千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  
旧館の「千の天使がバスケットボールする」http://blog.goo.ne.jp/konstanze/

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2013.12.15 Sunday

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2013.12.03 Tuesday

2013年12月1日業務連絡

時がたつ早さに驚くばかりに毎日・・・。
もう年末ではないか!

最近、全然更新していない・・・というわけではありません。
実は、あまりにもSPMのTBが多く、結局、以前のgooのブログに戻ることに致しました。
本ブログは、別館としてせっせとSPMのTBを削除しながら残しておきます。

ご訪問してくださった方へ、こちらの本館にもご訪問いただければ嬉しいです。
本館「千の天使がバスケットボールする」

それでは、今後とも、宜しくお願い致します。

2008.05.31 Saturday

業務連絡

私も出張へ、、、と言いたいところですが、これから京都に旅行に行ってきます。
ここのところ毎月のように旅行をして、ブログの更新も滞りがちなのが気になるところではあります。毎日、晴れたり曇ったり、同じ時間、同じ印象、同じ思いなどないのに。。。

2008.05.28 Wednesday

「楽園」宮部みゆき著

宮部あの『模倣犯』から、9年もたっていたのだ。
主人公の犯人を、私の頭の中では俳優の織田裕二さんに踊っていただいたのだが、その織田さんももう40歳。歳月がたつのは、本当に早い。
他の登場人物の存在がきわだっていたために、少々かげの薄かった前畑滋子さんが最登板しての「楽園」。宮部節は、益々絶好調ではあるのだが。

その前畑滋子をひとりの中年の”おばさん”が訪問する。53歳の萩谷敏子。時代に逆行しているかのように、荒れて節々が太くなった手、汗をふきながら小太りの体を丸く小さくして愚直に訴える彼女の手には、天使のように可愛らしい小学生の息子の写真が握られていた。母子家庭で、貧しい中を懸命に育ててきたひとり息子を、彼女は交通事故で亡くしたばかりだった。ところが、最愛の息子が残した絵には、不可思議な謎があったのだが。。。


宮部ミステリー作家として、独特の宮部節が本書でも効いている。それは、彼女のファンにとっては、「ミステリー」という殺人事件などのグロテスクさや、残酷さ、悲劇に優しさとあたたかさを調和させる魅力となっている。今回は、最愛の息子を亡くした萩谷敏子の存在が、その役割を担っている。もはや絶滅種に近い、本当は賢くて誠実に生きてきた謙虚なおばさんキャラを存分に描きながらも、惜しいかな、上下巻と700ページもありながら、その対極として非行に走ってしまった娘を思い余って手にかけてしまった土井崎夫婦の深層が見えてこない。そして、もしかしたら自分のために姉の存在を両親は封印してきたかもしれないと考える妹の複雑な心理も。これは、前畑滋子の「模倣犯」の後遺症としての心の移りに比重をおいたため、他の登場人物の心理描写がぼんやりしてしまったのだろうか。その真面目で謹厳な夫婦の鵺のような闇が、私にはむしろもっとも恐ろしく感じられた。
仮に、この夫婦にもっと重要な役まわりをさせていたら、「模倣犯」のような社会性にまでふみこんだ大作としての価値があったのだろうが、「楽園」はミステリーの娯楽作品で終わってしまっている。娯楽に徹することができるほど、親の子殺しや、こどもを不意の事故で失った母親の哀しみは表面的ではない。
「模倣犯」で味わった恐怖、被害者側の想像を絶する感情。しかし、現実は、それすらもまるで軽くなってしまうかのように猟奇的で残酷な事件がとぎれることがない。横溝正史の時代から、こんな恐ろしい時代になってしまった現代において、「ミステリー小説」はどこへ向かうのだろうか。不図、そんなことまで考えてしまった。

また論理実証科学主義者の私としては、敏子の息子の「サイコメトラー」という設定は、どうしてもなじむことができなかった。宮部作品のベスト1だと思っている「蒲生邸事件」のようなSFとして読める小説は別だが、全体として中途半端な不完全燃焼で今回は消火してしまった。
宮部みゆきさんは文字どおりの流行作家で、緻密で中身の濃い文章がお好みの私でも、新書が出版されえれば必ず読みたいミステリー作家である。その分、期待や要求が大きいのも事実。それに「模倣犯」「蒲生邸事件」と、すでに最高傑作をうんでしまった作家に、これ以上望むのは酷なのかもしれない。
ただ、前畑滋子センセイと萩谷敏子のコンビはなかなかよいので、このおふたりは今後も再登場する可能性大である。


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2008.05.26 Monday

小林美恵&荘村清志デュオ「舞曲」〜ラ・フォリアからピアソラへ〜

ぶきっかけは、たった1回の共演。
昨年、ピアソラの一曲だけを小林美恵さんと演奏したギターリストの荘村清志さんは、背筋を正されたような衝撃を受けたそうだ。
「この人と演奏していると自分が高められる」
そんな思いで実現した、ちょっと大人向けの粋なヴァイオリンとギターのデュオ・リサイタルの「舞曲」。

荘村清志さんの還暦記念コンサートのための催しなんだが、楽器の性格上、ギターは伴奏役。同じような弦を張っている楽器なのだが、ヴァイオリンが楽器の女王さまのように華麗で表情豊かに歌うのにあわせて、ギターはあくまでもそんなヴァイオリン姫にやわらかくあたたかく、時々情熱をこめて寄り添っていく。しかも、曲はコレルリの「ラ・フォリア」にはじまり、ピアソラの「タンゴの歴史」に至るまで、舞曲、舞、ダンス。


舞曲1900年にロン・ティボー国際コンクール(ヴァイオリン部門)に日本人として初めて優勝して脚光を浴びた小林美恵さんは、その輝かしい受賞歴ながらも比較的地道に演奏活動を積んできたベテラン。「秘めたる情熱」とは、この方にふさわしい。一見、色白で華奢な小林さんは、小学校のセンセイのような真面目で誠実な印象である。その印象どおり真面目で誠実な音楽なのだけれど、芯の強さとしなやかさ、そして情熱を感じさせられたのが今日の演奏。
私のとても好きな曲「ラ・フォリア」では、古典の枠をこえ、映画の『レッド・ヴァイオリン』の最初の場面を思い出させるような、憂いの中にも狂詩曲の情念が漂い、これまでの小林美恵さんのセンセイのイメージを打ち破られた。
ラヴェルの「ハバネラ」は、フランス風の洒落た雰囲気と遊びこころを漂わせながら、きっちりと仕上げる点が、実力者らしい。ハンガリー舞曲は、ギル・シャハム以上の演奏は存在しないので感想は控えるが、バルトークの「ルーマニア民族舞曲」まで、荘村清志さんとの息はぴったりである。
余談ながら、朝日ホールの舞台脇の壁に、おふたりの姿が反射してぼんやりと映っていて、なかなか興が深い。
ファリャの「はかない人生」は、意外にも、と言ってたら失礼だろうか、そこはかとなく色気のある演奏で、この日一番のできだったと感じた。
後半は、権代敦彦さんの委嘱作品(初演)「Mae Nam Khong」水之母である。
メコン川のことらしいのだが、壮大なスケール感もあり、抽象的で哲学的ながら複雑な水の音や泡、流れを感じる曲である。
ところで、ロビーでひときわめだった年齢不詳の小柄な不思議な男性がいた。体の動きがしなやかで、舞台の役者かダンサーか、と妙にクラシックの演奏会ではういていて気になったのだが、なんとその方が、作曲家の権代さんだった!多分、フツーに街を歩いていても、なんとなくゲイジュツカってわかるだろう。


ぶまたこれまで、男性だけの踊り場として認知されていた感のある後半のピアソラ。
女性だって、渋くかっこよくピアソラを演奏できるんだぞ、というちょっと喝采したい気分になった。もっとも、伴奏が還暦を迎えて円熟した荘村清志さんのギターのおかげもあるけれど。このデュオの益々の活躍を期待したい。


********2008年5月25日(日)14時 浜離宮朝日ホール **********
《小林美恵&荘村清志デュオ》 【舞曲】
〜ラ・フォリアからピアソラへ〜
 
コレルリ:ラ・フォリア
ファリャ:「はかない人生」〜スペイン舞曲
ラヴェル:ハバネラ
ブローウェル:舞踏礼賛
チャイコフスキー:感傷的なワルツ
武満 徹:「他人の顔」〜ワルツ
ブラームス:ハンガリー舞曲 5番
バルトーク:ルーマニア民族舞曲
権代敦彦:Mae Nam Khong(初演):委嘱作品
      〜mother of water〜水之母
ピアソラ:言葉のないミロンガ
ピアソラ:タンゴの歴史  酒場1900/カフェ1930/ナイトクラブ1960/現代のコ ンサート


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2008.05.24 Saturday

「雲の都 広場」第一部 加賀乙彦著

くも2Gacktも好きだが、私はけっこう両津勘吉巡査部長のファンでもある。ご存知、秋本治さんによる連載漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公の両さんである。なかでも「こち亀千両箱」に収録されている「あばけ煙突が消えた日」は、文字通り我家の千両箱入り。下町にある4本の工場の煙突が、見る位置によって、3本、或いは2本、1本に見える現象を両さんキャラで抒情的に漫画化するあたり、秋本さんの職人芸に感嘆させられるのだが、その当時評判だったらしいおばけ煙突を「理論によって完全に説明できる現象に詩的感興を覚えるのはばかげている」と一笑に付すのが、東大の医学生である主人公・小暮悠太の友人である。こんなインテリジェンスな会話が、日常会話として成立する悠太をめぐる知識階級の家族が、敗戦後胎動する「昭和」の歴史とともにたどった運命の行方やいかに。。。

本書の冒頭は、その悠太の母の過去の回想とその割烹着と電気パーマの暮らしぶりの主婦らしい文章からはじまる。昭和27年。戦争の傷跡はまだ生々しく、一方、西大久保にある小暮家の周辺は、空襲で焼けた民家が立ち退いた後、次々と米兵相手の性欲を満たすためのいかがわしい歓楽街へと変貌していった。悠太は、競争率100倍の難関をくぐって陸軍幼年学校に入学するも、夏の8月15日に少年の内面の中の”世界”はあえなく崩壊したのだった。そして、彼は今、医学生として亀有にある引揚者寮でセツルメントに関わっていた。セツルメントのハウスには、さまざまな階層の人々が群れる。妻子がいながら過労で倒れる寸前の赤ひげのような医師や彼を支えて泊り込みで働く看護婦、貧しい医療を支援する医学生たちやぼろぼろになるまで働く労働者たち、そしてそれをつぶそうとする政派や雇われている右翼団体まで跋扈している。まさに時代は、敗戦から”血のメーデー”を迎える政治の嵐が吹き荒れていた。

政治家の叔父やそれぞれに熱中する分野を見つけた東大生のふたりの弟、ヴァイオリニストになるために渡欧している妹の央子、初恋の美貌のピアニストの千束や性的関係を結んだ老いた資産家に嫁いだ桜子など、いずれも個性的な人物が往来していく。彼をとりまく人々は、誰もが大きなうねりのような昭和の日本社会の奔流にまきこまれて懸命に生きている。巷では、精神科医でもある著者の自伝的色彩を反映しているとも言われる大河小説である。


くも私がこの本に着手した動機をさぐると、きっかけは光市事件での死刑判決や、先日観たテレビ番組で紹介されていた小津安二郎の映画あたりだろうと推測される。そして最近、今読みたいと思える日本の小説があまりなく、時代に逆行して読み応えのある重い小説ということで、加賀乙彦さんの男らしいが可愛らしさもあるお顔がうかんだのである。この意識下の選択は、正しかった。
現代の少子化、核家族、洗練されたふるまいや言葉遣いに比較して、複雑にいりくんだ家系や隠微な秘密すら感じさせられる血縁関係、労働者や主婦の発想やものの言い方に最初はとまどうのだが、次第にそれが本書の醍醐味になっていって気が付いたら”はまっていく”。昼メロを楽しみにする主婦の気持ちもちょっぴりわかる。「雲の都」シリーズの前半にもあたる「永遠の都」シリーズ(全7巻!)も読んでおけばよかったと後悔。
映画『太陽の雫』や『輝ける青春』での学習効果もあるのだろうか、読んでいてその時代の空気、雰囲気、悠太に恋をする菜々子の走る足から伝わる土の感触、その菜々子にほれていて彼女を救うために逮捕された貧しい浦沢明夫の簡素な室内の佇まいが、まるで映画を観ているように見えてくる不思議な感覚がある。桜子と悠太がひそかにヨットに乗って、千束の屋敷を望遠鏡でさぐる場面は、さながら「太陽の季節」のようなまぶしい雰囲気もあり、メーデーで菜々子が負傷する重要な部分は、暗くて知的なヨーロッパ映画のようでもある。
印象に残るのは、小暮悠太やその学友たちとあまりにも諸々格差のある最下層の労働者たちが、同じ視線で真剣にぶつかりあうことだ。ことに菜々子という不幸な少女をめぐり、彼女に熱烈な恋をして悠太へのコンプレックスを隠さない明夫や、菜々子に性的な衝動を時々感じてしまう悠太は、友人にもなり、男として対立しもしていく。私の学生時代も今でも、「ボランティア」というきれいな関係で、社会の比較的恵まれている若者と底辺をはうように生きてきた人々の接点はある。しかし、本書で描かれている人物像は、誰もが生々しく本音で本気でぶつかりあっていて、所謂”いい人”とは無縁である。人間関係の希薄化が叫ばれる今日を、本書を読めば誰もが実感するだろう。
吉田首相が東大の南原繁総長を「曲学阿世の徒」と痛烈に批判したエピソードの盛り込まれ、つくづく昭和は「政治の時代」だったと感じる。
21世紀の「経済の時代」に生きる者として、その後の悠太とともに昭和をたどりたい。
「スターリン著者集」をゲルピンであきらめる悠太に、おばけ煙突の現象を一笑にふした友人は買うことを「わずかな金で思想の宝庫が手に入る」とすすめているし。

「この世は分厚いタペストリー。表側には胸躍る喜劇が描かれているが、裏側には、同じ図柄が血塗られた悲劇として表現されている。戦争がそうだ。愛国や名誉や勇気の裏側は虐殺と裏切りと冷酷だ。」

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2008.05.21 Wednesday

やっぱり「ニュースの天才」

先日、読んだイアン・マキューアンのアムステルダムは、いわば大衆を操作する立場にあるインテリゲンジャーへの痛烈な皮肉が効いていたが、私の中にひっかかったのは、数枚の写真をめぐるコトの顛末と人々の受けとめ方である。外務大臣という要職にあるガーモニーの若かりし頃のスキャンダラスな写真をめぐる高級紙の編集長と、テレビという活字と映像のメディアの対応の違い、そして受けて側の大衆の反応である。発行部数を伸ばすこととガーモニーを失墜させるためにその写真を利用した英国の高級紙に対し、難病の貧しい娘の手術を成功させた小児科医という立場をテレビ・メディアで利用して、国民の心をつかんだガーモニーの妻は、見事に夫のスキャンダラスな写真を”プライベートな趣味”におさめて勝利した。ここで感じるのが、マスコミの大衆への影響力の大きさとその表裏一体のきわどさと危うさである。
これは、我が国でも「光市事件」において、「テレビ報道・番組が、感情的に制作され、公正性・正確性・公平性の原則を逸脱している」と放送倫理・番組向上機構が意見を発表したことにも重なる。裁判に国民感情を反映させることは是とするが、その国民感情に与えるマスコミのあり方に時々疑問を感じる時がある。

ところで、そんな英国に、ニューズ社の最高経営責任者で、メディア王と呼ばれるルパート・マードック氏が上陸する。
情報誌「選択」によると、ロンドンのフリー・ペーパー紙に「ウォール・ストリート・ジャーナル」の紙面広告が掲載された。「ライバルはうたた寝中。これで君の勝ちだ」
勿論、ターゲットは「フィナンシャル・タイムズ」である。現在、ニューズ社が傘下にもつ主な米国企業は、昨年買収した前述の老舗「ウォール・ストリート・ジャーナル」、映画会社20世紀フォックス、FOX社(テレビ)、出版社ハーパーコリンズ。これだけでなく、欧州、アジアまで広がり、総資産額が約690億ドル、収入は310億ドルにもなる。まさに王国なのだが、お金も大事だが、マードック氏の本気分野は、あまり儲からない「新聞」にあると言う。「言葉を使って人々とコミュニケートするスリル」が醍醐味と語っているのだが、若かりし頃のエピソードを知ると、その本気モードの”スリル”がなんとなくわかってくる。
マードック氏は、オックスフォード大学在学中に父を亡くし、母国のオーストリアの小さなふたつの新聞を相続した。
弱冠22歳で「ニューズ紙」の発行人となったマードックス氏は、自ら取材や編集も行い、「マックス・スチュアート」事件を手がけたことが転機となる。当時、少女殺害で絞首刑になるはずだったスチュアートを、ニューズ紙は有罪を疑問視する報道を大々的に行い、死刑を終身刑に軽減させて彼の命を救ったのだった。この時の経験で、マードック氏は政治や司法界におけるメディアの影響力の大きさを実感した。私だって、光市事件では、メディアの司法のおける影響力を実感しているのだから。その後、合理化を断行し、ポピュリズムを主体とした紙面を貫き、次々と利益を所有媒体の投資にまわして買収を続けて、今日の一代帝国を築いた。
何しろこの方の最終目標は、Gacktさんのセリフではないが、「世界制覇」。77歳、タフである。
それにしてもこの方の一番の功績(罪)は、誰もが言うようにニュースとプロバガンダの区分けをなくしたことであろう。
メディア評論家のロイ・グリーンスレード氏によると
「プロバガンダをしながら利益をあげる天才」らしい。
そういえば、『ニュースの天才』という映画もあったな・・・。

2008.05.19 Monday

『太陽の雫』

しゃいん12歳ひとりの少年が、生まれ育った村を後にブタペストに向かっている。19世紀も終わる頃のことである。彼は非業な事故で亡くなった父のかわりに母や弟たちを養うために村を出たのだ。しかし彼のこころは、父の遺品である秘伝の薬草のレシピを記されたノートを胸に、生まれたての朝露のように瑞々しく希望に輝いていた。少年の名前は、エマヌエル・ゾネンシャイン。その一族の印である名前には、日の光、太陽、喜びという意味がこめられていた。
やがて少年は、醸造所で勤勉に働き、結婚もして25歳で独立。父の秘伝レシピで”サンシャインの味”と名づけた薬草酒を製造して一代で財をなした。
長男イグナツ(レイフ・ファインズ)、次男グスタフにも恵まれ、また亡き弟の遺児である娘ヴァレリー(ジェニファー・エール)をひきとり、厳しくも愛情深く育てたのだった。やがて物静かなイグナツは法律家、闊達なグスタフは医学を修め、美しい娘に成長したヴァレリーは発明された写真に熱中するのだったが・・・。

これは、大河小説のような壮大な映画の物語の序章のほんのさわり。主役演じるレイフ・ファインズが、判事として皇帝とオーストリア=ハンガリー帝国に忠誠を誓い、自分を捨ててまで腐敗した体制よりの厳しい判決を行い、出世の階段を登って行くのだが、肝心な妻の愛を失うイグナツ、そしてイグナツの次男アダム、そのアダムの息子イヴァンと3代に渡ってなんと3役を演じきった、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代の君主政治から共産主義、第二次世界大戦や1956年のハンガリー動乱という激動の時代をこえたユダヤ人のゾネンシャイン一族の一大叙事詩の映画である。
ハンガリーの歴史に翻弄される一族にユダヤ人を設定したことにより、民族の中の人種、ユダヤ人の悲劇、自らのアイデンティティや誇り、個人の成功と失墜、という幾重にも折り重なった人間性のひだが、激動の時代を背景に映画に奥行きと深みを与えている。



太陽フェンシングで頭角を現し、ユダヤ人である差別をのりこえて同化して、ベルリン・オリンピックでハンガリー代表選手として祖国に金メダルをもたらし、一躍国民的英雄として喝采をあびたアダムだったのだが、結局独裁政治の広告塔に利用され、戦争がはじまったらユダヤ人であるという理由だけでゲットーに強制送還される。おりしも北京オリンピックの開幕もせまっているのだが、現代でも、共産主義国にあっては、世界大会でのスポーツでの成果は国威掲揚をもたらし、またそれに貢献した選手は広告塔に利用されることではかわらないのではないか。

父アダムを目の前で拷問されて亡くしたイヴァンは、戦後は共産党に入党して、とりつかれたようにファシスト狩りを行う。彼の厳しい追及の成果を認められ、若くして少佐に登用されるが、実はなんの罪もない父のような上司であるクノール(ウィリアム・ハート)を追求する役割を言い渡される。とうとう良心にさなまれ、警察をやめる決意をし、その後民主化運動に身を投じることになる。

なんと言っても、3役を演じたレイフ・ファインズの演技力が映画の成果におおいに貢献している。顔立ち、姿勢、体格、どれも風格がありながら、繊細な神経で一途な魂にふさわしい。そして魅了されるのが、若き日のヴァレリーを演じたジェニファー・エールの柔和で幸福な笑顔である。唯一、残念なのが、英語圏の英国人によるハンガリー映画の印象がして、ここはハンガリー語を聞きたかった。また冒頭の最初の5分だけで、お金をかけた丁寧な映画つくりに感心する。映画の中のハンガリーの風景は、どこをきりとっても、どこまでも、泰西名画のように美しい。法律家のイグナツが皇帝の謁見する場面、アダムがフェンシングの試合をする会場や練習場、3人の男たちが夢中になる女性と密会するカフェ、、、つくづくヨーロッパ、ハンガリーの至宝のような美しさに何度もため息がでる。贅沢三昧の王室がもたらした大衆への貧困は、罪であろう。それにも関わらず、”美”という遺産は残した。
またイグナツとグスタフ兄弟の妹ヴァレリーが、扇の要のような存在になっている。彼女は、事実そのままを写真に残している。そこには、男達がめざす出世への欲望も復讐も野心も憎しみもない。ただ、ただ、あるがままの肖像である。歴史の波にのみこまれても、自己に忠実に、自分を裏切ることもなく見失うこともなく生きた彼女は、だから人生は美しいのだ。大切なのは、秘伝のレシピよりも、そこに生きてきた人生である。
181分間、ハンガリーの歩みをともにたどりながら、あっというまの100年だった。

監督:イシュトヴァン・サボー
制作: ハンガリー、カナダ、ドイツ、オーストリア (1999年)


■こんなアーカイヴも
・映画『ハンガリアン』
・ハンガリー人のおおいなる夢の実現
・映画『コンフィデンス 信頼』監督:イシュトヴァン・サボー
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2008.05.17 Saturday

『譜めくりの女』

ふピアニストが観てはならないのがこの映画。と言ってしまうと大げさかもしれないが、このとってもよくできたポスターをご覧になったら、ある程度音楽の知識のある方は、なんとなく鋭い音感でふたりの関係が想像つくだろうか。同じ黒い色のドレスを着た世代は違えどそれぞれ魅力的な女性たちは、”美人ピアニストによるデュオ”ではない。フランスの人気ピアニストと”譜めくりの女”である。ピアニストの黒は、華やかに音楽を盛り立てるためのドレスであり、彼女のために楽譜をめくる女性のドレスの黒は、めだたず邪魔にならず、その存在するできれば消したいための色である。
彼女達の視線が示すとおり、妙齢の女性がピアニストのアリアーヌ(カトリーヌ・フロ)で、暗くミステリアスな若い女性が楽譜をめくるために雇われたメラニー(デボラ・フランソワ)。
(以下、内容にふれております。)

メラニーは、ピアニストになることを夢見る少女。肉屋を経営する両親の期待のもと、コンセルヴァトワールの入学試験を受けるまでになったが、あるちょっとしたことをきっかけに動揺して実技試験に失敗した。彼女は、ピアノの蓋に鍵をかけて、ピアニストになる夢を封印したのだった。歳月が過ぎ、メラニーは短大を卒業して高名な弁護士ジャン・フシェクールの事務所に採用され働くようになる。ジャンが息子トリスタンの世話をする女性を探していると聞き、自らその役を申し出る。ジャンの妻は、あの時の実技試験の審査委員長であり、メラニーの憧れのピアニスト、アリアーヌだったのだから。。。


ふめ音楽に心理劇を融合させたサスペンス映画となるが、冒頭のメラニーの父親が仕事で豚肉の塊を切る場面から、入学試験への繋がりがうまく、いやがおうでも緊張感が高まる。この映画は、恐怖よりも、むしろ実技試験を受ける緊張、プレッシャーからくる緊張感に、観客も一緒になって我々一般人が我が身にも覚えのあるハラハラやドキドキをいやでも掘り起こされる再現ドラマである。だから、ピアニストは、観ていても寿命が縮まるだろう。
たった1回の受験の失敗でピアニストをあきらめる少女メラニーの心理や、あのくらいで動揺するようでは所詮ピアニストは無理、そもそも恨みの矛先を間違えていないか、という疑問が、展開していく意外なふたりの関係に思わず目が点となり、それもフランス風と解釈できなくもない。
室内楽でピアノを弾くためには、譜めくりをする方が欠かせない。あの譜めくりも、タイミングをあわせるのがけっこう難しいらしい。抜群のタイミングでそっと楽譜をめくる音楽知識や経験も要求され、できれば大柄でなく小柄でめだたない方という体格の注文から、決してとなりで観客のように音楽を体で聴いてしまってはいけないなどなど。ピアニストは神経質で繊細だからね・・・。
ピアニストが主役で、本来補佐役の譜めくりなのに、繊細な音楽家としての神経をもったアリアーヌは、理想的な譜めくりをしてくれるメラニーに依存していき、彼女がいないと演奏ができなくなり、やがては支配されていく。以前の私だったら、そんなことありえない、と一笑に付しただろうが、青柳いづみ子さんの「ボクたちクラシックつながり」を読むと、ピアニストになるのはとってもとっても大変なのに、ピアニストになれてももっと別な意味でもとってもとっても大変なのがわかるから、アリアーヌの”あがる”現象や、メラニーに翻弄されていくのも、痛々しく同情できる。だから、ピアニストが観たらその痛さがつらいと察せられる。
アリアーヌの弁護士である夫と可愛い息子と住む郊外の邸宅が、本作品でも見どころである。広い緑の芝生。英国ほどクラシック過ぎず、米国流の成金趣味でもなく、イタリアほど甘いセンスに走らない、シックで洗練されたインテリア。その瀟洒で夢のような屋敷の女主人は、アリアーヌ。けれども、その資産のすべては、弁護士である夫のもの。離婚されたら、彼女は息子をおいて、身ひとつで出て行かなければならない。妻の演奏の出来栄えを鋭く批評する夫は、彼女にとっては一番厳しい判定士である。地位も名声を手に入れ、すべてのピアニストを夢みる少女の”生活と人生”を手にいれていても、そこにあるのは人知れず孤独を抱えているゆるやかに老いに向かっている女性の姿だ。
夫が、ピアニストという肩書きや才能がなくとも彼女を愛しているのなら、もっと多くの友人に恵まれていたら、アリアーヌはメラニーの罠に落ちることはなかっただろう、というのが私の感想。メラニー役は『ある子ども』で注目をあびたデボラ・フランソワだが、すっかり成熟して綺麗だが近寄りがたいミステリアスの役を好演。

京都にも半年間滞在していた経験もあるヴィオラ奏者で音楽大学の教授でもある監督のドゥニ・デルクール。多くを語らず、静かで余韻があり、観客に余白を書いてうめることを求める作品は、一昨年のカンヌ国際映画祭でも評価が高かったそうだ。
でも、やっぱりピアニストにはお薦めできないのだが・・・。

監督・脚本:ドゥニ・デルクール
2006年フランス制作

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2008.05.14 Wednesday

「モーツァルトが求め続けた『脳内物質』」須藤伝悦著

もモーツァルトの音楽が聴いていると、病気の症状がやわらいだ、学力が向上したなどと、様々な”モーツァルト効果”が一部喧伝させているが、おおかたの人は商業主義にのせられないよう、これらの似非科学に耳を傾けることがないだろう。実際、科学的に納得いく根拠がないことから、専門家でも真偽がわかれているそうだが、著者はこれまでの説を大胆にひるがえし、様々な状況からモーツァルトはドーパミン欠乏によるてんかん症を患っていて、自らの病を癒すために無意識のうちに”心地よい音”を求めて作曲していたのではないか、という結論に至った。
分子量153の小さな化学物質のドーパミンは、運動・学習、情動などの高次脳機能を調節する神経伝達物質で、別名”快感物質”ともよばれ創造性をつくる鍵を握っているともいえる。

今日残っている資料から、あきらかにモーツァルトは決して健康ではなかったとは多くの人が感じるだろうが、著者の”診断”によると、モーツァルトは少年時代からてんかん症を患い、後に統合失調症を併発したと推察している。著者はピアノ好きの共同研究者が、モーツァルトの音楽を弾いている時、飼っているラットがおとなしくなるという話から、「喜遊曲」などあかるく美しい旋律のモーツァルトの音楽を2時間ほど自然発症高血圧ラットに聞かせる実験を行い、その結果、カルシウムやドーパミンが18%も増えたということだ。これは音楽によって血液中のカルシウムが増加し、その増加したカルシウムがドーパミンの合成を高めて血圧を下げるという治療効果につながったと分析される。しかし、「美しい音楽」という抽象的な理由ではなく、さらに一定の高周波数領域の音がドーパミン合成を促す効果をもつこともつきとめた。
音楽好きだったら納得されるだろうが、モーツァルトの音楽は他の作曲家よりも高い周波数領域で、透明感溢れる純粋なゆらぎの効果がふくまれている。モーツァルトは、物理学者の小柴昌俊さんのおっしゃるように間違いなくアインシュタインよりも天才だ。しかし、彼はドーパミンが減少する病のために少年の頃から苦しみ、その病を癒すために美しい曲に中に、ドーパミンを増やしてくれる高音域という音符を豊富に取り入れ、数多の名曲が後世の我々の心も癒してくれるようになった。逆転の発想が斬新であり、その研究報告も世界的に評価されつつある。

私たちの脳には、数百億以上の神経細胞があり、感情や行動のあらゆる生命現象を調節している。その活発な活動の主役が神経伝達物質である。恋愛感情、怒りや感動など、あらゆる精神活動や心の現象も、いつか、単純な化学反応の結果として現われる現象と物質レベルで語られる時代がくるであろう。この化学反応のわずかな差が、その人の個性として成り立つという考え方には、私もおおいに共感する。また著者によると、モーツァルトの後期の音楽には、てんかん症から統合失調症を併発した影響があらわれているということだ。その分析がたとえ的外れだとしても、私はあかるいのに哀しみの感じられるモーツァルトの音楽にいつもなぐさめられ、間違いなくこころを清められてきた。

先日観た映画『ラフマニノフ』でも、ノイローゼになって鬱状態になったラフマニノフが、精神科医の心理療法を受ける場面があったが、様々な精神疾患に悩んでいた作曲家が驚くほど多いそうだ。チャイコフスフキーも12回にもわたる鬱病期を経過したという研究論文が残っているのだが、それによると内因性鬱病の患者は、『悲愴』を聴くと病状が悪化したという報告もある。モーツァルトだけでなく、音楽にはまだまだ未知の脳の働きとの関連性や影響、効果がありそうだ。
若い人を対象に書かれた本書は、わかりやすく広範囲に音楽と脳細胞の関連が書かれている。生物や音楽の知識がなくても、関心さえあれば一読に値する。そして、一般読者対象に広く読まれるであろう本書に、具体的病名を挙げることを検討し、たまたまそうした病にめぐり合ってしまった方には、凡人にはない感性を大切にしほしいという著者の願いで結ばれている。

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2008.05.13 Tuesday

SMAP×SMAP「特別編 ザッツ・ジャパニーズ・エンターテイメント 蘇る日本映画黄金期」

今年のこどもの日、「SMAP×SMAP」という番組の「特別編 ザッツ・ジャパニーズ・エンターテイメント 蘇る日本映画黄金期 」で草剛さんがナビゲーターを務め、戦後まもない1950年代の日本映画黄金時代を代表する世界的にも評価されている3人の名監督、小津安二郎、溝口健二、黒澤明の作品を紹介するという好企画の番組が放映された。

広末涼子さんが演じる映画を愛する1953年の新聞初の女性記者を主人公に、芸能人の私生活中心の記事を書くライバルや、男尊女卑で映画を理解していない上司、彼女を応援する後輩という人物背景を中心に、主人公の批評が理屈っぽいと酷評されることへの悩みや葛藤を、当時の時代を再現したドラマが間にはいり、映画への夢と戦後の復興期の希望すら感じられるという物語自体にもひきこまれた。
す最初に紹介されたのが、小津安二郎監督。
畳の目を感じさせないローアングル、登場人物が全員正面を向いているカメラワーク、市井の人々の日常を描きながら、その映像は今観ても独創的で新鮮な感じすらする。「東京物語」(1953年)、「晩春」(1949年)の映像の一部が流れたが、妻の葬儀の後の笠智衆演じる初老の父親の孤独な姿、婚期をのがしかけた娘が父に挨拶する時の原節子の花嫁姿の華やかな美しさ、、、私も大好きな映画なので映画の内容を思い出しながら胸にせまる思いがした。


す2次が3年連続ベネチア国際映画祭を受賞した溝口健二監督。
ジャン=リュック・ゴダールをして好きな監督は「1に溝口健二、2に溝口健二、3に溝口健二」と言わしめた監督である。
溝口監督は、演技に大変厳しい監督で名女優の田中絹代も、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した『山椒大夫』撮影中では、ワンカットを何時間もかけて演技をして疲れきったところを本番に採用したというエピソードととものその名場面も紹介された。また同じくヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を取った『雨月物語』は、幽玄な映像で京マチ子の存在感がたっぷりである。


す最後は、文字通り日本映画界を代表する黒澤明監督。
もはやこの方の作品は、説明不要だろう。(私もクロサワを語りはじめたらとまらない・・・)
『七人の侍』の戦闘シーンは、何回観ても驚くほど迫力あるが、ハリウッド映画に対抗するためにあえて雨を降らせて撮影したとのこと。水しぶきを浴びる馬や兵士の脚が泥水をはねる場面が、緊迫感を盛り立てていることに気が付く。ハリウッドだけでなく、多くの映画監督にも影響を与えた。

最後は、その小津と溝口両監督に「天才」と称えられた清水宏監督の映画を石井克人監督が、完全カバーした映画『山のあなた〜徳市の恋〜』も。結局、この新作映画の宣伝目的かと思われる部分もなきにしもあらずの特別編だったが、ドラマと古典日本映画入門編としてはよくまとまっていた。

最近、日本映画は復活していると聞く。それにしては、寂しいことに私が観たいと感じる映画が少ない。それは何故かと考えているのだが。
ところで、映画とは、あなたにとってなんでしょうか。
小津安二郎監督は、こう応えている。


「泣かせる映画ではなく、人生を感じさせられる映画をつくりたい」
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