の母になることが罪なのか。男性の性的な興味をひいてしまう生まれついての美貌が罪なのか。アイルランドは厳格なカトリックの国であり、婚前交渉、堕胎、避妊すら比較的最近まで認められなかった国である。1995年、国民投票で離婚がかろうじて合法的になったこと事態、日本人としては驚きすら覚える。
本来人を救うべき宗教がもたらしたこのような歴史的な事実こそ、罪そのものであると言ったら過言だろうか。
彼女たちは、単に体を覆うための目的の茶色の囚人服よりも劣る服を着せられ、肉体の穢れを洗う目的もかね、一日中過酷な洗濯をさせられる。私語がいっさい禁止なのは、『尼僧物語』と同様。違うのは、与えられたルールを破ったら、待っているのが修道女たちによる体罰である。いや、むしろ体罰というよりも”虐待”である。家族や友人とも会うことすら叶わない。脱走した娘を殴り、修道院に再び連れ戻す父親に言わせれば、娘は「一族の恥」だからだ。洗濯場で全裸で並ばせられ、肉体的な特徴を嘲笑し、尊厳を踏みにじる修道女たちを前に、抗議することも泣くことすらも忘れた彼女たち。映画を観ながら、刑務所よりも地獄だとつくづく感じる。映画の中では、慈悲深く賢いローズのような未婚の母もいるが、こうした立場になる女性たちの中には、実は軽度の知的障害があり、またカトリックの性教育の禁止の教えからも性行為の意味すらわからないまま妊娠してしまった女性も多いということがわかる。3人の少女たちに深く関わることになるクリスピーナや、老いて死ぬまで終生修道院の中で過ごした女性もそうである。彼女たちは、権力のある修道女によって、すりこまれた命令に服従し、淫らな罪深い女であるという言いつけを忠実に守る人格のない単なる奴隷に過ぎない。

しかし、監督自身もカトリックの信者であり、ローズ役を演じたドロシー・ダフィも敬虔なカトリック信者であることから、宗教そのものを批判するのではなく、信仰によってゆがめられた人間の罪を告発するものである。劇中、映画の上映会が催されるが、雛人形のような顔立ちをしたシスター・ブリジットが、『聖メリーの鐘』のイングリッド・バーグマン役の修道女に自身を重ねて感動の涙を流す場面は、閉塞した社会で絶対の権力をふるううちにゆがんでいく心と唯我独尊に陥る滑稽さを描いている。彼女の執務室の机の上には、米国のケネディ大統領の写真が飾ってあるのだが、収容されている女性たちの労働から搾取したお金を貯めるのが唯一の生きがい。
そしてそんな権力の頂点にたつシスターも、所詮複雑で男性が支配する”教会”の別宅の模範生でしかならない。
女性の立場で鑑賞すると、主人公たちだけでなく、修道女を演じた女優たちも、精神的につらい映画ではなかったのではないかと想像される。そんな彼女達の熱演に報いたのが、2002年のヴェネチア映画祭金獅子賞受賞であろう。

19世紀に、元々食べるために娼婦に身を落とした女性の更正施設だったマグダレン修道院は、1940年代頃になると家族に捨てられた未婚の母、ふしだらと疑いをかけられただけの少女たちを収容して”更正”という目的の虐待する施設となり、ようやく最後に閉鎖されたのは、1996年のことだった。

監督 :ピーター・ミュラン
2002年:イギリス・アイルランド制作


■ドキュメンタリー
Sex in a Cold Climate

2008.04.22 Tuesday

『つぐない』

つぐ予告編ですっかりその映像に魅せられて、指おり数えて公開を待っていた映画『つぐない』。
それは、期待以上の極上の恋愛映画だった。

1935年の夏の盛り、英国の田園地帯にある政府官僚の屋敷。ケンブリッジ大学を卒業して帰省したセシーリア(キーラ・ナイトレイ)は、退屈と焦燥の日々を送っていた。しかし彼女はいらだちの原因が、幼なじみで一緒にケンブリッジ大学に進学した使用人の聡明な息子ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)の存在にあることに気がついていない。「住んでいる世界が違う」そのひと言で、ロビーを意識のすみに追いやるセシーリア。大学時代も自分の友達を彼から遠ざけ、今夜のディナーにロビーを招待したことに不快に反対するセシーリア。
13歳の妹ブライオニーは、作家志望の多感な少女。帰省してくる兄と友人を歓待するための戯曲の執筆に余念がない。そして窓から、姉とロビーの意地の張り合いから生じたささいな誤解が招いた事件を偶然目撃してしまうのだが・・・。(以下、内容にふれています。)

私は最高の恋愛ものは、やはり「ロミオとジュリエット」だと思う。以前もブログに書いたが、シュークスピアのこの劇においては観客は、幕開けとともにコーラスの語りによって若い恋人の運命を事前に知らされることで、運命に抗う人間の哀しみの痛みに共感を覚え、また同時にいわば高所から知的にその恋の行方を眺めることになる。本作品もあらゆるメディアを通じて、宣伝と批評によってセシーリアとロビーの運命の悲劇をそこはかとなくに知らされているようなものだ。それにも関わらず、最後まで恋愛映画を堪能した満足感は、ジョー・ライト監督や出演者をはじめ、スタッフの力の幸運な集大成であろう。何しろ、映像、美術、演出、斬新な音楽、俳優たちとすべてにおいて非のうちどころがないくらい完璧なのだから。


つぐない冒頭のブライオニーの広い屋敷を早足で歩く足音、蜂の音がかもしだす夏の盛りのけだるい空気、彼女の汗ばんでほのかに上気した頬、そのひとつひとつが濃密な物語の時間をねりあげていく過程にまず驚嘆させられる。そして最も印象的な噴水での場面。最初に屋敷の窓からのブライオニーの視点とともに観ると、確かに観客も一種の誤解を生む。そして時間をさかのぼり、その後にあらためて客観的な視点で見せられるセシーリアとロビーの真相。ここで、我々自身も誤解と思い込みの可能性をとりこまれていく。このように様々な手法で、時間の視点を過去に戻して再現する映像が、斬新でまた意味があり、最後の最後まで凝ったつくりとなっている。
ところで、この場面での濡れた下着で体のラインがあらわになったセシーリアとロビンが一瞬見つめあう映像は、大変魅力的で素敵である。そしてセシーリア役のキーラ・ナイトレイについ魅了されてしまう清潔なエロティシズムがある。
私はこの映画において、キャスティングは重要だと思う。この印象深い場面で、ハリウッド映画が好みそうなスカーレット・ヨハンセン並のセックス・アイコン的豊満ボディをもってきたらどうであろう。やはりここはスレンダーなキーラ・ナイトレイの体が芯の強い清楚さで、その後のロビーがいとおしむように噴水の池の水面をそっとなでるシーンにうまくつながっていると感じる。キーラ・ナイトレイは、最初は、セシーリアではなく本来の主役であるブライオニー役を監督から期待されたのだが、彼女の希望でセシーリア役を演じることに変更された。もしキーラがブライオニーを演じていたら、もっと「贖罪」のテーマに比重がかかり、人間の罪と罰にかかる内面の苦悩とゆるしの問いが心に残ったかもしれないが、美しいセシーリアをヒロインにおくことによって上質の女性好みの恋愛映画の傑作となった。当初は、キーラにつりあわないと思えたロビー役のジェームズ・マカヴォイだったのだが、彼以外のキャスティングはありえないくらい適役。(日本人で言ったら、『眉山』の青年医師役を演じた山本耕司さんに似ている。)この1作で彼は、トップクラスに登ったと言ってもよいだろう。


つぐ3気持ちがいき違って、それぞれの感情を抱えて自室に戻ったふたり。身分の違いと男と女の違いが感じられるふたりの部屋。
ロビーは、誤解と非礼をわびる手紙をタイプライターで綴り始める。切々と恋心を歌いあげるオペラのアリアのレコードをくりかえしかけながら。気持ちをはりつめて、何度も何度も書き直しをするロビー。そんなロビーの映像と、ディナーのために美しく装い物憂げに煙草を吸いながら鏡に向かうセシーリアの映像が交互に流れる。やがてセシーリアを想いながら詫びの手紙を書くうちに、ロビーの表情と心は彼女を恋する感情と人を恋する幸福感がゆるやかに溢れていく。あまりにもこの映像の素晴らしさに感動して、映画館の暗闇で私はこの場面だけを何度も繰り返して観たいと願った。セシーリアのシルクの上品なドレスの深い翠色にすいこまれるように、久しぶりに純粋に恋愛映画を堪能した。今年は、もうこれ以上の恋愛映画には出逢えないのではないか。

・・・そしてつのる想いが書かせた物語の鍵を握るいたずらめいた妄想の秘密の手紙。
『チャタレー夫人の恋人裁判』の時代背景からすると、あの手紙の内容はとんでもなく”猥褻”である。ここで、あえて”猥褻”という言葉を使用したが、私はむしろ”あれ”は、恋する男性の願望の本音であり、恋愛の本質でもあると思う。だから、拒絶せずに手紙を受け入れて涙を流すセシーリアが高貴で美しい。

成長したブライオニーがセシーリアとロビーに再会する場面では、ロビーの厳しい口調だけでなく時系列でも違和感が残ったのだが、その理由が最後にあかされて映画に深みを与えた。
「つぐなう」ためには、つぐなう対象の存在が必要だ。ゆるされるためにも、ゆるしをこう相手がいる。空想の再会をボーナストラックのように用意することで、果たして罪はつぐなえるのだろうか。原作者のイアン・マキューアンは、これまでショッキングな題材を冷徹な手法で描く作家という評判らしいが、一生「つぐない」の重みを背負う老いたブライオニーに作家自身の投影を見る。

ジョー・ライト監督
制作:2007年イギリス映画


■これもすごく好きな映画のアーカイブ
・『プライドと偏見』
JUGEMテーマ:映画



2008.03.25 Tuesday

『パン・タデウシュ物語』

ぱん映画とはなにか。映画は、娯楽か芸術か。

それを説明するなら、この『パン・タデウシュ物語』を1本観ればよい。この映画には、映像だけでなく美術、脚本、衣装、舞台、俳優、そして音楽。映画の娯楽性と芸術性をかねそなえ、尚且つ映画の真髄が、そのすべてが154分にあますところなく凝縮されている。さすがに、アンジェイ・ワイダ監督。
原作はポーランドの詩人アダム・ミツイエヴィチによるポーランド・ロマン主義の最高傑作と伝えられている長編叙事詩『パン・タデウシュ』である。1823年、民族主義運動のために投獄され、その後ロシアに流刑された後、祖国を離れた国民的な詩人は、この美しい詩を亡命先のパリで書いた。
その栄誉ある舞台となったのは、1811年ナポレオンのモスクワ遠征も近い第三次分割でロシア支配下にあったリトアニアの農村。


ぱん平和な田園地帯の広がる村には、小貴族(シュラフタ)であるホレシュコ家のソプリツァ家の両家は、ソプリツァ家のヤツェクがホレシュコ卿を射殺した、20年前の事件から対立していた。そして、それをきっかけに行方不明となったヤツェクの息子タデウシュ(ミハウ・ジェブロフスキ)が、首都ヴィルスでの学業をおえて判事である叔父の館に帰館した。真面目でちょっとテニスの松岡修造氏のようにスポーツが得意で熱い、つまりどこから見ても好青年。そんな彼は、庭先で美しい少女ゾーシャ(実はホレシュコ卿の娘)を一目見て恋におちてしまった。然し、なんたることか、いまだ女性経験のない彼は、晩餐会で隣に座ったゾーシャ(アリツィア・バフレダ=ツルシ)の教育係りであるテリメーナを、あの時の少女だと勘違いをしてしまうのだったが。。。

ぱんゾーシャは、14歳の可憐な蕾みが今にも咲きほころぶかのような野の白百合のような少女。その一方、テリメーナは30歳をとっくに過ぎたタデウシュと変人の伯爵を両天秤にかける”百戦練磨”の熟女。今日、勤務先でスタッフの女性たちが、亀梨和也クンと小泉今日子さんの話題から20歳の年の差の恋バナをしていたが、まさにタデウシュとテリメーナは、この年の差カップルである。どう考えても、あわてんぼうのタデウシュの好きな女性を取違える勘違いはありか?と思うのだが、テリメーナは美乳で美貌を誇る中年女性、しかもこの女性は弁論家で頭がよい。(顔立ちが、デビ夫人に似ている・・・)このような古典的な人物像と設定が、物語にオペラのようなユーモラスさと素朴さを与えてくれる。タデウシュとゾーシャは、お互いに好意をもち、彼らの婚姻こそ、長らく対立の続いた両家のなによりの和解になる。
そして、もうひとつ大切な軸となるのが、若いふたりの恋とふたつの貴族を通して、背景に描かれているのが、祖国、戦争と和解、愛情と憎悪、生と死という普遍的な人間の感情である。不潔で騒々しいモノトーンの暗いパリの街のプロローグが、見事につながるエピローグ。この短いプロローグとエピローグが、物語に陰影としびれるような抒情を与えている。そして、回想にあたる故郷を描くシーンでは、重い雲がたれこむような天候はなく、すべて萌えるような緑がどこまでも続くのどかで美しい田園地帯。たとえ雨が降っても、空の晴れ間がのぞけるあかるさ。この風景のはっきりした明暗の描き方に、私はアンジェイ・ワイダ監督の祖国への思いを感じた。物語のあちらこちらに散らばるほのかなユーモラスさ。誰もが願う寓話の大団円の結末。



ぱん最新流行のウエディング・ドレスにしなさいというテリメーナのアドバイスを泣いて断り素朴なデザインにこだわった瑞々しい若い花嫁は、花婿の農地を農民に譲る素晴らしい提案に賛成した。
この映画はポーランドで公開されるや、熱狂的な国民の支持を受けて記録的な大成功を治めた。
ポーランド人の魂を象徴するかのようなポロネーズの音楽が、いつまでも余韻を残す。

監督:アンジェイ・ワイダ
原作:アダム・ミツイエヴィチ
制作:1999年ポーランド=フランス

JUGEMテーマ:映画



2008.03.23 Sunday

『尼僧物語』

尼僧今年は、オードリー・ヘップバーンが亡くなった15年になるという。最近、女性向け月刊誌で彼女の後半生を紹介している記事を読んだのだが、39歳で貴族出身のハンサムな精神科医との二度目の結婚相手と腕を組んでいる姿、その結婚も破れて最後のパートナーに寄り添っている姿、そのどれもが女優というよりも老婆のように痛々しく見えるのは、私が永遠に清楚で可愛い王女役を期待しているからだろう。。彼女は映画女優としての成功よりも、こどものいる家庭を何よりも望んだでいた。
そんなこどものために華やかな世界に背を向けて家庭にこもていたのに、1988年ユニセフの親善大使に任命されるや、今度は世界のこどもたちのために、世界中を旅するようになった。彼女の任務は、ユニセフの支援する予防接種と飲料水のプログラムを推進すること。その旅は、病をおして最後に訪れたソマニアまで、4年間で128カ国までに及んだ。
映画『尼僧物語』は、後のオードリーの活動に影響も与えたのではないかと思われる『ローマの休日』に並ぶ最も彼女らしい映画である。

ベルギーに住む高名な医師の娘であるガブリエル(オードリー・ヘップバーン)は、家族や恋人とも別れ、尼僧になるための固い決意のもと志願者として修道院に入る。そこで待っていたのは、厳しい戒律。それに堪えられず脱落していく志願者もいる中、ガブリエルは断髪し、恋人から贈られたペンも含めてすべての物、自分の名前すら捨てて、唯一キリストと結婚した正式な尼僧、シスター・ルークとなった。優秀な成績を修めていたにも関わらず修道院に入る前から希望していたコンゴへの派遣は叶えられず、ベルギー郊外の精神病院に派遣されるが、ここで”尼僧として”多くのことを学んだルークは、ついに念願のコンゴに派遣された。
ここで出会ったのが、無神論者の外科医フォルテュナティ博士(ピーター・フィンチ)だった。豪放磊落な性格ながら外科医としての腕は優秀。しかも、激務をこなす彼についていける彼女とのふたり間には、お互いに信頼関係が結ばれていく。医師の信頼をえ、現地人に愛されるシスター・ルーク。
しかし、手術の最中にも、懺悔の時間がきたら手をやすめ、自己を徹底的に抑制して患者にも感情を表現してはいけなかった。
そんな彼女にフォルテュナティ医師は「君はどんなに努力しても尼僧になりきれる人ではない。なによりも自分の意思で考える人間らしさがあるからだ。だからみんなに愛されるが、修道院が期待している理想の尼僧とは違う」と忠告する。神に身を捧げ戒律を守ることと、ひとりの人間としての内面の矛盾と葛藤に苦しむシスター・ルークだったのだが。。。

日本人としては、信者であることと修道院に入って尼僧になることは、同じ信仰でありながらその生活と神へのあり方に随分違いがあると誰もが率直に感じるのではないだろうか。映画を観ているうちに、厳しい戒律にも理論的な説明がされた意味があり、私には理解できたのだが、そもそもガブリエルは、強い信仰心のためにというよりも、コンゴで奉仕することへの目的のための手段として修道院に入った。元々自ら考えてコンゴ入りを決断したキャラクターと”私”を捨てて”無”になることに矛盾はあった。この映画は宗教もテーマとしているが、むしろひとりの女性が人間らしく生きることの意味を取り戻す成長物語である。また外国の映画としては、尼僧になるため厳しい戒律を一生懸命守る主人公の姿を追っているため、非常にストイックな映画に仕上がっている。ほのかに芽生えていると思われる医師との感情も、ここでは思わせぶりな演出さえ排除されている。観客は、黒い僧衣からわずかに開かれたオードリーの豊かで大きな瞳と時々現われる感情のさざなみの表情から、主人公の内面をさぐるしかない。知的で常に努力を怠らず禁欲的で自己を抑制、犠牲にしてまで仕事に尽くす尼僧役は、彼女にこそふさわしい。
唯一、制作から50年近い歳月を経て観ると、アフリカの一部がベルギーへのご褒美となった歴史的な経緯にも原因がある紛争を考えると、先進国である欧州人の発展途上国への施しと、異なる文化への理解よりも自分達の信仰の布教、「エコノミック・ヒットマン」の著者であるジョン・パーキンスの言い方にならえば、野蛮人にキリスト教信者になる機会を与えてやっているのだというコンゴの人々への驕りを感じる面もなきにしもあらず。が、それよりも、ガブリエルの決断した静かなラストシーンに誰もが胸をうたれるだろうことを考えると、本作品は名作である。
先日読んだ「数学者の無神論」で、信者であろうと無神論者であろうと宗教に関わらざるをえない欧米という国を考えたきっかけにもなった時に、この映画を偶然観たことで、深く鑑賞できたように思える。

オードリー・ヘップバーン自身も、栄養失調状態だったこども時代に、ユニセフの前身であるUNRRAによる食料や医療物資の援助を受けた。映画出演によって多くのものをえた彼女は、後半生をそれを世界に還元する生き方を選択した。
最後に訪問したソマリアで、彼女はこう語っている。

「私は私たち自身への怒りでいっぱいです。連帯の罪というものを私は信じていませんが、連帯責任は信じています」

最後にわずかな荷物が入ったスーツケースをさげて歩いていくガブリエルの後姿は、オードリーそのものだろう。

監督:フレッド・ジンネマン
制作:1960年

JUGEMテーマ:映画



2008.03.16 Sunday

『そして、デブノーの森へ』

でぶんーあー、、、何も考えずにヨーロッパの素敵なリゾート地に旅をしたい。こんな映画も観てしまうと、人生一度くらいは、庶民だってリッチでゴージャスな旅行をして散財してみたい誘惑にかられてしまう。

お薦めリゾート地、容逎ぅ織螢
匿名作家のダニエル(ダニエル・オートゥユ)は、自分の作品の批評会をのぞいた後、義理の息子の結婚式の会場であるカプリ島に向かう船に乗る。そこで出逢ったのが、モデルのように美しい若い女性ミラ(アナ・ムグラリス)。一晩の情事を楽しんだ後、何喰わぬ顔で出席した結婚式で彼はミラと再会してしまった。ミラは、その美しい容姿をウエディング・ドレスに身を包み、列席者の誰もを魅了しているではないか。驚愕するダニエル。この日から、偉大なる作家として名声を確立したはずの彼の運命が、ゆるやかに破滅へとすべり落ちていく。

お薦めリゾート地□優好ぅ后Ε譽泪鷂个噺電團献絅諭璽
義理の息子の妻である元モデルのミラは、いったいどこからやってきたのだろうか。ダニエルは、危険を感じながらもミステリアスなミラにひかれて、秘密の情事を重ねてて耽溺していく。

もしかしたら、お薦めできないかもしれないリゾート地⇒ポーランド・デブノーの森へ
ミラの魅力の虜となったダニエルが、最後にたどり着いたのが、故郷の森、デブノーだった。「作家は、他人の人生を盗むもの」その言葉の秘密にこめられた封印された過去。孤独に森を訪れるダニエルを待っていたのが、ミラだった。彼女の最後の目的は何だったのか。それを予感しながら、あえて危険な情事にのめりこんでいく作家。。。

この映画の最大の宣伝は、ミステリアスなヴェールに包まれたミラを演じた”シャネルのミューズ”と言われているらしいアナ・ムグラリス。予告編では、それほど、、、と感じていたが、濃い目の化粧をしたアナ・ムグラリスは、確かにヴェールを脱いだ男性観客向けの裸体も完璧だが、シャネル、フェンディ、セリーヌといった上質で優雅な衣装がおそろしく似合う。そのファッションを観ているだけで、女性にも目の保養と参考になる。しかも、義理の息子役を演じた堕天使がぐれてオトナになったようなジョルジョ・ルパーノ、マダム雑誌の理想的なモデルのような妻のニコレット(グレタ・スカッキ)、登場人物がひたすら美形ばかり。そこにひとり、アルジェリア出身の癖のつよいダニエル・オートゥユが、料理で言えばひきたて役のように美形の中の一点、苦味をもった存在として中心にいる。ここでフランスを代表する名優をもってきたキャスティングに意味がある。
また、彼らは資産家という設定なので、若夫婦の新居、中年夫婦の豪華な邸宅、ダニエルの趣味のよい仕事場、デブノーの森にひっそりと建つ雰囲気のよい別荘。
インテリア、衣装、小道具とハイセンスな上流社会の暮らしぶりが、映画評論家のおすぎさんもきっと気に入るくらいとってもおしゃれで素敵、いやみなく鑑賞できちゃう。つまり、この映画は、謎解きをからめて最後まで観客をひっぱるが、あくまでも妻に貫禄で負けているアナ・ムグラリスの全裸と風光明媚な舞台を鑑賞するための映画である。

冒頭の批評会で、ユダヤ人に関するジョークが披露され、最終地がポーランドの森。もし時代設定をもっと後にしするか、ポーランドの政治的背景を盛り込んだら、もしかしたら映画に奥行きを与えるストーリーも可能だったかもしれないが、”ミューズ”にはその容姿が命であるからして、それも必要ないだろう。
おしゃれな映画だが、トニー・レオンといいダニエル・オートゥユといい、あの年になっても若い女性相手に堂々と脱げるのもりっぱであると妙に感心してしまった。
監督・共同脚本:ロベルト・アンド(Roberto Andò)
製作:フランス・イタリア・スイス/2004年
原題:(伊)Sotto falso nome (仏)Le prix du désir

JUGEMテーマ:映画



▲top